ゆゆしいとし

 なまえは眼をまんまるくしている。何着もの服を宛てがわれては変えられ、困惑しているのもあった。「ふーん、やっぱ白が似合うね」満足気にそう言うのはヴェルベットだ。
 遡ること三時間。なまえはアルバイトに勤しんでいた。いつものように各家々を巡り、郵便物を配達しながら時たまにそこに暮らしている悪魔と───言うまでもなく、そのような悪魔は極めて僅少である───会話に花を咲かせる。そんな常と変わらぬ時間を過ごしていたのだ。最後にヴォックス・テック社に入り、ヴォックスの秘書にあたる青年に重要書類を手渡した。「今日もお疲れ様です」と微笑みをたたえた青年ににっこりと笑顔を返し、本日の仕事も無事終了したとうなずく。そして帰宅するために外に出ると、まるで待ち構えていたとでも言うかのようにヴェルベットに立ち塞がれ、「あんた天使でしょ」と言われたのである。それは疑問形ではなかった。
 なまえはヴェルベットのことを認知していた。ヴォックスの際と同様に、テレビを介して情報を得ていたのだ。彼女はデザイナーであり、定期的にファッションショーを開催する人物であると。
 ヴェルベットはなまえを利用価値のある存在であると確信していた。話題性に富むからだ。悪魔とは異なる存在感。皆の興味がそそられる、そんな格好の餌食であり、注目の的になる絶好の機会。つまるところ、いたく魅力的なのである。そしてその見立ては誤っていない。
 ヴェルベットは実際になまえと接触し、その思考が正しいと判断した。彼女にとってエクソシストとは、謀反を起こすべきであると憎悪する対象ではあるのだが、なまえにはそれがない。上級悪魔の会合でアラスターから入手していた情報。あまりにもエクソシストとは思えない言動の数々を耳にして好奇心が湧いた。接触する意義のある人物だと思ったのだ。
 ヴェルベットに腕を掴まれたなまえは口ごもった。己が元天使であることは口外するなと耳に胼胝ができるほど言いつけられているからである(もっとも、たとえ口外せずとも、なまえは誰が見ても悪魔には見えない)。難事への直面を回避するためにはホテルから出ない方が好ましいと心配されているが、それも現実的には難しいのだ。それになにより、なまえ自身が外に出ることを望んでいた。
 なまえの背後にはアラスターがいる。なにを思考しなにを思索しているのか、いまいち掴みどころのない男である。ただ、彼がいることで総べてにおいて抑止力になっているのは確かだ。彼はなまえのアルバイトをしたいという願望を否定しなかった。外に出れば面倒ごとに巻き込まれるのは大いにあり得るのだが───実際、なまえは現在進行形で巻き込まれている───彼にとっては大した問題ではないのである。
 一般的に、上級悪魔は下級悪魔よりも残虐性を孕んでいる。加えて、実力も権力も有している。そんな悪魔にすら、アラスターは勝利を収める未来しか見えなかった。下級悪魔であればなおさらのことである。ゆえに、なまえがとんだ災難に遭遇しても、お茶の子さいさいに万事解決へと導くことができるのだ。それがなまえの望まぬ対応であったとしても、彼には無関係なことだった。
 アラスターには絶対的な、揺るがぬ自信があった。
 以前、なまえがヴォックス・テック社でヴォックスとヴァレンティノと接触したとき、足がすくむような恐怖を覚えたときがあったが、アラスターはそれも面白かった。高みの見物をしていたと見せかけ、最後に介入する。なまえを己の采配でいいようにする優越感。アラスターはそれをヴォックスに見せつけるという方法で快感を抱いていた。
 ヴォックスは己の意思でなまえに触れることができない。アラスターがそう術を施しているからである。アラスターはなによりもヴォックスを揶揄するのが好きだった。どのような行動を選択すれば彼が恥辱を覚え、屈辱に見舞われるのかを熟知していた。

