何から何まで愛してね

 ゴルバットの様子がおかしい。なまえはそわそわと落ち着かないその姿を心配そうに見つめている。ポケモンセンターに連れていくべきか悩んでいるのだ。今は解散してしまったと言えど、元ロケット団であると認知されるのは危険だからである。とは言え、なまえは一般人に溶け込むことに極めて長けており───そこには本来の人間性が表れている───彼女の行動で幹部らの足がつくとは考えにくい。アポロもそれは理解しているようで、基本的になまえの行動に制限を設けてはいなかった。ただ、ランスは別だった。彼はなにかにつけてなまえのことを束縛している。己が彼女に居場所と生きる理由を与えたと思考しているからだ。なまえを思うがままに使役する権利があるのだと確信しているのである。ランスの目的などなまえには知る由もなかった。もとより、なまえなまえで路頭に迷うことを回避できたのは彼の存在があるからだと理解しているので、抵抗も反抗もするつもりはないのも事実である。
 ゴルバットはなにかを訴えかけるような眼差しでなまえのことを見つめる。なまえはその意味ありげな視線にハッとした表情を浮かべると、そのままゴルバットのことを抱きしめた。そして「大丈夫だよ」と声をかけて優しく身体を撫でると、光に包まれた。
 進化だ。ゴルバットが進化しようとしている。
 なまえは発光するゴルバットを解放すると、その光景を注視する。愛するポケモンの進化する瞬間を一片たりとも見逃したくなかった。ゴルバットを包む青白い光は次第に小さくなり収まっていく。すると、やがて鮮やかな紫色の体躯をしたクロバットが姿を現した。それを確認したなまえは満面の笑みを浮かべて抱き着く。

「クロバット、進化おめでとう!」

 なまえがそう言うと、クロバットはうれしそうな鳴き声を上げ、大きな翼を広げながらくるくると頭上を飛び回った。なまえはそれを微笑みながら見上げている。
 ゴルバットは十分に懐いていなければ進化ができないポケモンである。なまえは己の愛情がゴルバットに伝わっていたことを実感し、心の底から喜んだ。ロケット団に入団して初めて支給されたポケモンだったので思い入れが強かったのもある。思わずズバットだったときのことが脳裏を過ぎり、満足げにうなずいた。そうしたなまえにとって、記憶が失われていると自覚したときからすでに手持ちにいたケーシィも大切な存在である。初めて出会ったときのことを覚えていないのは悲しかったが、それでも大事なパートナーであることに違いはない。二匹のことを大事に育ててきたことも確かだ。
 ロケット団とは、ポケモンを道具のように扱い、私利私欲のために行動する慈悲のかけらもないマフィア軍団である。現在は解散しているものの、行方知れずのサカキを筆頭に、非人道的な事件を数えきれないほど引き起こしてきた。指名手配されているものもいるほどだ。したがって、一般的な感性を持っていれば極力かかわりたくないと結論づけられる反社会的勢力なのである。しかしながら、なまえはその一員であったものの、本質は悪に染まっていない。完全な悪人になれないのだ。加えて悪質性の高い任務も果たせないときた。つまりはロケット団の基本が備わっていない。したっぱですら完遂できる目標が達成できないのである。努力はしている。それでも結果につながらないのが現実だった。だが、結果を残せない団員は見限られ、それ相応の処分が科される。なまえもそれは理解していたため、いつ捨てられるか気が気でなかった。居場所を失うことを恐れているからだ。なまえはランスに感謝していた。彼に従えば、この先途方に暮れることはないと確信しているからだった。どのような仕打ちを受けても総べて己に問題があると判断する。なまえのなかにはそのような確固たる思い込みがあるため、第三者が介入することは困難極まるかもしれない。決して彼を咎めることをせず、自責の念に駆られる傾向にあるのだ。
 無論、なまえが無能であることは幹部も承知の上である。しかし、だからこそ利用価値のある存在であると判断していた。実際、なまえがいたことで金銭的な交渉が滞りなく行われたこともあった。なまえが取引人として代行すれば、警察に警戒される確率が極端に低下するのだ。そこには滲み出る人徳が影響しているに違いない。それにどういうわけか、ロケット団のなかでは常識の命をもって償うという然るべき処分を回避できているなまえは、実はすでに見放されて対応することすら煩わしいと思われているのかもしれないと怯えているものの、いつしか与えられる任務は現場の下見や一般市民に紛れて遂行できるものへと移行していくものだから、ほっと胸を撫で下ろす日々が続いているのだった。
 そんな悪人になりきれず任務完遂もできないなまえは、ポケモンには目一杯の恵愛を注いでいる。ゆえのゴルバットの進化だ。

