「いつまでも隠し通せるとでも思ったのか?」
声をかけられ、耳を傾けたのが間違いだったのかもしれない。
アルバイトが終わりホテルに帰還しようとしていたなまえは、路地裏でごろつきに絡まれていた。素直に同行しなければいい話なのだが、「ちょっと困ってるから助けてほしいんだ」という誘い文句に欺かれたのである。ここ地獄ではひとが好ければ好いほど損をするのが定説ではあるものの、なまえはどうにも学習しない。誰かが救いを求めていたら手を差し伸べ、己の身を犠牲にしてしまうのだ。それは到底エクソシストとは思えない、むしろ典型的な天使の性であると言えよう。
なまえは言葉を発せないでいる。ただただ血の気の引いた顔で震えていた。袋小路まで追いやられており、誰かに助けを乞うのは難しそうだった。
ひとりの男がなまえに近づく。「ひっ」伸ばされた手に、なまえは引き攣った声を洩らしながら後退した。
先日、ヴォックスからアラスターの施した術により皆が己に触れられるわけではないという情報を提供され───その際、なまえは彼の眼が異様に血走っていたことを記憶している───その事実を把握していたが、それがどのような条件で発動するのか、いかんせん基準が不明瞭だった。ゆえに、現在も彼の能力でやり過ごすことができるのか否か、胸中は恐怖に満たされている。
エクソシストとしての能力を───なまえの場合は、いわゆる平均的な力すらもであるが───有していないなまえは、いつだって逃げることしかできないのだ。たとえばリュートのような、天使軍の頂点に在る戦闘を得意とするものであれば、今なまえが置かれている状況を難なく突破できるはずであろう。彼女の場合は武器を持たずとも対等に、或いはそれ以上の力で悪魔を捻じ伏せられるのだ。しかし、彼女はなまえとあまりにもかけ離れている。なまえはどこまでも被食者なのである。それは天使軍に在籍していたときとなんら変わりがない。したがって、第三者が介入してくれることを願うほかなかった。
なまえはごろつきにじりじりと距離をつめられ、やがて壁に背がついた。逃げられない。
男はなまえの眼前に佇むと、うつむいている彼女の顔を覗き込む。きゅっと口を引き結ぶなまえの姿は、いたく支配欲を掻き立てる。彼はそれににたりと笑むと、なまえの肩に触れた。その行動になまえは呆然とする。
「あ? なんだ、触れるじゃん」
ものは試しの行動だったのだろう。男は拍子抜けしたように眼を丸くし、そう呟く。幾度もなまえの肩に手を乗せては離し、感覚を確認している。華奢な体形に、ぞくぞくと脊髄を這い上がる感情が溢れ出るのを自覚した。そしてその感情に口元を歪めながら、「聞いてた話と違うな……」と小声で言う。彼はどうやら事前に情報を得ていたようで、現実が予測と異なっていることを疑問に思ったらしい。だが、そちらの方が手間が省けていい。男の口角が吊り上がる。
対照的に、なまえは絶望した。アラスターの術により、なにごともなくホテルに帰還できるであろうという期待を抱いていたことも関与している。そこには一抹の希望があった。だが、これでは身を守れない! 途端に命の危険を察知し、かたかたと身体が震え始める。非力ななまえは怯えることしかできない。
気をよくした男はなまえの胸ぐらを掴み、うつ伏せになるようにして地面に押し倒した。そのまま身に着けていたブラウスを力任せに引き裂き、背中を露出させる。「やっ、や、やめ」形成された声は憐れなまでに震えている。あまりにもか細いその声は、男の耳に入る前に空気に溶けて消えてしまった。
「見つけた」
男はなまえの翼の生え際を発見して歓喜の声を上げた。本来の皮膚の色とは異なる部位があるのだ。彼は舌なめずりをしながら指に鉤爪のようなものを装着すると、なまえの背中に───翼の根本に、深く突き刺した。「……あ゛っ!?」そしてそのまま引っ張り上げるようにして腕を引けば、翼が引きずり出される。穢れを知らない、白銀の羽。光の当たり具合によって虹色に輝くそれは、思わず触れたくなるような見目をしている。皆言葉を失った。神聖で犯しがたい形貌。地獄では決して見ることのできないはずの光景だったからである。思わず眼を奪われたのだ。手荒い動きの勢いで、周囲には黄金色の血液が飛び散っている。荘厳な翼とあいまったその姿は、まさしく清らかな天使の象徴である。
