かがやきの月白

 繁盛していると思しきバーの前にて、死角を掻い潜るようにして設置されているカメラが、或る映像を記録していた。店から出て愉しそうに歩く影と、その後ろを歩く影。本来ならば大して気にも留めない場面だったが、今日はなんとなく興味が惹かれ、拡大して確認する。それでもなお画質が劣化しないのは、さすがの技術であると言えよう。
 同じ場面を繰り返して確認する。再生しては一時停止し、巻き戻す行為を反復する。幾度も注視して見れば見るほど、好奇心が唆られる映像だった。
 テレビ型の顔をした男───ヴォックスは、鋭く眼を凝らす。暗がりとは言え、彼の手にかかれば、そんなことは障壁にすらならない。カメラの設定を巧みに操り、液晶パネルに鮮明に映し出される片方の人物は、見慣れたものだった。彼のよく知る人物だったのである。
 エンジェルダストだ。ポルノ映画のスーパースター。彼はセクシー俳優として不動の人気を誇り、V軍団にも贔屓されている。要は金になるのだ。主にヴァレンティノに眼をかけられており、連日、毎度設定を変えては新しい映画を撮影する、という奴隷のような生活を送っていた。
 とは言うものの、最近のエンジェルダストはヴァレンティノに了承も得ずに引っ越しをし、撮影現場へ赴く頻度も減少している。ヴァレンティノはそれがひどく面白くなかった。エンジェルダストをセクシー俳優としての頂点へ君臨させたのは己だという自負もあったし、なによりも魂の契約により逆らうことなどできないというのに、抗おうとしていることが理解不能だった。これも、ヴァレンティノ曰く肥溜めホテル───通称ハズビンホテルの影響であると考えている。だが、今まで散々薬に溺れ、反社会的で非倫理的な言動が目立っていたのだ。ゆえに、彼はエンジェルダストには更生の余地がないと確信している。
 しかし、今はそれよりも注目する必要のある、見過ごしてはならないと考えられる事態が引き起こされている。ここで介入しなければ、のちのち後悔することになりそうだという直感が働いたのだ。
 そう、問題はもう片方なのだ。見かけたことのない影なのかも知れない。なぜ曖昧な表現になってしまうのかと言えば、その対象にはノイズがかかっているからである。常人であれば、およそひとであると断言できるかどうかも危ういだろう。ヴォックスには、その明瞭とは到底言いがたい、プログラムが破綻したかのような映り込みの特徴に見覚えがあった。とは言え、テレビを介したエンターテイメントの提供を生業としている彼にとっては、そんな不明瞭な映像を解析するなど容易にできた。むしろ、正体を突き止めたいという意欲が湧いてしかたがない。
 ヴォックスはそのノイズが“何者かの影”であると確信していた。
 ノイズがかかった影は、エンジェルダストによく懐いているようだった。時折抱きついては頬にキスをし、手を繋ぎ並んで歩き始める。地獄ではほとんどお眼にかかれない、なかなか平穏な光景だ。
 ヴォックスは眼を凝らす。ほかのカメラも駆使してふたりの動きを追えば、どうやら今現在地獄で話題沸騰中の、注目の的でありお笑い種でもあるハズビンホテルのなかへ入って行ったのを確認できた。
 これはネタになる。ヴォックスはにやりと口角を吊り上げた。
 残念ながらホテル内にカメラは設置されておらず───或る人物のおかげで不可能だったのだ───これ以上映像を通じての情報収集はできなかったが、それでも面白いことになるとは断言できる。
 ヴォックスは笑い声を上げ、スマートフォンを取り出した。

 なまえは赤い封筒の手紙を持ちながら、ぐんと背の高い建物を見上げている。
 ヴォックス・テック社。テレビ番組を中心に娯楽を提供し、地獄を牛耳る───と、ヴォックスは思考している───会社だ。盗撮カメラはなんのその、悦楽のためなら犯罪にも手を染める。もっとも、地獄における秩序は皆無に等しいので、そんなことは大した問題ではない。
 本日最後の郵便物。重要書類であるため、直接手渡しする必要があった。なまえは初めて踏み入れる建物にどきどきしながら自動ドアを通過する。一見すると誰もいないように見受けられたが、きょろきょろと辺りを見回していると、眼鏡をかけた男がなまえに気がつき近寄った。