「ランスさま、よろこんでくれるかなあ」

 なまえはゴルバットが進化したことによって、ロケット団復活に向けて一助になるかが気がかりだった。なまえはいつだってランスの───ひいてはアポロの───力になりたかった。そこには一種の依存があった。今生きていられるのはランスがいるからで、右も左もわからない己に手を差し伸べてくれた大切な存在であるからだ。なまえは感謝していた。
 なまえが頭上を飛び回るクロバットを眺めていると、背後から声をかけられた。

「よう嬢ちゃん」

 なまえは野太い声の方を振り返る。するとその先には暴走族のひとりである青年がいた。彼の跨っているバイクは唸り声を上げている。ここ八番道路にはなまえたちが拠点としている一軒家があったが、暴走族が屯している場所でもあった。一見距離を置きたくなるようなごろつきが集まるため、市民は近づこうとしない。それが皆に好都合なところだった。

「暴走族のお兄さん」

 なまえはにこにことひとの好い笑みを浮かべ、青年のことを見つめる。どうやら恐怖しているようではないようだった。実は密かに親交を深めているのだ。ランスたちが家を空けている間ずっと引きこもっているわけにもおらず、社会情勢の情報収集も兼ねて外出しているためである。はじめこそ強面の暴走族に緊張したものの、会話をしてみると彼らは存外常識人で、警戒する必要はないのだと自己判断をした。
 なまえは人当たりがいい。誰だってそう感じるであろう。だからこそつけ込まれる隙がある。その点、ランスは危惧している。
 青年はバイクから降りエンジンを切ると、なまえのクロバットを見上げて「見てたぜ! 進化したんだな」と言った。

「はい! 大事にしていたのが伝わっていたみたいでよかったです」

 なまえがそう言うと、青年は腕組みをしてうなずいた。そしておもむろにモンスターボールを手に取り、なかからドガースを出し頭を撫で始める。「こいつを見てもらいてえんだ」第一印象の風貌からは想像しにくい優しい手つきだった。なまえは彼が心根の優しい人物であることも勘違いされやすい人物であることも知っていた。
 なまえもそっとドガースに触れ、じっと見つめる。至近距離で観察するなまえを気遣って噴き出すガスの量を調節してくれているようで、刺激臭を感じない。涙も出ないし咳き込むこともなかった。加えて表情もいい。大切にされているのがわかる状態だった。自信に満ちた様相と行き届いた自己管理に、なまえは進化が近いことを悟る。

「お兄さんのドガースも、そろそろ進化しそうですね」

 まっすぐな眼差しでそう言われた青年は、うれしそうに破顔した。「本当か!?」彼の食い気味な反応に、なまえは笑みを浮かべながら首を縦に振る。彼が日々たゆまぬ努力をしていることを目撃していたからだ。実を言うと、彼は通りかかるポケモントレーナーたちとのバトルで勝利を収めたことがない。その悔しさを原動力に特訓を試みているのだ。野生のポケモンとのバトルを繰り返し、レベル上げに勤しむ。その姿を眺めていたなまえに気がつき声をかけ、知らず知らずのうちに交友関係を築いていったのである。今まで精を出してきたことが、実ろうとしている。なまえ含め、青年にとってこれほどうれしいことはなかった。
 ドガースがなまえに擦り寄った。なまえはそれを非難するように間に割って入るクロバットを優しく撫でる。

「そういや、今日は上司はいねえんだな」

 青年が周囲を見渡しながらなまえに訊ねる。彼の言う上司、、が幹部らを指すのは言うまでもない。八番道路に居座る暴走族にとって、なまえたちの姿は見慣れたものだった。深夜に外出して朝方に帰宅することはざらにあるし、幹部は毎回まるで己の正体を欺くかのように髪色や服装の系統を変えている。日夜問わずバイクを走らせている暴走族は、そのことを認知していた。あまりにも怪しいことに違いはないが、しかし疑問を抱いてはいないようだった。なまえの職場がまさか元ロケット団であるとはにわかには信じがたいことだからである。なまえと関わるものは、いい意味でも悪い意味でも毒されるのだ。極めて単純で無害そうななまえが、まさか犯罪を犯している上司とともにいるだなんて誰が想像できようか。なまえは皆の目をくらませるには十分すぎる逸材だった。もっとも、それはランスが眼光を鋭くする要因のひとつでもあるのも事実だ。
 なまえは青年を見上げると、少々悩んだのち「いまは、……お仕事中なんです」と言った。