無理やり引きずり出された翼は、だらりと力なく垂れている。なまえが怯えているのを具現化していた。
男はもう片方の翼の根本にも鉤爪を突き刺すが、そちらは反応を得られなかったので乾いた笑い声を上げる。「そういや片翼なんだったな」その言葉に、皆が爆笑した。なまえは痛みのあまり声を発することができない。
穴が開いた翼の生え際からは、黄金色の血液がどろりととめどなく流れ出ている。切先に抗凝固薬のような薬剤が塗りたくられていると思えるほどの出血量だった。白銀と黄金。それらが複合した神々しい形姿は、あまりにも悪魔とかけ離れたものである。赤黒い血液はただの汚れであると処理されるが、天使のそれなると話は別だ。多様な商品に加工することができるし、ドラッグに混ぜ込み効能をぐんと引き上げることもできる。数多の可能性を秘めている値打ちものなのだ。要は商売道具になる。ただ、それらは当然ながら天使の望まぬ用途である。己の体内を循環する身体の一部が、彼らの意向ではない形で利用されるのは本意ではない。だが、そんなことは悪魔には無関係なことだった。
男は嘆息を洩らした。そして脱力しているなまえの翼を手荒に持ち上げ、愉しそうに口を開く。
「なにからなにまで金になる奴だ」
不意に、男が翼から手を放し立ち上がる。それを見計らったなまえは可能な限り彼らから距離を取ろうと、片隅に逃げた。震えた身体を覆うようにして翼で隠す。だが、彼は「ンなことしても意味ねえって」と、にやけ面を浮かべている。
目下なまえを支配しているのは,まごうことなく恐怖だ。どうやらアラスターに助けを求めることは望むべくもないようであるし、走って逃げようにも条件が悪すぎる。この人数により遮られている経路を突破するのは至難の業だろう。走り出したところで捕らわれるのが落ちだ。あまりにも勝算が低い算段である。その行動を選択したのちに待ち受けている恐怖は計り知れないものに違いない。逃走を図り彼らの逆鱗に触れるくらいならば、目前のおぞましい事態に耐えるのが好ましいのかもしれない。
とはいえ、それも受け入れられたものではなかった。八方塞がりでどうしようもない。なまえの鼓動は加速する一方である。
男がなまえのもとへ歩み寄り、しゃがみ込んだ。
「俺さ、聞いたんだよ。仲間のこと」
どうやら彼らは、先日なまえを襲った輩の仲間らしかった。アダムによって骨すらも残らない最期を迎えた人物である。なまえはそのことを思い出し、顔が青褪める。
痛い目を見たのだ。それなのにアルバイトを続けているのは、やはり危機管理能力に欠け、己に降りかかる難事を予測することができていないからだ。天使が悪魔の眼にどう映るのかを理解していないのである。
悪魔は基本的に非人道的なことを好む傾向にある。彼らの辞書にはモラルという言葉がない。天使に対して、道徳に反する行為をすることで得られる快感があった。暴力を振るうことで満たされるものもいれば、凌辱して然りなものもいる。彼らの嗜好は様々である。
男は恍惚の表情で「世話になったらしいじゃん?」と言う。そして恐怖のあまりくったりと力の抜けた翼に触れ、羽をひと掴みする。
「まさか情報が洩れないとか思ってたわけじゃないだろ?」
なまえはかたかたと震える。口元がわななき、うまく言葉を発せない。「や、やめて」かろうじて絞り出されたその言葉は、あまりにもか細く、誰かの耳に入ることはなかった。
男は笑い声を響かせながら力任せになまえの羽を毟り始めた。「っい、たぃ、ひっ」なまえは翼を抱きしめようとするが、もうひとりの男に羽交い絞めにされ、抵抗ができない。痛みに苦しむ声を上げることしかできないのだ。顔は涙でぐしゃぐしゃだった。無理やり引き千切られた羽の根本には、じんわりと血がにじんでいる。彼は一本も残さないかのような勢いで次々と毟り取っていく。用意していた袋にそれをつめ込み、愉しそうに笑いながら。
