ぬるい水と夜

 なまえはトキワシティの池の前の地べたに腰を下ろしていた。いいつりざおを手にし、ポケモンが餌に喰いつくまでの様相を注意深く見つめている。とある任務が課せられていたのだ。
 目的はトサキントの角だ。その角が裏社会で高値で取り引きされているのである。加工して値打ちものにするのだ。それはロケット団の復興の活動資金とするにはもってこいの代物だった。サカキを呼び戻すためにアポロを始めとしたロケット団の幹部───もっとも、現在はロケット団ではなく無名の団体ではあるのだが───が眼をつけたのも当然だった。
 時刻は日付が変わった深夜帯。周囲の眼を掻い潜るには当然の選択だ。数少ない街灯によって池周辺は明るく照らされているが、ひとの姿はなまえ以外見当たらない。
 なまえは釣り上げられ地上に現れたトサキントの角を、ランスから支給された鎌でぎこぎこと切り離す。「ごめんね」角には神経が走っていない。しかし痛覚がないとは言え、なまえは眉尻を下げながら作業に移る。時間が経過すれば新たな角が生えてくるのもなまえにとっては幸いだった。
 用が済んだトサキントは機械的に池に戻す。なまえがこの作業を始めてはや二時間が経っていた。
 隣に置いてある麻袋のなかに切り離した角を入れる。気がつけば相当数を集めていた。
 なまえは再度つりざおの仕掛けを池へと落としながら、そろそろ切り上げどきだろうかと考える。そしてつりざおを引きずり込まれないように地面に固定しつつ、ポケギアを使いランスに連絡をするべきであろうか思案した。
 だが、ポケギアをポケットから取り出そうとしたそのとき「なああんた」と背後から声をかけられた。なまえはそれに飛び上がるほど驚き狼狽する。こんな夜更けに誰だろうと恐々背後を振り返る。すると、そこには茶髪の若い青年が立っていた。

「こんな時間に釣ってんのか?」
「えっ……」

 青年は不思議そうになまえのことを見つめている。幸運なことに、彼はなまえがトサキントを釣り上げ、挙句の果てには角を切り離して集めていることには気がついていないようだった。なまえはそれに人知れず安堵の溜め息を吐きつつ、内心焦りで満たされていた。
 青年の言う通り、こんな深夜にポケモンを捕まえるという言い分は苦しいような気がした。現に、彼は自分で言っておきながら訝しげになまえのことを凝視している。
 なまえが返答についてぐるぐると考えあぐんでいると、不意につりざおが反応した。それを眼にしたなまえは慌ててつりざおを掴む。その勢いでふわりと上着が浮かび、一瞬白い腹部が露出された。彼女はそれにも焦った。なぜなら、第三者に見られようならば詰問されることは避けられないような身体をしているからだ。
 釣り上げられたのはニョロモだった。ニョロモは地上に足をつけると、きょろきょろと周囲を眺める。しかし、いつまで経ってもバトルをしようとせず、また捕まえようとボールを出しもしないなまえを確認すると、彼女に水鉄砲を繰り出してからそのまま池へと戻って行った。
 なまえはびしょ濡れになり気まずそうに青年の方を振り返ると、彼は驚愕に眼を見開いている。彼女はぎくりとした。「どうしたんだ、その傷」そして、やはり見られてしまったと確信した。彼女は二重の意味で呻吟する。

「事故にでも遭ったのか?」

 心配そうに、しかしどこか興味深そうに訊ねてくる青年に、なまえは押し黙る。
 なまえの身体は傷だらけである。その原因は上司にあたるランスにあるのだが、そんなことは口が裂けても言えない。まして赤の他人になどもってのほかだ。
 それに、なまえはランスのことを憎悪しているわけでもなかった。ランスが暴力を働くのは、総べて自身に責任があるのだと考えているからだった。そのため、例え身体を傷つけられようが殴られようが半殺しにされようが、そんな彼のことを受け入れているのだった。
 なまえにとって、ランスとは救いの手を差し伸べてくれた人物に違いないのだ。それが一番の重要事項なのである。なまえはランスが命の恩人であると認識している。だからこそ、彼に自身の総べてを捧げるといっても過言ではない状況下にいた。
 沈黙が痛い。だが、青年はなまえの返答を我慢強く待機しているようである。なまえはそれにも恐怖を抱いていた。干渉されるのはランスが絶対許さないであろうからだ。
 いっそのことケーシィのテレポートで逃げてしまおうか。そう考え、モンスターボールを取り出そうとしたが、しかしそれよりも先に青年が自身の腕を掴んできたので、飛び上がる。