「たぶん、そろそろ帰ってくると思います」

 なまえがそう言うと、図ったかのようにランスとアポロが姿を現した。青年はなまえの背後から、ふたりが己のもとへ───厳密にはなまえのもとへであるのだが、いかんせん威圧感を抱いてしまい、まるで己を目がけて歩みを進めているという錯覚を起こしている───やってくるのを確認した。そして同時にぎくりと身体を硬直させる。
 端的に言うなれば、ランスの眼がやばかった。見るからに殺気立っているのだ。ひとを射殺せそうな視線に突き刺され、背筋に沿って冷や汗が流れる。不機嫌な様相を微塵も隠そうとせずに、大股でふたりのもとへ近寄ってくるのである。青年は命の危機を察知する。そろそろ進化すると言われたドガースを交えて会話を続けたいというのが本心だったが、ランスの眼前でそんなことをするのは自殺行為に違いない。彼は慌ててバイクのエンジンをかけると「よ、よし。じゃ、俺はそろそろ行くな」と言う。アクセルを全開にしているようで、たくましい後ろ姿はあっという間に見えなくなってしまったのだった。なまえはその去り際に首を傾げざるを得ない。
 すると、モンスターボールの開閉スイッチが作動する音が聞こえた。次いで、ヘルガーの鳴き声がなまえの鼓膜を震わせる。振り返ったなまえはアポロのヘルガーに押し倒され、そのまま顔を舐め回された。

「わあ!……へ、ヘルガー、びっくりした」

 なまえは擽ったそうな声を上げる。興奮が冷めやらないヘルガーは、なかなかなまえの上から降りようとしない。そうしているうちに、ランスとアポロがなまえの傍らにやってきた。

「ヘルガー。その辺にしておきなさい」

 アポロがそう指示すると、ヘルガーは彼の隣にお座りをした。尾はぶんぶんと勢いよく振られている。アポロのことがだいすきだと一目でわかる行動だった。
 ヘルガーの毛づやは素晴らしいものだ。黒光りするしなやかな短毛、磨き上げられた二本の角。どこを見ても手入れが行き届いている。アポロを見上げるその瞳はまっすぐで芯が通っており、信頼関係も構築されているように窺えた。ロケット団の一員であることに違いはないが、訓練がなされていることが伝わってくる。ヘルガーはデルビルだったころからアポロの命令であればどんなものでも従い、結果を残してきた。それはサカキが去ってしまったと言え、マフィア軍団の頂点に君臨し部下を使役するアポロの相棒としてふさわしい貫禄であろう。彼は水面下で下準備を進め、いつだって玉座を明け渡す心づもりでいる。世界を牛耳る王たる存在は、サカキこそふさわしい。そう崇拝し、揺るぎない信念を抱いてやまないのだ。
 アポロの言葉でヘルガーから解放されたなまえが立ち上がる。するとランスは腕を組み、青年が脱兎のごとく逃げて行った方向を睥睨していた。

「先ほどの男は何者です」

 単調な声音。どうやら機嫌が悪いようだった。だが、なまえはランスがなにに対して憤激しているのかがわからない。なぜなら個人情報を漏洩したわけではないし、暗々裏に実行している活動の目的を暴露したわけでもないからだ。「ら、らんすさま……」なまえがびくびくと震えながらなにも言えずにいると、彼は「利用される可能性を考慮していないのですか」と吐き捨てた。

「ただでさえ急所が露呈しているというのに」

 ランス曰く、なまえは善人にも悪人にもつけ込まれる危険性があるらしい。事実、その認識は正しい。だからこそ可能な限り幹部以外と接触することは回避したいのだ。だが、それが現実的ではないことは火を見るより明らかである。
 なまえは奇しくも周囲を魅了する力を有している。記憶がないため断言はできないものの、形容することが困難な、まるで無償の愛を───慈しみを授けられてきたことが、肌を突き刺す勢いで伝わってくるのだ。大いなる寵愛を受けているかのように周囲の好奇心を刺激し、興味を惹きつけてしまうのである。その特性はなまえの長所でもあり短所でもあった。ランスはそれを利用されることを危惧している。
 なまえがしょんぼりと肩を落としていると、アポロは頭上を飛び回っているクロバットに眼をくれ口を開く。