なまえさんですか?」

 なぜ名前を知っているのか。なまえはただの配達員だ。数多くいるうちのひとり。えらい立場にいるわけでもない。だがなまえ #は疑問に思わなかった。

「そうです! お手紙を持ってきました」

 にこにこと笑顔を浮かべながら手紙を渡すと、ぺこりと頭を下げ、建物から出るために踵を返す───と、次の瞬間、目眩が襲いかかり、気がつけば見知らぬ部屋に佇んでいた。液晶パネルに囲まれたそこは、なまえに緊張感を与えた。
 ぱちぱちと弱い電流のようなものが表皮をなでる。静電気のようなそれに、なまえは瞬きをした。なにが起こったのか理解できず硬直するなまえの背後から、「やあ、気分はいかがかな?」と声がかけられる。慌てて振り返れば、そこにはヴォックスが佇んでいた。なまえは眼を丸くする。彼のことは知っていた。テレビでよく見る顔だからだ。
 ヴォックスは動けないなまえを横目に「キティ」と、召し使いに声をかけると、飲み物の入ったグラスを準備してなまえ #のところへと誘導した。なまえは状況が理解できず、なすがままにグラスを受け取る。「突然すまないな」そうは言うものの、本気で謝罪しているようには見えない。
 ヴォックスにはなまえと密会する理由があった。

なまえ。きみのことを調べさせてもらった」

 ヴォックスは街中に設置しているカメラを駆使し、そして己の特権をとことん利用し、徹底的になまえのことを調べ上げたと言う。

「どうやら、地獄に堕ちた憐れな天使らしいな?」

 エクスターミネーションの際、初歩的な過ちで片翼を切り落とされ、さらには頭上の輪まで割られてしまった憐れな天使。そんなかわいそうな元天使は、ホテルの経営を支えようと、健気にアルバイトをしている。
 ただ、なまえにはあまりにも警戒心がなかった。元とは言え、一応は天使だったのだ。敵対している悪魔の格好の餌食とされる可能性は大いにあり得るというのに。なかには天使と接触したいと思考するものもいる。背徳感に満たされるのだ。それに、なまえはどうしようもなくそれらの情欲をくすぐる特徴を有していた。それはヴォックスも理解している。
 エクソシストには、悪魔を駆除する権利があった。だが、ここは地獄だ。数の暴力で、たったひとりエクソシストを殺すことなど容易にできるのだ。それに、なまえはあまりにもよわよわだった。ほかのエクソシストからしたら、彼らの仲間という括りから除外される、そんな存在。取って喰われる好餌なのである。そんななまえを野放しにするなど、ホテルにいる輩は皆、頭のなかがお花畑なのか。魂の更生だのなんだのと宣っているくらいだから、それもまあ頷けるものがある。
 はたまた、手を出されないという絶対的な自信があると。接点を持ちたがる悪魔をあしらう不可侵の自信。なまえがホテルにいるということはつまり、ラジオ・デーモンと生活していることと同義なのだ。なにか恩恵でも───彼の場合、もはや呪術、、であると表した方が適当であるが───受けているとでも言うのか。
 ヴォックスは依然として硬直し、沈黙しているなまえに声をかける。

「ん? まさか私のことをご存じでない?」
「……あ! い、いえ、存じています! ヴォックスさん、ですよね」
「……」
「……? あ、あの」
「その通りだ」

 ヴォックスは満足げにうなずく。彼は己の地位に自信があった。「今日ここに招いたのは、ちょっとした頼みごとがあるからだ」そう言われ、なまえは首を傾げる。あいにく、初対面の相手に頼みごとをされる理由が思い当たらない。

「天使が地獄にいるという前代未聞の事態を無視するのは、実にもったいない! そこで、だ」

 ヴォックスはなまえに右手を差し出す。

「私と契約しないか?」

 ヴォックスにとってなまえは、利用価値のある存在だった。不思議と眼を惹く特徴によって、テレビ番組の視聴率はうなぎ上りであろう。加えて、悉くアラスターに連敗を喫している苦々しい状況を一転させることができるかも知れない。表向きは天使であるとは言及しないので、手を組まないかと。ヴォックスが言いたいのは、つまりそういうことである。
 ヴォックスは刺激的な娯楽を求めていた。
 なまえは困惑した面持ちでヴォックスの手を見つめた。「で、でも」恐る恐る口が開かれたところで、部屋の扉が開く音がした。彼は舌打ちをする。

「ヴォックス!!」

 出て行け、と怒鳴り散らそうと思ったが、来客───ヴァレンティノが、大きな足音を立てながらふたりのもとへ近づく。

「ヴァル。今は取り込み中だ。見たらわかるだろう」
「つまらねえこと言うなよ。俺にも権利がある」

 ヴォックスは面倒だと言わんばかりに溜め息を吐いた。「どこで知った」そう訊ねられ、ヴァレンティノは「お前の秘書に聞いた」と返答した。

「俺の映画に出るつもりはないか」

 疑問系ではなかった。
 ヴァレンティノは口角を吊り上げながらなまえの眼前にやってきた。なまえが手に持っていたグラスを奪い、床に投げ捨てる。グラスは割れ、中身がぶちまけられた。
 彼は高身長なため、なまえに威圧感を与えた。思わず後退しようとするが、腕を掴まれ未遂に終わる。そして吸っていたキセルの赤い煙をふきかけると、それはまるで生きているかのようになまえの首を回り、頬を撫でた。なまえは動けない。恐怖のあまり、呼吸をすることもままならなかった。ヴァレンティノはその様子を見て笑い声を上げる。

