燃ゆるほのお

 アダムは日々、頭を悩ませている。
 地獄に堕ちてハズビンホテルで生活をするようになり、それなりの時間が経過した。初めこそチャーリーたちに怨恨し敵意を抱いていたものだが、最近は順応しつつあることを自覚し始めている。しかし、アダムが心底憎悪し駆除したいとまで思考していたものたちと共同生活を送るだなんてただでさえ悪心が誘発される事態だと言うのに、気が緩むなど言語道断な状況である。とは言え、やはり心のどこかでは今現在己の置かれている環境をまるで当たり前であるかのように考えてしまうのだ。彼は甘んじていた。
 アダムはルシファーと契約を結ばずにいられることには感謝していた。そこにはチャーリーの計らいがあった。契約を結んだ暁には、現在のような平穏な毎日は約束されなかっただろう。ただ、それは世間で言われる平穏とは少々意味合いが異なる。ここは地獄なのだ。下級悪魔による定期的な襲撃はある。チャーリーたちがアダム率いる天使軍に勝利を収めたとは言え、そう簡単に彼らの意識が改革されるわけもない。未だホテルのことをお笑い種であると結論づけているものも存在しているのだ。
 襲撃されたことによる被害は大した問題ではなかった。地獄に堕ちたことで天使の光輪は失われ、その事実に伴い幾分か戦闘能力も喪失してしまったが、それでも一端の悪魔を殺す力は十二分にあるからだ。よってその襲撃も、まるで無意味であるかのように返り討ちにしているのである。
 それに、悪魔の襲撃に対する粛正はアダムにとって娯楽だった。彼らを手にかけるのは、アダムにとって地獄で生きていくなかで堪能できる愉しみのひとつなのである。それは天国にいたときとなんら変わりがない。本来ならばチャーリーは悪魔を粛正することに反対するのだが、正当防衛であると反論されれば、どうにも返答に困るのが現実であった。
 アダムは外出から帰還し、ホテルのなかに入る。すると、バーのカウンターに突っ伏しているなまえを発見する。

「お」

 思わず、声が出た。遠巻きに観察すると、なまえはぴくりとも動かない。恐らくは酔いつぶれている。つまるところ、アルバイトが終了したということなのだろう。責務を果たしたのちの酒は実に甘美で、アダムもよく知っている。
 なまえは健気にアルバイトを続けている。アラスターを除くホテルの皆は本当は控えた方がいいと思案しているのだが、なまえはそれを承諾しない。譲れない面があるからだ。
 なまえはチャーリーたちに恩を返したいのである。行き場のない己を受け入れてくれた感謝。それがなによりもなまえの原動力となっている。
 それに、なまえが悪魔の手により面倒ごとに巻き込まれたからと言って悪いことばかりではない。少なくとも、アダムやアラスターにとっては。彼らは悪魔を返り討ちにすることで得られる栄養分を求めているのだ。それは快感に近しい感覚である。
 アダムはなまえのことを様子見している。
 なまえはすこぶる酒に弱い。にも関わらず、酒を嗜むのは好きという、少々厄介な特徴を有している。泥酔したなまえはなかなか心臓に悪い。全員が承知の話だった。直接被害を被ったわけではないアダムであったが、彼は酔ったなまえがどのような言動を取るのかを傍観していたことがあったので、どこか胸中がざわめき立つ。
 アダムはどういうわけか緊張感を覚えながらなまえの元に近寄り、隣に腰かけた。幸運にも───なぜ幸運なのかと感じるのかは、彼は己のことであるにも関わらず知り得ない───ハスクは席を外しているようだった。アダムは柄にもなくそわそわしている。
 なまえは熟睡しているのか、アダムに気がつかない。彼は虚しさを抱いた。なまえの暴走に巻き込まれやしないかと、期待しているところもあるのだ。アダムは無自覚のうちに待望していた。積極的ななまえを身をもって味わいたい。そう願っていたのである。
 なまえは起きるそぶりを見せない。アダムはカウンターの上に頬杖をつき、なまえのことを見つめる。規則正しく上下する華奢な肩。髪が顔にかかっているものの、倖せそうな表情で寝ているのがわかる。