「進化したのですね」
「は、はい! さっき、進化しました」
なまえ、よくやりました」

 アポロはそう言うとなまえの頭を撫でた。サカキの帰還を待機するしかない今、残ったものたちで対処するべきところは対処しておきたいのだ。そのためにはなまえの行動範囲を維持し、かつ労働が可能な範疇を拡大しなければならない。なまえがクロバットを入手したことで、任務を完遂するための手段が増えたことになる。例えば逃走経路の確保や標的となる建造物の制圧。そして抵抗するトレーナーの排除。逃走経路の確保に関しては今のところケーシィのテレポートで事足りているが、手立ては多い方がいいだろう。バトルを避けられない場合もあるはずだ。そうなると、進化をしてより強化されたクロバットが役に立つ。ただ、なまえはバトルに慣れていないうえに極めて弱かった。だからそういった任務は与えられていなかったのだ。いくらクロバットが戦力になるとは言っても、指示する人間が使えないと実力は発揮できない。アポロは今後、なまえのバトルに関する指導が必要であると思案した。

「そろそろ戻りましょう」

 ランスが厳しい表情で周囲を見渡していると、アポロがそう言う。その言葉にうなずいたなまえを追いこすようにクロバットが飛んでいき、家の扉前に着地した。それに続くようにして皆がなかに入れば、そこには既にアテナがいた。彼女の横には大きな袋が置かれており、なまえ不思議そうな面持ちで眺めている。

「アポロ。言われた通り、ピジョットの冠羽を集めてきたわ」

 アテナはそう言い、袋をアポロに渡した。彼はその口を開けて中身を確認する。なまえもそれに倣って覗き込むと、溢れんばかりの冠羽がつめ込まれており眼を丸くした。アテナがどのような方法でここまでの数を収集したのかわからず驚いたのだ。少なくとも、なまえには思いつかない非人道的な方法であることは確かである。だがそこまで考えの及ばないなまえは、アポロに「これだけあれば十分稼げますね」と言われたアテナを見て喜んだ。己の功績ではないにもかかわらず心底うれしそうに微笑むなまえに、アテナはにっこりと満面の笑みを浮かべる。

「アテナさま、おつかれさまです」
「ありがと。ねえなまえ、これから時間ある?」
「?」

 なまえはその発言の真意が掴めず首を傾げる。アテナからランスに視線を移動させ、続けてアポロを見るも、ランスは眉をひそめアポロは感情の汲み取れない面持ちをしている。

「ランス」
「なんです」
なまえのこと借りるわね」
「は?」
「さあなまえ、行きましょ」
「? アテナさま、どこに行くんですか?」
「それは行ってからのお愉しみよ」
「……誰が許可を」
「あらあら! 悔しければ自分もそうしたらいいじゃない?」
「……………………」
「ら、らんすさま」

 なまえは見るからに機嫌が急降下したランスを青い顔で窺うが、アテナが手を引くので、なにも言えぬままに強制退場させられてしまった。
 ランスは厳しい顔をして慌ただしく閉められた扉を睥睨する。相変わらずいけ好かない女だと顔をしかめながら。アテナはなまえのことに関するとことごとく面倒なのだ。会話に花を咲かせているところをひけらかされたり、意味ありげな表情を向けられたりする。まったくもって理解ができない。アテナからの一方的な愛情表現であればまだ許せるが、なまえが彼女に懐いているのも事実である。そこがまた苛立ちを助長してしかたがないのだ。なぜそうまでも単純なのかと。
 すると間もなく扉が開かれ、入ってきたものに憎悪を隠しきれない鋭利な視線で射抜いた。

「うおっ!?」

 だが、入ってきたのはなまえでもアテナでもなくラムダだった。彼は完全に巻き込まれただけである。

「お、おいランス? なんでそんなご機嫌ななめなんだよ?」
「……………………」

 そう問うても返答しないランスに、説明を求めたラムダはアポロを探す。彼はアテナから受け取った袋を奥の部屋に持っていこうとしているところだった。だが質問に答えが返ってこなくとも、原因はなんとなく察知することはできる。ランスの感情に起伏があるとすれば、それは往々にしてなまえが関与しているからだ。
 ランスは作戦が実行されているさなかは極めて冷酷で冷静である。たとえ助けを乞われても、慈悲のかけらもなく徹底的に制裁を加え、打擲し、逃げることを許さない。ロケット団の行く道を塞ぐものや裏切りものは総べて排除すべきである。そんな確固たる信念があると言うのに、たったひとりの少女のせいで理性がぐらつくなど、傍から見れば疑問を抱かずにはいられない状態であろう。ラムダは「なまえ~?」と名を呼び一刻も早く事態を沈静化させたかったが、常ならば笑顔を浮かべて駆け寄ってくるはずのなまえは姿を見せず、さらに剣呑な空気を纏うランスを横目に口角を引き攣らせる。