「天使が出演するとなると人気絶頂間違いなしだ」

 ヴァレンティノはそこまで言うと、長く厚みのある舌でなまえの輪郭をなぞるようにして舐め上げた。「ひっ」艶かしい動作。頬の肉をねぶり、ぬめるそれが押しつけられる。分泌された赤い唾液が頬を伝い肩に滴り落ちた。なまえの口からは引き攣った声が洩れ、足が震える。
 明らかに怯えているなまえを見たヴァレンティノは、声を上げて笑う。「イイ顔だ」腕を掴む手に力が入る。なまえは痛みに顔を歪めた。そのまま身体を押されて部屋の端に追いやられ、壁に背がついた。動きを制される。逃げられない。

「なあ? お前、よくうまそうだって言われるだろう」

 戦慄ものの声だった。なまえはどくどくと加速してゆく鼓動に、言葉が出てこない。
 悪魔にとって天使は、エクスターミネーション以外で接触することのない存在だ。つまるところ、なまえに関しては手の届かない清澄で無垢な存在。背徳感が刺激されてしかたがないのだ。ぞくぞくとした快感が腰から背骨に沿って走りぬける。加えてなまえは、どうしようもなく嗜虐心を掻き立てられる特徴を有していた。ヴァレンティノは両眼を細め、鋭い眼光でなまえを見つめる。
 キセルの先端で顎を掬われる。眼が合った。桃色のレンズ越しにかち合う視線は、まさしく悪魔のそれである。なまえはなにも言えない。怖じ気づいて息を呑むことしかできないのだ。
 ヴァレンティノのしなやかな指が下顎を撫で、頬を伝い、なまえの唇に触れる。そして口腔内に侵入しようとしたところで、声がかかった。

「ヴァル」

 ぴたり。ヴァレンティノは動きを止めた。

「あんだよ、ヴォックス。止めんな」

 ヴァレンティノはあしらうようしてそう言うが、ヴォックスの方を振り向いた途端になまえから距離をとった。「ンな怒んなって」ヴァレンティノはそう呟くと渋々ソファの方へ歩いて行き、荒々しく腰かけた。なまえはそのまま床にへたり込む。

「すまないな」

 ヴォックスはなまえのもとへ移動し、手を差し伸べた。そして「あ、ありがとうございます」と、震える手で彼の手を取ろうとし───弾かれた。
 ヴォックスが眼を見開く。なにが起きたか、瞬時に理解できなかった。なまえも眼を白黒させており、彼女の理解していたことが起きたとは考えにくい。再度触れようと手を伸ばすが、総べてが弾かれる。
 そして合点がいった。

「アラスタァアア~~~!!」

 そう、誰がどう考えたって、このやり口はあいつしかいない! 身体に触れる直前に、バチッ、と響く小気味のいい音が、酷く鬱陶しかった。ヴォックスは忌々しいと言わんばかりに、握り拳で壁を殴りつける。

なまえ、俺の眼を見ろ」

 あまりの屈辱に思わず感情的になってなまえの前に屈み込み、そう言う。なんの疑問も抱かず従順ななまえにほくそ笑みつつ、洗脳しようと能力を使うが、逆に気分が悪くなる雑音がかった電波のようなものが己の脳内に止めどなく侵入し、使えたものではない。彼はぐらぐらする頭を抱えながら立腹する。ここでも邪魔をするのか。アラスターはいつだって、ヴォックスの行く道に立ち塞がるのだ。到底許せたものではなかった。

「ハハ、ヴォックス! してやられたな」

 ヴァレンティノが煽るようにそう言う。ヴォックスは非常に面白くない。ヴァレンティノは触れられたというのに。アラスターは、どうすればヴォックスが不快感を覚えるのかを熟知しすぎていた。
 なまえは困惑し、「ヴォックスさん」と彼の名を呼ぼうとした。結果的に叶わなかったのだが。
 部屋のブレーカーが落ちたのだ。途端に不穏な空気に囲まれ、室温が数度低下したような気さえする。なまえの影が揺れる。まるで生きているかのように。
 誰もなにも言えない。妙な緊迫感が空気中に漂っている。口から言葉を発せれば、首を掻っ切られるかのような錯覚を抱かざるを得ない。なまえは血の気の引いた顔でうつむいた。手足が震えている。
 静寂に包まれていると、電源の点いていないはずの液晶パネルが、突如としてノイズに飲み込まれた。かと思いきや、設置されているスピーカーから憎たらしい声が流れてくる。