「な、なんですか!?」
「ジュンサーに相談する選択肢もある」
「え……」

 どうやら青年は勘違いをしているようだった。否、勘違いではないのであろうが、彼にとってはそんなことなど関係なかった。「あ、あの、違います。これは、えっと……」なまえはしどろもどろになりながらも口を開く。どうすれば打開できるのか。それだけを考えていた。
 そして、悩みぬいた結果、ポケモン研究家であると言い訳するに至った。

「ケンタロスの繁殖のこととか、調べてたら、その……」
「ケンタロスの繁殖? 気が立ってる時期だってのに無謀なことするんだな」
「でも、それが仕事なので」
「ふーん」

 青年はなまえの吐いた嘘には気がついていないようだった。「なら、今釣りしてんのもなにかの研究ってことか?」そう訊ねられ、なまえは頷く。

「夜中に活動するポケモンのことについて調べてるんです」
「研究家も大変だな」

 すると、青年は懐かしげに眼を細めた。なまえはそれにぎくりとする。なんだか長くなりそうだ───そう思ったのだ。
 青年はオーキドから初めてのポケモンをもらい、旅に出たらしい。研究家という職名を耳にして思い出が蘇ったと、そう言うのだ。なまえはその名を耳にしたことがあった。だがオーキドに関する知識はないに等しく、名前だけは知っているという状態だった。根掘り葉掘り訊かれてぼろが出ると取り返しのつかないことになる。研究家として働いていると取り繕っているのならば尚更だ。そうはらはらしていたものの、なまえは青年のポケモンに興味を持ってしまった。それはなまえの───ランスにしてみれば───悪い点だった。悪人になりきれず、無防備で優しい心を持っている。現に、金儲けのために捕獲していたトサキントに同情の念を抱いていた。ランスはその点をどうにかして矯正したいようであったが、それが難航しているのは言うまでもないだろう。根本から悪に染まっていないなまえはつけ入る隙を持っているようなものなのだ。彼はそれを危惧していた。そして今まさにその危機に陥っている。なまえはそのことを自覚していなかったが。

「ポケモン、なにをもらったんですか?」
「見せてやるよ」

 青年はそう言うと、モンスターボールを取り出し投げた。赤い光に包まれ出てきたのはリザードンだった。身体は大きいが小回りが利きそうな体躯。加えて肌の状態もいい。誰が見てもよく育てられていると、そんな感想を抱くリザードンだった。
 なまえはリザードンに近づく。「! 危な───」青年が動揺し間に介入しようとするのを横目に、そっと身体に触れた。彼女はそのまま顎の下に手をやり、ゆっくり撫でる。リザードンがぐるる、と太い鳴き声を放つその様を見て、青年は眼を丸くしていた。なまえは笑顔を浮かべて「かわいい」と言った。

「すごい。大切にされてるのが伝わってきます」
「……あんた、研究家になるのも納得できるな」

「こいつは気性が荒いんだ。ヒトカゲだったときはそうでもなかったんだけど」青年もリザードンに手を伸ばし、そのまま頭を撫でた。

「お兄さん、ポケモンを育てるのじょうずなんですね」

 なまえがリザードンの顎をくすぐりながらそう言い青年のことを見つめると、彼はまたもや愕然とした表情を浮かべた。それを見たなまえは身体を硬直させる。なにか誤った発言をしてしまったのか、それとも正体がバレてしまったのか、それらの可能性が浮上したからだ。

「あんた、俺のこと知らねえの?」

 そう言う青年に、やはりなまえは固まるのだ。その口振りから、彼はどうやら有名な人間であるらしい。だが、生憎ながらなまえは彼のことを知らなかった。なまえはカントー地方に関しては疎いのだ。そもそも彼女は自身の出身地すら知らない。記憶がないからだ。
 青年は頭に手を当て「マジかよ……俺、自分ではそこそこ名の知れてるトレーナーだと思ってたんだけどな……」彼はどこか落胆したような面持ちをしている。なまえはなんだか申し訳なくなった。

「すみません……」
「いや、いいよ。気にすんな」

 青年な明朗快活に笑いながらそう言う。「グリーン。俺の名前。今はトキワジムのジムリーダーしてる」彼───グリーンは、なまえに手を差し伸べながらそう名乗った。なまえは反射的に手を握り返す。

「一応ポケモンリーグのチャンピオンしてたこともあるんだぜ」

 だから知ってると思ったんだけどな。グリーンは頬を掻きながら言った。
 ポケモンリーグ。そう言われて思い返すのはあの男───ワタルのことだ。どういうわけか自身に頓着するあの男。なまえはぶるりと身体を震わせた。
 しかし、さすがにそろそろ撤退した方が好ましいかもしれない。なまえはそれを伝えようとしたが、それよりも先にグリーンが口を開く。