「レース素材がメインなのがいいかも」

 ヴェルベットは難しい顔をしてなまえと洋服を交互に確認する。どの服を着せてショーに出すか吟味しているようである。なまえは黙り込んでされるがままになっている。しかし、似合う洋服を見繕ってもらえることはうれしかったが、テレビに出るとなると話は別だ。そうは思っているものの、なかなか言い出せないでいる。ヴェルベットがあまりにも真剣で、それでいてどこか愉しそうな様子でもあるので、断ることに勇気を要したのだ。それはすこぶるひとが好いなまえの弱点だった。
 なまえが困り果てていると、不意にヴェルベットの後方にパチパチと静電気が生じる音がした。
 ヴォックスだ。なまえは彼の登場に瞬きをする。ヴェルベットに用事があるのかと思いきや、彼は「やあ、なまえ。久しぶりだな」と言った。なまえはどうやら彼は己に会いにきたらしいと察知し、思わず首を傾げる。ヴォックスはなまえのもとへ近づき、手を彼女の肩に乗せようとしたところで弾かれ、口角がぴくぴくと痙攣するのを自覚した。やはり、気に喰わない。脳裏を過ぎるのはアラスターの憎たらしい笑顔である。おめでとう、友よ! そう笑われた記憶がまざまざと蘇った。
 ヴェルベットはそんなヴォックスの姿を横目で確認すると、けらけらと笑う。

「それマジでウケるよね」
「……」
「てか、ここになまえがいるってどこで知ったの?」
「……俺の情報収集能力を舐めないでほしいな」

 ヴォックスはさらに「地獄一の情報通だぞ」と続けた。彼はいたるところに自社の盗撮カメラを設置している。ゆえに、地獄の情勢に関しては誰よりも早く情報を入手できるのだ。虐殺の一部始終を眺めることだってできるし、誰がどこでセックスに耽っているのかも把握できる。ここ最近は、いわゆる修羅場を傍観することに興を覚えていた。この地獄において純愛だのなんだのと論争し、次いで殺傷に移行する馬鹿馬鹿しい光景を嘲笑しているのだ。
 ここ最近のヴォックスは、粘着質になまえの動向を追っていた。カメラでは捉えられないが、プログラムが破綻したかのような、ノイズがかった映り方をするなまえを探し出すのは容易なことだった。なまえ自身の細かな動きは把握できないものの、周囲の悪魔の行動は手に取るようにわかる。なまえの状態とは反して明瞭に記録されるからだ。ヴォックス・テック社の技術は確かなものなのである。つまりはアラスターが極めて厄介なだけなのだった。
 観察しているさなか、なまえが様々な悪魔に直に触れられようとした展開は飽きるほど見かけてきた。彼はその都度一抹の不安を抱いているものの、毎度叶わない光景に人知れず安堵している。アラスターの行為は到底受け入れられたものではないが、それがなまえの身の安全に直結するのであれば彼女のためになるからだ。とは言え、そこに己が含まれているのは許せたものではない。ヴォックスは複雑な気持ちに苛まれていた。だが、いずれはボロが出るはずであろう。アラスターがアダムと戦闘したとき、アラスターも完璧ではないことを理解したのだ。その機会を見逃さぬように気を張りつめているのもまた事実であった。
 ヴォックスの発言にヴェルベットは「確かに」と笑う。その間も、視線はなまえと服を行き来している。
 思うようになまえと関われないヴォックスは静黙すると、ぐっと歯を食いしばる。アラスターに弄ばれているのが実感できるからこそ不満を抱かざるを得ない。彼はその感情を悟られないように「作業の進捗はどうなんだ?」とヴェルベットに訊ねた。彼女はそこでようやく彼の方を振り返り、視線が絡む。

「順調に決まってる。ただ、絞り切れない」
「ほう。……俺はこれが好みだが」

 ヴォックスは数ある洋服のなかから青いドレスを指差した。レースがふんだんに使用され、首元はクイーンアンネックとなっており、大胆に露出されている。ひとの眼を惹く肌見せを実現しているデザインである。ヴェルベットは彼が己の見解と合致したものを選択したので、「最高のセンスじゃん」とにやりと笑った。
 だが、彼女はなにか思い悩むことがあるようで、腕を組んで眉間にしわを寄せている。ヴォックスは「なぜ悩む?」と疑問を口にした。