ただただ泣くことしかできないなまえを眼にした男は、腰から快感が走り抜けるのを実感した。天使が───なまえが相手だからこそ抱くことができる感覚。ぞくぞくと心地がいい。彼の性的欲求を刺激してしかたがなかった。どうやら彼は天使を犯すことで満たされる質らしい。
「押さえろ」
男は羽を毟り取るのを中断すると、悦喜を隠さない声音でなまえが抵抗できないよう制していたひとりに声をかける。彼はうなずき、なまえが暴れられないように腕をまとめ上げた。ぎちぎちと、不必要なまでに力を込めて押さえつける。なまえは泣きじゃくっている。
涙に溺れた双眸は虚ろで、ただただ解放されたいという気持ちが伝わってくる様相だった。男は抑えがたく笑い声を上げている。
「マジでヤれる日が来るとはな」
天使との性行為は、一部の悪魔にとって積年の夢だ。手の届かぬ存在を穢す優越感と背徳感。なにものにも変えがたい感覚である。それは彼らの享楽を誘うのだ。
男はうっとりと酔いしれながらそう言い、なまえの身体に触れようとしたところで背後から腕を掴まれた。
「随分と愉しそうなことをしているな」
平坦な声。まるで感情が欠落しているかのような。
骨が軋むほど力強く掴まれた腕に、男は顔を歪める。そして「邪魔すんな」と相手の方を振り向こうとしたら横腹から弾き飛ばされた。あまりの力に胴体の皮膚が裂け、千切れた部位から内臓が溢れ出る。彼は周囲に血をぶちまけながら絶命した。突然の予想だにしなかった展開に、皆が硬直する。
現れたのは地獄の王───ルシファーだった。
なぜ地獄の頂点に君臨するものが、こんな無法地帯ではありふれた、なんら目新しいわけでもない、倫理道徳的に無問題であると処理される場に現れたというのか。理由が不明だった。その目的も、あいにくながら彼らには思いつかない。
ルシファーはぱきぱきと指を鳴らして男たちに近づく。彼の纏う空気があまりにも凶悪で皆の足が震え始め、立っているのもやっとなように見受けられた。
言動の選択を誤れば、想像するのも恐ろしいことになる予感しかしなかった。まるで大蛇に首を締め上げられているかのような息苦しさに見舞われる。図らずも息遣いが乱れた。眼前の存在はまさしく恐怖の権化だ。そしてその恐怖は伝播する。へたに刺激をしない方がいい。だが、その判断はあくまでも彼らの見解だ。実際のところは、ルシファーがなにを思惟しているのか誰にもわからない。それも当然だった。ぴくりとも動かない表情筋により汲み取ることができないからだ。
大気が震える。ぴりぴりと肌を突き刺す勢いで伝わってくるのは憤激である。本質を揺るがす戦慄。それは心髄から湧き上がる戦慄だった。ごろつきは震え上がることしかできない。無意識に固唾を呑んでいた。生命の危機を感じざるを得ないのだ。
唐突に、ひとりが逃走を図った。情けない声を上げながら、ルシファーに背を向け走り出す。ほかの男たちもそれに倣い、一目散に逃げ出した。
「まさか逃れられるとでも?」
しかしながら、その行動を予測していたのか、ルシファーは炎を矢にして背後から男らに強襲をしかけた。誰ひとりとして逃がさない。総べては軽率な行いの報いである。その愚かな行動を思い知らせるために。乞うても許してやるつもりなど毛頭なかった。せいぜい苦しんで息絶えろ。腹の奥底で燃え上がる激情は、決して気分のいいものではない。だが、彼はどこまでも無表情だった。よほど腸が煮えくり返っているようである。
ルシファーはごろつきの背中から炎の矢を突き刺すと、貫通させて心臓を引きずり出す。生命の維持に必要な器官を失った男たちは次々と倒れていく。息の根が止まり、うつ伏せに崩れ落ちて地面に血だまりが広がった。目的を果たした矢は溶けるように消滅する。まるで彼らがどのようにして絶命したのか、証拠を残さないとでも言うかのように。