「おめでとう、友よ!」

 顔は見えずとも、にやけ面をしているのは想像に容易い。「誰が友だクソッタレ!」そんな呼称は願い下げだとヴォックスは叫ぶ。
 まだラジオ放送の時間ではないはずだった。それなのにアラスターの声がヴォックスのタワーに流れてくるだなんて、理由はひとつしかない。

「おやおや? どうやらとんだ勘違いエンターテイナーはご機嫌がななめらしい」
「うるせえ!」
「なにか不愉快なことでもあったのですかア~?」
「しらばっくれやがって!!」
「お戯れを!」

 抱腹絶倒するアラスターに、ヴォックスの機嫌は急下降する。ヴォックスはいつだってアラスターに弄ばれるのだ。
 ヴォックスは半ばヤケになってなまえに触れようとする。しかし、当然総べてが失敗に終わるので、恨みがましい声を上げた。アラスターの愉快な笑い声が部屋のなかに響く。
 ヴォックスが無駄な抵抗をしていると、不意に、周囲の一切の音が消えた。まるで空間が切り取られたかのような、異空間に投げ出されたかのような感覚。室内には、スピーカーからのおどろおどろしい、気味の悪い環境音のみが存在している。悪あがきを止めないヴォックスに痺れを切らしたのか、アラスターは嘆息する。

「諦めろと言っている」

 感情の汲み取れない声色。舌打ちをするヴォックスとは対照的に、なまえは顔を青褪めさせる。鳥肌が立ってしかたがなかった。
 なまえは静まり返る室内のなかで、固唾を呑む。そして己の足が、影に沈んでいくことに気がついた。ずぶずぶと身体が飲み込まれ、頭まで到達しようとしたとき「なまえ。……また後日」と言うヴァレンティノの言葉が鼓膜に触れ、ぞっと肌を粟立たせたのだった。

 ずるり、と気がつけばなまえはホテルのバーの椅子に着席していた。隣にはアラスターがおり、彼の影のなかから現れたことが窺える。突然眼の前に出現したなまえに対し、ハスクは特段驚いた様子もなく、「災難だったな」と言った。
 緊張の糸が切れたなまえは、思わず半泣きになり、カウンターに突っ伏す。紳士的なヴォックスはまだしも、あの異常なまでの興味を垣間見せるヴァレンティノが恐ろしかった。別れ際のあの言葉も、嫌な予感しかしない。
 なまえは隣にいるアラスターに声をかけた。

「アラスター。助けてくれてありがとう」
「……」

 アラスターはなにも言わない。彼の視線はなまえの眼ではなく、頬に向けられている。ぴくぴくと口元が痙攣していた。

「……? アラスター、どうしたの? 顔になにかついてる?」

 なまえはアラスターの様相を疑問に思い、頭の上に疑問符を浮かべながら不思議そうに訊ねると、彼の影から小さな悪魔が出現する。その悪魔は、どこからともなくハンカチを取り出し、ごしごしと不必要なほどに力強くなまえの頬を拭き取った。「い、いたい」思わずそう洩らす。

「穢らわしいそれを拭きなさい」

 吐き捨てるようにして言われた。ヴァレンティノにねぶられた箇所だった。赤い唾液の痕が残っていたのだ。なまえが悪魔に「ありがとう」と言うと、その悪魔は手を振ったのちに再度アラスターの影のなかへと帰っていった。

「感想はいかがかな?」

 アラスターがぱきぱきと音を鳴らしながらなまえの方を振り返る。

「感想?」
「恍けるなよ」
「!!」

 常よりもノイズが強い声でそう言われ、なまえは委縮した。アラスターは笑ってはいるものの、眼はどろりと不穏な色を揺らめかせ、逃げ出したくなった。思わず椅子から立ち上がるが、影を踏まれ、つんのめるようにして転倒する。
「そこまでにしておけ」そんなふたりの様子を見かねたハスクが助け舟を出す。だが、「お前に口出しされる謂われはない」と冷徹な声であしらわれ、沈黙するほかない。

「こ、こわか、った……」

 命の危機を察したなまえが震えながら正直な感想を述べると、アラスターが椅子から立ち上がり、地面に尻もちをついているなまえの顔を覗き込む。

「お気の毒に」

 憐れみではない、そんな表情はなまえをぞっと震わせた。
 ヴォックスはさておき、ヴァレンティノはなまえにとって恐怖の対象となった───のだが、今現在眼の前にいるアラスターも同等なほどに恐ろしく、ほろりと涙をこぼしたのだった。