「なあ、ポケギアの番号交換しないか? あと名前教えてくれよ」

 なまえはどきりと心臓を跳ねさせた。そしてこれはまずい展開ではないかと冷や汗を垂らす。
 なまえは他人には個人情報を教えるなとランスから再三言いつけられている。だからこその恐怖だった。
 なまえのポケギアに登録されている番号はランスのみである。以前、それこそ未だ存在していたロケット団の一員だった際は、彼以外の番号も登録されていたのだが、気がついたら総べて消去されていたのだ。原因は不明。考えられるとしたら、ポケギアの不具合だろう。再度登録し直そうと思った矢先に、ロケット団の解散である。なまえは落胆した。だが、今となってはもはやどうすることもできないことに違いなかった。
 なまえがなかなか返答しない様子を見せるので、グリーンは再び彼女の腕を掴み、もう一押しする。「研究したポケモンのこととかさ、俺に教えてくれよ」そうすれば自分の勉強にもなる。彼はそう言った。
 なまえは苦悩している。このことがランスに露呈しまったそののちの仕打ちは嫌なほど予想できる。
 腕を振り払ってテレポートで退散すればよかった。ただそれだけのことであるというのに、なまえはそれができなかった。自身に関わるもの───とりわけランスによる束縛から逃れる術を求めていたのかもしれなかった。そのことはなまえにとっては実感することができなかったが、本能でそう察知しているのだろう。このままでは彼女はランスに喰い尽くされてしまう。そんな悲劇を。

「……なまえ、です」
「!」
「ば、番号は……」
「……これでよし。ありがとな」

 俯きながら、戦々恐々としながら、なまえは個人情報を打ち明ける。時折怯えたように周囲を確認する様相はグリーンにとって疑問を持つ態度だったが、彼は詮索するのは控えておいた。ほんの数十分前に出会ったばかりの少女に、根掘り葉掘り訊ねるのはどうかと思ったからだった。グリーンはポケギアを操作しなまえの名前と電話番号を入力する。なまえに関する情報は、のちのち得ればいい。そう思考したのだ。グリーンは今後も彼女と会う口実を見出そうとしていた。

「なあなまえ。俺のこと知らないってことはもしかしてカントーに来たのは最近ってことか?」
「え、えっと……そうなります」
「ならさ、次会ったとき色々紹介してやるよ」

───ポケモンリーグとか。そう提案したグリーンに、なまえは思わず後退りした。そんなことは絶対回避しなければならない! ポケモンリーグに赴くこと即ち、彼───ワタルとの遭遇を約束されたようなことなのだ。「す、すみません、ポケモンリーグはちょっと……」そう話すなまえに、グリーンはありがたくも特別違和感は覚えなかったらしい。「そうか? ならニビシティとか行くか。美味い名物があるんだよ」なまえは愉しそうに計画を立てるグリーンを、どこかぼんやりした頭で見つめていた。
 ふと、グリーンが我に帰る。時刻は深夜二時を回っていた。さすがに帰宅した方がいいだろう。そう思った。

「こんな時間になっちまったし、そろそろ帰った方がいいな」
「そう、ですね」
「送ってく」
「え!? あ、あの、大丈夫です!」

 なまえはケーシィを持っているのでテレポートで帰れるとグリーンに言った。すると彼はなるほどと頷く。

「じゃ、近いうちに連絡するよ」

 そう言うグリーンに、なまえはぎくしゃくと首を縦に振るのだ。今後、都合が合えば彼と顔を合わせることがあるのであろうが、果たしてそれに慣れることはできるのだろうか。少なくとも、現在のなまえにはそんな未来は見えていなかった。
 そもそもまた会えるのか、それも疑問だった。名前を教えポケギアの番号まで伝えてしまったが、逢引することはなまえにとって非常にリスキーなのだ。ランスに漏洩してしまったのちの始末は、想像に耐え難い苦痛を伴うに違いないのだ。ゆえに彼女は迷っていた。
 グリーンはなまえがケーシィを出すのを待機している。テレポートを指示するのを見送るのだろう。なまえはそんな彼の優しさに、じんわりと心が温かくなる感覚を覚えた。こんな親切な人間には久しく会っていなかったからだ。なまえは知らず知らずのうちに心が荒んでいたのかも知れない。
 なまえはモンスターボールを手に取りケーシィを出した。そして麻袋を持ち「ケーシィ、おねがい」と指示する。テレポートをする直前、グリーンが「またな」と言う言葉が聞こえた。