逃げ出そうとしたものは皆死亡した。残るはなまえが暴れられないように両腕を固定している男のみである。ルシファーはふたりの方を振り向く。男はぶるぶると震え、なまえの首根っこを掴むと、己の盾となるようにして持ち上げた。ぐったりと光の入らない眼をしているなまえはされるがままになっている。
「嘗めるなよ小僧」
その声はどこまでも平坦だった。瞳孔がまるで爬虫類を彷彿させるようにかっぴらき、ぎょろりとした眼玉が男をと捕らえる。途端に、男は弾かれたようになまえから距離を取った。王たる威厳である。従わずにはいられない。神経系が使役されているかのように身体が言うことを聞かない。己の意思で動かせないのだ。男は恐怖に支配され、震えることしかできない。
ルシファーはふたりのもとへ歩く。その間も、鋭利な眼光は男に刺さっている。男は絶叫し、逃げようと走り出した。そしてルシファーの横を通り過ぎようとしたところで首を掴まれ、そのまま勢いよく地面にたたきつけられる。頭部を打ちつけたのか、焦点が合わなくなっているようである。ルシファーは動けない男に馬乗りになると、問答無用で顔面を殴り始めた。すると男は両腕で顔を守るような動きをする。ルシファーはカチンときた。「その反応を示したいのはなまえの方だ。なあ、そうだろう!」抑えがたく笑い声を上げる。笑いながら男を殴打するのだ。その姿は、愉悦すら感ぜられた。
あまりにも無遠慮な、理性のない暴力。どちらが悪者かわかったものではない。まさしく地獄の頂点に君臨するにふさわしいと言えよう。自制心を微塵も感じないその様相は、普段のルシファーからは想像もできない姿である。
男の鼻骨が曲がり、鼻血が周囲に飛び散った。頬骨と下顎骨が粉砕され、輪郭が歪む。口を閉じることができない。歯が折れたことにより口腔内に血が溜まっているのが見て取れた。なまえはどこかぼんやりとした眼で、その光景を見つめている。
「ん? 気絶したか」
ルシファーは呻き声すら上げなくなった男を見下ろす。高らかな笑い声が辺りに響いた。意識を失い完全に脱力した男の胸元を掴み上げ、己と同じ目線の高さになるよう持ち上げる。そして口角を吊り上げながら愉しそうに男のことを眺めた。常軌を逸している、尋常ではない、まさしく異常であると言える手荒い行動だった。力の抜けた男の顔面は眼を覆いたくなるほどに腫れあがり、つぶれた眼球が半開きの両瞼の隙間からはみ出ている。骨が砕けた頬はくぼんでおり、赤黒い打撲痕が目立つ。実に虫の息である。
ルシファーは服と両手に汚らしい血が付着していることに気がついた。打擲していた際はそんなことなど気に留めず、問答無用で正義を───この場合、一般的に正義と表されるものであるとは到底言えず、むしろ行き過ぎた異常な対処であると言える───執行したことによるものであるのは言うまでもない。彼は片手に炎をまとわせると、男の身体を燃やした。肉塊が焼ける異臭が漂う。
ルシファーは両手を払うと、瞬きをした次の瞬間には見違えるほどに綺麗な身なりになっていた。
心がすっきりと晴れやかになったのを感じたルシファーは、なまえのもとへ移動する。そして「なまえ? もう大丈夫だよ」と言い、頬に触れようとすると、なまえはびくりと身体を縮こまらせた。彼はその反応に眼を丸くする。
「あ、ぁ、ごめ、んなさい」
「……気にしなくていい。怖かったろう」
ルシファーは震えた声で謝罪を口にするなまえの頭を優しく撫でる。先の様相はなにかの見間違いかと思うほどの変化だった。なまえは安堵したのか、なおさら大粒の涙をこぼす。はらはらと流れるそれは、この世のなによりも美しく見える。思わず黙して凝視していた。
明確に悪魔と異なっている。身体から滲み出る雰囲気、佇まい、所作。それらがなまえを地獄にいてはならない存在であると主張している。ここ地獄では、基本的に皆が歪んだ欲望を持て余しているのだ。つまりは己の色に染め上げたいと思考するものが多い。なまえは悪魔の眼に極めて魅力的に映るのである。欲望の捌け口にもってこいの対象だからだ。清らかな存在感を真っ黒に穢す快感。そこにはある種の独占欲も生じている。