「時間制限があるから」
「延長すればいいだろう」
「やっぱそう思うよね」

 ショーの開催時間を延長するのは、ヴォックスにとっては朝飯前なのである。ヴェルベットは「今回は変則的に動こうかな」とにんまり笑んだ。
 ヴェルベットは今まで、律儀に予定されている時間枠でショーを開催してきた。信念があるからだ。規約を遵守する、計画的な進行。プロとしての自負だ。普段の姿からは予想もつかない言動であるが、彼女はそれくらいショーに精力的なのである。制限時間内に収めるということに対して意義を見出していた。余韻に浸らせるのも戦略のうちだった。ただ、彼女にとってなまえはとても魅力的に映っているがために、それに従うのが惜しいと思慮していたのだ。異例な事態ではあるが、彼女にとってなまえは、そのような信念を揺らがすほどの影響力があった。出会って間もない関係性だが、それくらいなまえは周囲のものの欲望をそそる特徴を有していた。
 ヴェルベットはなまえの方に向き直ると、「なまえ、着せたいのが多すぎる。朝まで帰さないから覚悟して」と笑いながら言った。そして移動するためになまえの背を優しく押す。なまえは慌てた。このままでは本当にショーに出ることになってしまう。それだけは回避しなければならない。

「あ、あの」
「ん?」
「……でも、わたし」

 おずおずともの言いたげななまえに、ヴォックスとヴェルベットが顔を見合わせる。「不安なの? なんならリハーサルしてく?」なまえが言いたいのはそういうことではないのだが、その続きを口にすることができない。優しくしてくれることがうれしいのもあった。
 なまえにとってV軍団とは、恐ろしい集団という先入観があった。そこにはヴァレンティノの存在が関与している。初対面の成り行きは忘れられたものではない。ヴォックスは紳士的で優しい人物であると判断したが、ヴェルベットは未知であるという気がかりがあった。もしかすると、ヴァレンティノのように恐怖心が煽られる人物かも知れないという戦慄があったのだ。しかし、さまざまな洋服を宛てがわれては思考を巡らせる姿に印象が改められた。彼女はなまえが不安視するような人物ではなく、ほっと胸を撫で下ろしたのだ。したがって、拒否することができない。ゆえになまえの気持ちがふたりに伝わることはなかった。
 強制的に連れていかれたスタジオには中央にステージがあり、数多くの照明に囲まれている。広い会場に、なまえは緊張感に満たされた。もとより圧力に対して脆弱なため、余計に心臓が暴れだす。なまえは困り果てて周囲を見渡すことしかできない。

「ほら、こっち来て」

 ヴェルベットに手招きされ、なまえはびくびくしながら彼女のもとへ歩く。そしてステージの上に登らされた。ヴェルベットは「参考資料になるから撮影するよ」と言うと、撮影機材のある場所へ移動し、なまえにカメラを向けた。かちこちに動けないなまえに気がつかないヴェルベットは上機嫌のように窺える。
 だが、様子がおかしい。眼を凝らして何度も映像を確認しているのだ。液晶パネルに極限まで顔を近づかせては角度を変えて覗き込み、首を傾げている。なまえは現状に取り残されながら、ぽつんとひとり立って遠巻きから眺めている。

「ヴェル、俺も見学しても?」

 ヴォックスがスタジオのなかに入ってきた。そして眉根にしわを寄せカメラの液晶パネルを凝視しているヴェルベットに声をかける。

「ん? なまえはカメラには映らないぞ」
「は? なんで?」
「アラスターが関係している」
「初耳なんだけど」
「そうか。生で魅せるしかないだろう」
「……はあ」

 ヴェルベットは溜め息を吐いた。なまえがテレビに出演できないことを知り、落胆したのだ。だが、例え放送はできなくとも、ヴォックスの言う通り生で披露する形式では開催できる。むしろそちらの方が現実的でいいかも知れない。地獄全体になまえの存在を周知することはできないが、それでもショーを開催するということ自体に価値があるのだ。どうにも眼が惹かれるなまえと、己のデザインした服、それらの組み合わせはヴェルベットにとってなによりも値打ちのあるものだった。これ以上ないというほどの注目を浴びるということが手に取るようにわかる。
 映像として形の残らないなまえは、アラスターにより支配されていると言えよう。見たくば直接会いに来いと、そういう意向なのである。そして彼の手のひらで転がされるのだ。当然ヴォックスを含めた皆が厭悪を抱くこととなる。
 ヴェルベットは「なまえ!」と、ステージに立ち尽くしているなまえの名を呼んだ。なまえは依然として当惑した面持ちでヴェルベットのもとへ移動する。