 ポケモンリーグの一角にある会議室。そこに各町のジムリーダーと四天王、そしてチャンピオンが集まっていた。議題は使用するポケモンの変更が必要か否か。挑戦してくるトレーナーに、過剰な威圧を与えるわけにはいかないのだ。レベル差が顕著であるのもいけない。適した条件を見出すために、会議は年に二度開催されている。
 今回の会議では、とりわけ変更点はなかった。会議が終了し解放された者は、みなぞろぞろと部屋から退室して行く。そのなかにはグリーンもいた。
 グリーンは部屋を出て間もなく、ポケギアを取り出しなまえに電話をかけようとした。実は今まで電話が繋がったことがなかった。多忙なのかも知れなかったが、彼はそれにもどかしさを感じていた。
 コール音が鳴っている。胸中はざわざわと落ち着きがなかった。そんななか、ある人物が彼の様相を窺っていた。グリーンはそれに気づかず相手の応答を待つ。
 やがて電話が繋がった。「はい、なまえです」声が聞こえる。グリーンはそれに顔を明るくし高揚した。

なまえか」
「はい」
「よかった。ずっと繋がらなかったからさ」
「す、すみません……」

 申し訳なさそうに項垂れているであろうなまえの様子が眼に見えているようで、グリーンは笑った。「今日時間あるか?」そう訊ねると、沈黙が訪れる。
 グリーンは柄にもなく緊張していた。暫くしてから、なまえは「大丈夫です」と言った。

「なら待ち合わせしよう。どこなら来れる?」
「え、えっと……トキワジムの前なら」
「よし。じゃあそこに十五時集合な」

 グリーンは手際良く集合場所を決め、なまえと会う段取りを決定した。
 そしてポケギアを切り、グリーンがリーグから出て行こうとしたそのとき、背後から声をかけられる。「グリーン。この後時間あるかい?」彼は後ろを振り向き、眼を丸くする。

「ワタルさん」
「バトルの手合わせをお願いしたくてね」
「あー……レッドいないですもんね。あいつのが適任なのに」

 ワタルはグリーンのことを静かに見つめる。グリーンはなにもかもが見透かされているような気がした。そしてなぜそのような眼を向けられているのかも理解できなかった。「構いませんよ。十五時まで切り上げられれば」そう言うグリーンを、ワタルは眼を細めて注視している。

「逢瀬か?」
「えっ?」
「すまないが、さっきの電話のやりとりを耳にしたんだ」
「そんなんじゃないですよ」

 グリーンはワタルの視線が厳しいように思えてきた。
 ワタルはロケット団がラジオ塔の件で解散してからというもの、なまえというひとりの少女を見かけていなかった。解散したその際に自由の身になったが、最後の会話からしてなまえはロケット団の幹部らと共に行動しているはずだとワタルは踏んでいる。そして恐らくは身を潜めているのだろうと考えていた。
 時間の合間を縫い、元悪党が根城にしていると思しきところを回ってみているも、成果が得られたことはない。彼らは隠伏するのがうまかった。さすが元マフィア軍団だと、関心さえ覚える。
 なまえという名の別人かも知れない。だが、今のワタルにとっては、そんな些細な情報も見て見ぬ振りはできなかった。
 ワタルは出し抜けに言う。「なまえちゃんという少女を探していてね」グリーンは首を傾げた。

なまえ?」
「ああ。個人的な野暮用があるんだ」
「俺、これからなまえっていう人と会いますけど、ワタルさんの言ってる人ですかね?」

 ワタルはなまえの身体的特徴を口にすると、グリーンは頷いた。

「やはりそうか」
「……ワタルさん? なまえがどうかしたんですか」

 眉間に皺を寄せるワタルを眼にしたグリーンは、疑問に思わずにはいられなかった。どうやらただの探し人とは異なるような雰囲気を纏っているのだ。グリーンはそれに、どういうわけか肌を粟立たせる。「いや、なんでもないよ。引き止めて悪かった」ワタルはそう言うと、グリーンに背を向けて歩き去っていった。
 ワタルにとっては、なまえが存外近いところに在ることに安堵していた。他地方───それこそカロスやアローラ、ガラルなど、遠方に身を隠しているのだとしたら、捜索する難易度が一層上がるに違いないのだ。だが、カントーやジョウトを活動拠点にしているのだとしたら、自力で発見することができそうだ。彼はそれに安堵していた。
 グリーンは遠くなってゆくワタルに怪訝そうな瞳を向けるが、やがてその場から立ち去り、十五時までにトキワジムへ向かう準備を始めた。