なまえはあまりにも欲望が刺激される存在だった。溢れ出る無尽蔵のそれを発散するために手を出したくなると確信される。受容されるされないの話ではない。一方的な感情の吐露だった。包み隠す必要性がないと処理されるのだ。なまえはいつだって被害者だった。「る、るしふぁ、さま」か細い声は震えている。ルシファーは上着を脱いでなまえに羽織らせると、前を閉め、そのまま優しく抱きしめた。「大丈夫だ。私がいる」背中をゆっくり摩ると、なまえはぎゅっと抱きしめ返す。その行動に、どこか不穏ななにかが揺らめいた気がした。
なまえはしばらく泣いていたが、ルシファーの存在によって少しずつ落ち着きを取り戻した。彼はなまえの震えが治まったのを見計らうと、背中から翼を出現させる。なまえは眼を瞬かせた。
「帰ろうか」
どうやらルシファーはホテルに向かうつもりのようだった。なまえもそうしようと考えていたので、うなずく。だが、力が入らずなかなか起立することができない。「あ、ルシファーさま、ごめんなさい……あの、先に行っていてください」申し訳なさそうな面持ちでそう言われたルシファーは、眼を丸くした。次いで、微笑みながら口を開く。
「私がなまえを置いていくわけがないだろう?」
ルシファーの言葉になまえは首を傾げる。すると彼はなんてことのない顔でなまえのことを抱き上げた。「……!?」思わず狼狽する。助けてもらえてだけで充分なのに、それ以上のことをしてもらうことに申し訳なさが込み上げたのだ。そんななまえをよそに、彼はなんてことのない顔でホテルを目的地に羽ばたく。なまえは眉尻を下げるほかなかった。
ホテルに到着すると、なまえは恐々玄関の扉を開けた。チャーリーになんと言おうか思案していることもあった。なかに足を踏み入れようとすると、案の定チャーリーが慌てて駆け寄ってきた。
「なまえ! いつもより帰ってくるのが遅かったけど、なにか……えっ、パパ!? どうしてなまえと一緒に?」
チャーリーが驚いた声音でそう訊ねると、ルシファーはなまえのことを一瞥する。
なまえはどきりとした。真実を話せばチャーリーは憤激するであろうし、それになによりアルバイトを辞めさせられるかも知れない。せっかく皆に恩を返す機会が得られたというのに、そうなってしまうのは意図するところではなかった。ゆえに、返答に困惑する。思わず、ぎゅっとルシファーの上着を握りしめた。
ルシファーはなにかを思考を巡らす面持ちになった。「それに、パパの服も着てるし……服は? 汚れちゃったの? なにか事故に巻き込まれたとか?」チャーリーの推測は止まらない。両手を取られてぐっと距離を縮められれば、なまえはたじろぐしかなかった。なにかを言おうにも、なにも思いつかないのだ。言葉が出てこない。頭のなかではとりとめのないことばかりがぐるぐると反芻されている。
質問に答えられないなまえを心配したのか、チャーリーはぐいぐいと距離をつめる。するとそれを見かねたルシファーが「ところでチャーリー、ベルボーイはどうした?」と質問する。チャーリーはそれに首を傾げると、「アラスターなら出かけてるわ。……どこにかはわからないけど」と返答した。どうやらアラスターはホテルにいないらしい。その事実にルシファーは納得顔でうなずいた。なまえはなまえで、ルシファーのその機転に人知れずほっと胸を撫で下ろした。これ以上追及されれば、真実を口にしてしまうであろう。なまえは嘘をつくことがすこぶる下手だった。
ルシファーのその問いに、チャーリーの意識がアラスターの方へ移行したかのように見えた。
「最近、どこかに行くことが多いのよね」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、なまえは思惟する。なまえは己に施されている術がアラスターによるものであると承知している。だが、それが無効になっている今、彼がその術を発動できない状況下にあるということなのだろう。ただ、それが良いことなのか悪いことなのか、なまえには判断がつかない。