「どうしたの?」
なまえ、あんたはテレビには出られないみたいだ」
「……?」
「ほら、これ見てみな」

 ヴェルベットに促されるまま、なまえは液晶パネルを覗き込んだ。すると、そこには己が───正確には己とは到底言いがたいものが映っていた。見たことのない現象で思わず閉口する。もはや恐怖を感じる状況である。
 鮮明になまえのことを映し出せなかったカメラは、黒い煙を出し始める。やがてバチバチと火花が散り、うんともすんとも言わなくなった。
 なまえはこの現象でテレビには出演しなくて済むと安堵したのだが、ヴェルベットは愉しそうに「じゃ、直接見てもらおう」と言った。なまえは驚愕する。どうやらまだ危機から脱することができていないらしい。
 なまえはぐるぐると思考がまとまらない頭で困り果てている。どうにかして断らなければならないとはわかっているものの、どういう風に伝えたらいいのかわからない。ただただ苦悩している。
 そこで、ヴォックスのスマートフォンが鳴り響いた。彼はポケットからそれを取り出すと、画面を確認してなまえを見る。そして「なまえ、また会おう」と言った。なまえはその言葉で現実に引き戻され、そのままスタジオから退室しようと背を向けた彼の袖をそっと掴んだ。

「なんだヴェル、俺は───」
「あ、あの、ヴォックスさん」
「……!?」

 ヴォックスはとてつもない速さで振り返る。視線が掴まれている袖に縫いつけられ、かと思いきやなまえの顔へ移動し、再び袖に戻った。その双眸は衝撃を物語っている。あんぐりと口が開き、愕然とせざるを得ない。「な、……」わなないた声。なまえは彼の心情に気がつかず、再度「ヴォックスさん」と名を呼ぶ。

「あの、さっき選んでくださったドレス……とってもすてきでした! ありがとうございます」
「……」

 ヴォックスは硬直し動けないでいる。沈黙している姿になまえは首を傾げる。その様子を眼にしたヴェルベットは思わず吹き出した。だが、彼はまるでその反応が眼に入らなかったかのように呆然としている。
 思考停止を起こしているなか思い出されたのは、なまえと初めて会ったときのことだ。オフィスでなまえがアラスターによって強制的にホテルへ帰還してしまったとき、眼前にいるのに接触できない苛立ちを覚えた。それではアラスターに痛手を負わせる以前の問題であろう。ヴォックスにとって───V軍団にとって、なまえは大層価値のある存在なのだ。彼らの提供する娯楽は、注目を浴びる傾向にあるなまえと相性がいい。集客力が格段に上がるからだ。それが眼に見えているからこそ、喉から手が出るほど欲しているのである。
 数秒後、彼はようやっと我に返ると、「あ、ああ。気にしなくていい」と、どこか心ここにあらずの様子で呟いた。そして「なまえ」と続ける。

「?」
「触れられる」
「……あ! ほんとだ……」

 なまえはヴォックスがぽつりと口にした言葉にうれしそうに反応する。驚きつつも笑顔を浮かべたのだ。彼はその姿を見てぐっと言葉を呑み込む。
 もしかすると、先ほど思案したボロ、、が今生じたのだろうか。そんなことを考えながら歓喜に満ちた様子でなまえの手を握り返そうとし───弾かれた。

「……」
「……」
「……」

 ヴォックスは気がついた。アラスターの策略は一方的なものであるのだと! その差別化がどうしようもなく癪に触った。互いに接触できないのならば───本音はそれも許せたものではないが───まだ許容できるものの、あえての選択に憤激が込み上げる。それを自覚したのちに液晶パネルがライン抜けを起こし、縦横無尽に線が走った。表情が読めない。事実に気がついたところで心が晴れやかになるわけもない。それどころか余計に憎悪が湧き出てしかたがなかった。脳内にはにたりと口角を吊り上げるアラスターの顔がはっきりと浮かび上がる。非常に気分が害される笑顔である。