「……」

 アダムはなまえの顔がよく見えるように、人差し指でそっと髪の毛を避けた。本来ならば白い頬が、今は酒のおかげでほんのり赤みを帯びている。心臓が跳ねた気がした。うっすらと無防備に開かれた口からは、赤い舌が覗いている。過去に幾度も蹂躙してきたそれを眼にして、無意識のうちに固唾を呑んだ。
 アダムはその流れでなまえの頬に触れる。そのままツツ、と輪郭をなぞるようにして指を滑らせれば、なまえが身じろぎをする。彼は我に返ると、やましいことはなにもないのに、思わず指を離した。
 すると、なまえは眠たげな目を開けて起き上がった。目を擦り、周りを確認する。「……あだむ、さま?」とろけた眼と視線が絡んだ。

「バイト終わったんだな」
「……ん、はい」

 半ば呆れた声音でそう言えば、なまえは頷く。アダムは表情には出さないが───実のところ、そう思っているのは彼のみで、実際は口角が上がっている───内心ざわざわとしている。
 なまえは頭を上げると、じっとアダムのことを見つめる。紅潮した頬、涙の浮かぶ双眸。アダムは思わずぎくりとする。それらは彼の感情を揺さぶる状態だった。なまえはぼんやりとしており、だいぶ酔っているように見受けられる。
 今までの、いわゆる逃避、、という行動を選択されないのは救いだった。酔っていると言えど、逃れたいという思考に侵食されていないのは、アダムにとって大きな第一歩なのである。彼は己の言動を客観的に分析し、改善できるところは改善してきたのだ。もっとも、そこまで尽力できたのはチャーリーたちのおかげであると言える。アダムはなまえのことに関すると、どうにも一般常識に欠け、予想だにつかない言動を選択する傾向にあった。
 アダムはなにも言えない。まるで情欲に揺らめいているかのようななまえを眼の前にして、何か思うことがあるのか、ぐっと言葉を呑み込むほかないのである。

「起きたか」

 アダムが硬直していると、おもむろにふたりに声がかかった。ハスクが戻ってきたのだ。アダムはあからさまに嫌悪の表情を浮かべる。反して、なまえは「はすく~!」と、とろとろしながら嬉しそうな声を上げる。当然アダムは面白くない。己だけを見てほしかったのだ。だが過去の所業に鑑みれば、それはあまりに傲慢な願望である。ハスクはそんなふたりを見て、なにかしらの感情を交えた控えめな笑みを浮かべる。

「わかりやすいな」
「チッ」

 ハスクは意味ありげな眼差しでアダムのことを見やる。あまりにも汲み取りやすい感情だったのだ。アダムは舌打ちをする。だが彼にその自覚はなく、結果ハスクに嘲笑されたと捉えた。
 なまえの頭がぐらぐらと不安定に揺れ動く。アダムが思わず「おい、大丈夫か?」と支えれば、なまえはそのまま彼に寄りかかるようにして倒れる。アダムは再度硬直した。今までないくらいの至近距離だった。否、今以上に距離がつめられたことは数え切れないほどにある。しかし、過去を引きずっているアダムにとっては、現在のような距離感は大いに価値のある状況であるように感ぜられる。要は衝撃を与えたのだ。
 ハスクはウイスキーの瓶をあおると「気分はどうだ」と口にした。だが、返ってきたのはアダムのしかめっ面だった。

「気分ってどういう意味だよ」
「そのままの意味だが」
なまえが酔い潰れてんのを見た気分がどうだってか?」
「……おい、アダム。お前まさか気がついてないのか?」

 ハスクは驚愕の面持ちでアダムのことを凝視する。そしてアダムと、彼に寄りかかるようにしてふにゃふにゃしているなまえを交互に見る。アダムは苛立ちを隠そうともせずに「なにが言いたい?」と吐き捨てた。
 ハスクは真実を口にしてもいいのか悩んでいるようである。そんな様相を眼にしたアダムに、先を促される。そして、観念したように「甘えられたいんだろう」と言われた。
 ハスクのその発言に、思わず呼吸が止まる。時間が静止したかのような錯覚を抱く。彼の言葉を咀嚼し、ゆっくりと嚥下する。それでもアダムは、ハスクの発言を理解できない。

「は? 甘えられたい?」
「そう言ってる」
「誰が誰に?」
「そこまで言う必要があるか?」
「……」

 アダムはそう返答されると、途端に腹の底から形容しがたい感情が湧き上がるのを実感する。体温が急上昇する感覚を抱き、思わず口ごもる。だが、その反応はハスクの口にした言葉を真実であると認めたことになる。それにまた苦しんだ。
 頭を抱え悶えるアダムを見かねたハスクは、かろうじて意識を保っているなまえに声をかける。