チャーリーは安堵しているなまえをよそに、再度「なまえ、大丈夫?」と問うた。なまえの肩がびくりと跳ねる。話が逸れたと思ったのは己だけらしい。身を案じてもらえるのはうれしいことなのだが、真実を知られてアルバイトができなくなることは避けたいところである。
口籠るなまえを見かねたチャーリーは、言いにくいような事態に巻き込まれたと直感する。そして「なにかあったのね」と、確信をついた口調で呟いた。これ以上隠し通すのは不可能だ。感情が顔に出やすいなまえはかちこちになりながら、ぎこちなくうなずく。
「ん、うん……」
「やっぱり! ねえパパ……どうにかできないかしら? また危ないことに巻き込まれたら、魂が何個あっても足りないわ」
チャーリーはそう訊ねながら、そっとなまえの頬を撫でる。赤くなった眼元に指を這わせた。チャーリーのその言葉に、ルシファーが眉間に皺を寄せる。
「まあ、できなくはないが……そうするとなまえの首を絞めるだけだからなあ」
ルシファーの加護を受けるとなると、悪目立ちしてしまうのだ。地獄の王たる存在の力は悪魔に───権力や才幹を有する上級悪魔を始めとした一端の対象に───とって多大な影響力を及ぼすものなのである。もとより人の眼も興味も惹き注目を浴びる傾向にあるなまえとは相性が悪い。これでは手を出してほしいと言っているような状況になってしまう。無論、ルシファーの力量があれば悪魔がなまえと接触する可能性はなくなるのだが、これ以上浮くのは避けたいところだ。それに万が一のことを考慮すると、必ずしも彼の加護下に置かれることが正しい選択であるとは言えないかもしれない。軽率に判断するのは危険だった。
なぜアラスターの術が発動しないのかは気になるところであるものの、それでもホテルで彼やアダムが生活をし、なおかつルシファーが出入りしているとなると、それだけで充分な牽制になる。よほどの能無しではない限り、ホテルに襲撃することはないであろう。とは言え、地獄という特異性がある以上、考えなしに突撃してくるものはいる。それにはルシファーも手を焼いていた。反撃し結果返り討ちにされるのは百も承知であるが、それでも煩わしいものは煩わしいのだ。生前の犯罪行為により地獄に落ち、挙句悪魔となった下等な生物。そのような品性に欠ける存在にルシファーは辟易していた。
ルシファーがそう伝えると、チャーリーは肩を落とした。現実はそううまくいかない。それを痛感したからだった。ただ、なまえはチャーリーが己のアルバイトについて言及しないことを不思議に思い、恐る恐る口を開く。
「あの、チャーリー」
「なあに?」
「……わたし、バイト続けてもいいかなあ……」
「……そうね。危ない目に遭うのは避けたいけど、なまえの意思も無視できないもの」
「!!」
なまえはおずおずと訊ねると、チャーリーは否定しなかった。その返事に、なまえは眼をきらきらと輝かせる。どうやら己の意思を尊重し、アルバイトは続行してもいいらしい。そのことに歓喜したなまえは、思わずチャーリーに抱きついた。「チャーリー、ありがとう!」飛びついた勢いで数歩後退したチャーリーは、満面の笑みを浮かべ抱きしめ返す。その様子を微笑みながら見つめていたルシファーがなまえに声をかける。
「さあ、なまえ。着替えておいで」
ルシファーがそっとなまえの背を押す。なまえはそれにうなずくと、駆け足で自室へと向かった。
ルシファーがなまえからチャーリーに視線を移せば、彼女は柔らかい表情でなまえのことを見送っていた。いい雰囲気だった。なまえという存在は、ホテルの経営にいい作用を及ぼす。そう感じたのだ。やがて彼は微笑んで「そろそろ帰るよ。なまえのこと、よろしく頼むよ」と言うと、身体に光を纏わせ姿を消した。チャーリーはそれを見送ったのち、ハスクが不在のバーのカウンター前にある椅子に腰かける。するとなまえは十五分ほどで戻ってきた。
「? ルシファーさま、帰っちゃったの?」
「今さっきね」
なまえの困惑している様子に、チャーリーは首を傾げる。「服を返したくって……」そう口にしたなまえに、彼女は満面の笑みを浮かべ、「渡しに行けばいいのよ」と言った。