「アラスタァアア~~~!!!」

 ヴォックスは崩れ落ちるようにして地面に膝をつく。そして憎しみの籠められた声が、スタジオに虚しく響いた。

 なまえはホテルに帰還することを許され、無事帰路に就いていた。ヴェルベットからヴォックスに選ばれた青いドレスをプレゼントにと渡されたので、思わず笑みが浮かぶ。抱きしめていたそれを持ち上げては眺め、その喜びを噛みしめている。ただ、テレビに出ることは不可能とわかったが、ショーには出演する可能性が出てきてしまった。今回はなにごともなく終わったが、今後のことが心配だった。
 ヴォックスの機嫌も急降下した。「なまえが悪いわけではない。これは俺達の問題だ」と言われるも、その表情は恐ろしいもので、なまえは半泣きになってしまった。それを見かねたヴェルベットが、ヴォックスに仕事へ戻れと言った。彼女は彼が勤務中であるはずなのになまえに会いに来たのを知っていた。先の電話の要件もそのことであろうと見立てたのだ。
 ヴェルベットは別れ際に「また遊びに来な。着せ替え人形にしてあげるから」と言い、なまえは心底喜んだ。友人が増えた感覚で、とってもうれしかったからである。
 なまえが鼻歌を歌いながら満面の笑みでホテルの扉を開くと、眼前にアラスターが立っており、飛び上がった。「あ、アラスター!?」あまりの驚きに声がひっくりかえる。パーソナルスペースを無視した距離だ。もとより彼はその観点が狂っていると言える。基本的に距離が近いのだ。肩に手を置くのは日常茶飯事であるし、軽率に頬に触れることもある。なまえはどこか疲弊し、かつ機嫌が悪いように窺える彼を見て、どういうわけか心臓が暴れているのを自覚する。

「どこに行っていた」
「……あ、えっと……」

 やましいことはなにもないのに、なまえは返事をするのを躊躇してしまった。なにかを言おうにも、アラスターの眼を見ていたら、とんでもないところに訪問してしまったのかも知れないとさえ思える。途端に緊張感に支配され、口腔内がからからになった。
 まるで隠蔽しようとしているように見えたのか、アラスターは一歩前進した。手を伸ばせば触れられる距離にいたのに、さらにつめられたのだ。彼の鋭利な視線がなまえの手に持たれているドレスへと向けられる。

「ヴォックスのところだろう」

 確信している様子である。なまえはその面持ちにぞっとした。腕を掴まれ、顔が近づく。互いの呼吸を感じ取れる距離感。なまえは息を呑んだ。
 なまえが血の気の引いた顔でかろうじてうなずくと、アラスターはなにかを思慮する面持ちになった。なまえの心臓は痛いほどに鼓動し、思わず持っていたドレスをぎゅっと強く抱きしめる。彼はその行動を見逃さなかった。眼が細められる。その瞳孔は散大しており、なまえは逃げ出したくなった。
 しかし、刹那沈黙したアラスターは、一転して常の笑みを浮かべて口を開く。

「ヴォックスはセンスも二流なんですねえ!」
「……!」
「おや? 固まってどうしました?」
「あ、だ、だって」

 先の態度とは正反対のそれに、なまえは拍子抜けした。直視できないほどの立ち振る舞いだったのに、まるで見間違えたかのように感じたからだ。
 アラスターはなまえの持っている青いドレスをジィ、と観察する。そして「やはりナンセンスだ」と嘆息を洩らし、フィンガースナップをする。なまえは眼を見開いた。

「……!!」
なまえにはこちらの方が見栄えがいい」

 ドレスが鮮やかな赤色に変化していたのだ。なまえは瞠目した。似合う色に変えてもらえたのはうれしいことなのだが、これではヴォックスに申し訳なさがこみ上げる。だが、アラスターにそんなこと言えるわけがない。
 困惑しなにも言えないなまえを見かねたアラスターは、どうやら上機嫌になったようである。なにが彼をそうさせたのかなまえには理解が及ばなかったが、恐怖から解放されたことには安堵したのだった。