なまえ
「……?」
「今はアダムのことをどう思ってる?」

 ハスクが緩やかに口角を上げて訊ねると、なまえは涙の浮かぶ眼を瞬かせて「あだむさまのこと?」と呟いた。アダムは過緊張状態になる。しかし返答を心待ちにしているのも事実である。彼は鼓動が加速するのを感じながら、ちらりとなまえのことを一瞥した。依然として紅潮した頬で、視線が絡み合い、慌てて眼を逸らす。
 ハスクは頷き、続ける。

「前よりはマシなんだろう」
「うん……まえのあだむさまは、こわかった、けど……いまは、ちがう……」
「………………、ぅ゛……」

 アダムは苦しんでいる!

「なんだ、随分と余裕がないな?」
「……」
「お前の行動が功を奏したらしい。今のなまえには嫌われてないようだぞ」
「…………」
「あだむさま」
「………………」

 なまえはアダムを見上げ、ぎゅっと抱きついた。彼は言葉を失い、言いようのない気持ちが溢れ出すのを実感している。息苦しさを覚え、胸元を押さえつける。「や、やめろ……!」かろうじて紡がれた言葉は震えており、言い及ぶことのできない想いに苛まれているようだった。だがなまえを引き剥がそうとはせず、焦燥しながらもこの状況下を感受しているように窺える。
 なまえも壊滅的なまでにひとが好かった。過去の過ちも、そののちの行動を改めれば己にとって害を為すものではないと認識するのである。例え爪の先ほどの、ほんの少しでも善意があれば、彼らはいいひとであると確信してしまうのだ。それが取り返しのつかない言動であっても。それはなまえの長所であり、かつ短所でもあった。だが、心のどこかに秘めたるなにかを抱えるアダムにとって、その傾向は救いであることに違いない。彼はなまえとの関係性を修復したかった。
 アダムはわななき、言葉を発せないでいる。その間、なまえはうとうとと船を漕ぐと、彼に体重を預けたまま再び夢のなかへと落ちていった。
 するとそれを見かねたのか、アダムの背後から「アダム~」と、愉しそうな声がかけられる。びくりと肩を跳ねさせて振り返ると、そこにはにまにまと笑みを隠さないチャーリーと、やれやれと呆れた様子のヴァギーがいた。

「なっ……どこから見てやがった!」
「最初からよ。……アダム、あなた私たちに全然気がつかないんだもの」

 アダムはなまえの隣に腰かけたことも頬に触れたことも、総べて目撃されていたことにひどく羞恥を感じた。大きな呻き声を上げたくなったが、眠っているなまえのことが気がかりで、耐え忍ぶ。それを見たチャーリーは、さらに笑顔を浮かべた。悪循環だった。踏んだり蹴ったりである。
 アダムは屈辱を感じ、拳を力強く握りしめる。そして恨みがましい眼でチャーリーのことを睥睨する。だが彼女は怯まず、それどころか余計に笑みを深くした。
 なにも言えないアダムに、ハスクが「部屋に連れて行ってやればどうだ」と口にする。

「言われなくともな!!」

 アダムは逃げるようにそう言い捨てる。しかしその口ぶりには見合わないくらい優しい動きでなまえのことを抱き上げ、のしのしと歩みを進めながら彼女の部屋に向かった。それを眼にしたチャーリーたちは皆、意味深に顔を見合わせたのだ。

 アダムはなまえをベッドに横たわらせると、深い溜め息を吐く。己の気も知らないですやすやと夢のなかにいるなまえを、恨めしいと言わんばかりの面持ちで見つめる。しかしそんなことは無意味である。彼も承知の上だ。
 静かに胸を上下させるなまえを見ていると、よからぬ想いが湧き出てくる。昔の己ならば、考えなしに行動に移していただろう。それを自覚できているアダムは、やはり改心できつつあった。なまえの立場になって物事を思考できているのだ。
 だが、今はどうしても触れたいと思ってしまっている。先のハスクの発言と、にたにた笑いを浮かべるチャーリーの姿。アダムは頭を抱えた。

「……」

 アダムはぼんやりとなまえの寝顔を窺う。無意識に、彼女の唇に指を触れた。うすく開かれた唇の形に沿って這わせ、時折弾力を愉しむ。そのまま口腔内に突っ込んでもよかった。だが、彼はそうしなかった。そして「……くそッ……」と、悪態を吐いたのだった。