「会いに行っても大丈夫なの?」
「むしろ喜んでくれると思う」
「そうかなあ? じゃあ、あした行ってみるね」
にこにこと笑うなまえを見たチャーリーは、ふとルシファーの上着に黄金色の液体が染み込んでいるのを発見した。「なまえ、これは?」なまえは促されるようにしてその部位を確認すると硬直した。明らかに己の血液だったからだ。
「わ、わたしの血……どうしよう?」
「血!? どこを怪我したの? 場所的に背中よね? 手当てするから見せて」
「チャーリー……ルシファーさまの服、汚しちゃった……」
「まずは手当て!」
チャーリーはめそめそ泣き始めたなまえの身体をくるりと回転させると、着ていた服を捲り上げて確認する。すると翼の根本と思しきところの二か所に、鋭利なものを突き刺したかのように窺える穴が空いているのを発見した。血液が固まった傷口ではあるが、清潔にするために消毒する必要がある。慌てて日用品を収納しているクローゼットのもとへ行き、救急キットを持ってくる。それは皆のことを考慮し常備しているものだった。
チャーリーが消毒液を染み込ませた綿球を傷口に押し当てると、なまえは小さな悲鳴を洩らして飛び上がる。その勢いで片翼が出現した。だがその翼も、ところどころ不自然に抜け落ちている部位があることに気がつく。思わず黙り込んだ。
「チャーリー?」
恐る恐る名を呼ばれたチャーリーは、ハッと我に返ると、安堵した様子で「パパが来てくれてよかった」と言った。そして背後からぎゅっとなまえのことを抱きしめる。そのまま優しく頭を撫でると、なまえはくすぐったそうに笑った。
「チャーリー、わたし、大丈夫だよ」
「……なまえ、やっぱりバイトは」
チャーリーはそこまで言うと、口をつぐむ。なまえが危険な目に遭わないことが第一であるが、だからと言ってホテルに縛りつけるのも自己中心的な行為だ。なまえにも自由に生きる権利がある。それこそ天国にいた際、行動を制限され束縛されていたことを加味すればなおさらのことである。アルバイトを辞めさせ、常に監視下に置くことはできる。しかし、それではなまえの意思を無視することになってしまう。チャーリーは苦悩している。
黙り込むチャーリーを心配したのか、なまえはくるりと身を翻すと、先にチャーリーが己にしてくれたように、ぎゅっと抱きしめた。
「チャーリーはやさしいね」
「……なまえ」
「心配してくれてありがとう。その気持ち、とってもうれしい」
綺麗に一笑するなまえは、大層まばゆいものだった。チャーリーは思わず眼を奪われる。地獄には見合わない笑顔だ。屈託のないその表情は、やはり皆の興味をそそるものであることが伝わってくる。「チャーリー?」なまえは不思議そうに名を呼ぶ。チャーリーは再びなまえのことを抱きしめた。
「服、綺麗にしなきゃね」
「どうしたらいいのかなあ……」
「血の汚れには中性洗剤が効くって聞いたことあるけど」
「わあ、そうなんだ! じゃあ買いに行ってくるね」
「ひとりじゃ駄目!!」
「ひゅ……」
「私も一緒に行くわ」
「いいの?」
「もちろん!」
「ん! チャーリー、ありがとう」
チャーリーはうれしそうに笑むなまえを見つめた。なまえに救われているところはごまんとあった。ゆえに、守らなければならない。皆でホテルを経営していくのだという決意に繋がるのだ。それは魂の救済に意義と価値を見出すことに直結する。彼女は立ち上がると、なまえの手を引き、目当てのものを買うためにホテルから出た。
今回もなまえは面倒ごとに巻き込まれた。それでもなまえは「悪魔にもいいひとがいるよ」と答えるのだろう。ほんの一握りしかいない存在に着目し、大事に思うのだ。そして、それがチャーリーを始めとしたホテルの皆の不安要素となる。ただ、なまえに狼藉を働くものを処分することで得られる快感があるのもまた事実である。誰に手を出したのか、それを痛感させることが心底心地いいのだ。
チャーリーは歩きながら、今一度己を奮い立たせた。