なまえならいませんよ」
「そ、そうみたいだな……」

 袋の移動を終えたアポロが奥の部屋から戻ると、なまえは今現在ここにいないことを伝えられ、ラムダは溜め息を吐く。こんな息苦しい空間を癒す安らぎであるなまえの存在は、彼にとっても大切なものだった。ラムダもまたサカキの帰還のためならばどのような犯罪にも手を染めるという強い決意があるが、それでも心が荒むときもある。そんなとき、なまえは貴重な人間だった。与えられる任務の類は限られてくるが、長所を活かせる作戦を充てられるのが一番だ。無理をすれば命を落とす危険性もある。一見すると使えないしたっぱであるなまえは、幹部らからすれば切り捨てて当然であるものの、どういうわけかそれ以上の価値があるようにも思えるのだった。
 ほかのしたっぱたちからすれば、なまえは疑問を抱かずにはいられない存在だった。任務を失敗に終わらせたことは数えきれないほどあるからだ。本来ならば処分を避けられない立場でいるはずなのに生きている。そのことが信じられない。あからさまに贔屓されていると私怨を抱くものもいたが、しかしランスの配下に所属していたため、そんなことは口が裂けても言えやしない。ラムダやアテナは比較的友好的で部下にも優しい人物であるが、ランスはそうではないからだ。ただロケット団が解散し団員がいなくなってしまったので、なまえは図らずもほかのしたっぱたちから嫉妬されているという事態から解放されたのだった。
 とは言え、なまえがいないこの空間はラムダにとって極めて息苦しいものだった。双眸にぎらぎらと不穏な色を揺らめかせるランスは恐ろしいのだ。そして呼吸苦に見舞われる雰囲気を打ち破るように手を鳴らしたアポロがランスとラムダを目視し「さて」と口を開いた。

「今後の我々の目標は団員の確保です」
「まあそうだよな。金はだいぶ集まったし」
「ですので、カントー以外の地方にも足を運びます」
「えっ? ここだけじゃ駄目なの?」
「サカキ様のご意向は全世界の支配。そのための選択肢は増やしておきたい」

 アポロはサカキ至上主義で、彼の目的を達成することになによりも重きを置いている。そのためにはカントー地方以外にもロケット団の勢力を拡大させ、世界を牛耳る下準備を進めることが重要であるのだと言った。各地に拠点を設けることができれば、サカキの野望を実現しやすくなる。ゆえに団員の数を確保する必要があるだろう。だが資金が潤沢にあると言え、無計画に行動範囲を広げるのはあまり得策ではない気がする。安易に団員を増やして幹部たちの居場所を特定される危険性も否定できない。勧誘に成功したとしても即座に連携が取れるわけではないのだ。軽率な情報漏洩を防ぐためには信頼関係を築く必要だってある。ラムダは顎の下に手をやりアポロに訊ねる。

「とりあえずの目標はどうする?」
「まずはカントーで利用できる従順な者を用意する必要があるので、もう少々ここで生活します」
「その方が効率いいもんな」
「ある程度の目処が立ったらホウエンに行きましょう」
「ホウエンか! いいねえ」

 なんか旅行みたいだな。ラムダはそう言いかけて慌てて手で口を押さえる。遊びではないのだ。それゆえ気の抜けたことは口にできないのだが、思わず口が滑ってしまった。ラムダは冷や汗を流しながらちらりとアポロに視線をやる。だがアポロは特段気に留めていなかったようで、けろりとした表情で「そうですね」と同意した。ラムダは拍子抜けして眼を丸くする。

「一般市民の観察を要します。一見善良な市民を味方につけることができれば、計画が滞りなく進展することもあるでしょうから」
「まあそうね……」
「そのためには我々も紛れ込む必要があります」
「それなら得意分野だぜ!」
なまえとアテナが帰ってきたら計画を立てましょう」
「……そういやふたりってどこに行ったんだ?」
「チッ」

 ラムダが問うと、返ってきたのはランスの憎悪の籠められた舌打ちだった。「大方カフェにでも向かったのでは」そう答えたアポロに、ラムダは黙り込む。まるで己が悪いとでも言うかのようにランスに睥睨され、逃げるように視線を逸らした。それでもなお視界の端に捉えるその姿に、彼はなまえの帰宅を心の底から待ち望むしかない。