ヴォックスは硬直している。
ここ最近のヴォックスは、街中に設置している盗撮カメラを駆使してなまえの情報を収集することに精を出していた。決して明瞭に映らずとも、いつどこに行っているのかという大雑把な情報は得られる。彼はそれほど執念深かった。
基本的に、悪魔はエクスターミネーション以外に天使と接触する機会はない。再び天使軍が地獄に降臨する可能性がゼロであるとも言えないものの、アダムが堕天したことでその希少なきっかけが失われてしまった。ただ筆頭を失った軍隊ではあるが、彼らの脅威が完全に過ぎ去ったと結論づけるのは気が早いだろう。かつてのアダムほどの力をつけて粛正される事態に陥る場合もある。そうなると辺り一帯が血の海になるに違いないのだ。無慈悲で悪質なエクソシストは、常に己が正義であると確信し、上級悪魔という実力を有している存在すらも制圧してしまうほどの生物であるからだ。
なまえが地獄に堕ちたことは、ヴォックスにとって重要な転機をもたらす貴重な好機となる。彼はそれを利用したかった。ヴォックス・テック社は地獄において確かな地位を確立しているが、それでもまだ満足していないヴォックスは、なまえと接触することでより影響力のある会社を築き上げたかった。
なぜヴォックスが血眼になりながらなまえの情報を収集していたのかと言えば、単に彼女に興味を持っていたからだ。見限られて堕天したその悲しみは、計り知れないものであるはずだ。同情しているわけではない。傷心しているなまえにはつけこむ隙がある。使役するには十分な状態であると思考を巡らせたのだ。
しかし、なまえがハズビンホテルで生活しているのは少々面白くなかった。面倒なことになったと思わざるを得ない。ホテルには憎き宿敵───と捉えているのは、あいにくながらヴォックスのみである───がいるのだ。アラスターはいつだってヴォックスの眼前に立ち塞がり、彼の望むもの総べてを強奪していく。強者たる余裕を感じさせるのがまた忌々しくてたまらない。涼しい顔をして手のひらで踊らされるのも反吐が出る思いだ。ヴォックスはいつだってアラスターに振り回されるのである。彼は今回もそのことを危惧し、苦い展開になると歯を食いしばっていた。
実際、ヴォックスはアラスターの思うつぼだった。なまえには己からは触れられないことも能力が効かないことも、ただただ憎たらしかった。唯一の救いと言えば、なまえ自身がヴォックスのことを拒絶していないことだった。その点、彼は一縷の望みを抱いている。
念願叶ってなまえと対面できた際は、衝撃を受けたものだった。典型的な天使の性は、ヴォックスに妙な感情を誘起させた。地獄にきてから長らく触れたことのない存在感にどこか懐かしさすら覚える。ただ、あまりにも取って食われる質のなまえがおかしくてしかたがなかったのも事実だった。
そんな不穏な欲望が刺激されるなまえが、なぜ今までこのような無法地帯である地獄で生きてこられたのか。ヴォックスは、そこにはアラスターが関与しているのだと痛感していた。認めたくはないが、なまえにとってアラスターは抑止力となっている。己では果たせない役割だ。それにまた苛立ちが湧き上がる。だが、その役割を果たせるのはアラスターだけであるということもまた理解していた。
なまえは不思議そうな面持ちで眼前のヴォックスのことを見上げている。彼は呆然とした様相でなまえと視線を絡ませた。そして己の手を確認し、再び彼女に移動させる。
本当は触れられるはずがなかったからだ。ヴォックスはアラスターの施した呪術によりなまえに触れられない。接触を試みようものなら弾かれる。せめて服の上からであれば無問題であるのかと思ったが、それも不可能に終わった。ただの思い違いだったのだ。
「ヴォックスさん」
なまえは石のように固まり動けずにヴォックスの名を呼ぶ。その華奢な肩には彼の手が乗っている。
「な、んでだ」
ヴォックスがわなわなと震えながらそう呟く。なまえは首を傾げ、困惑している彼を見つめる。
フロントに下りた際、郵便物を配達するために訪れたなまえが秘書と会話に花を咲かせているのを目撃し、声をかけたのである。ヴォックスはなまえ秘書と打ち解けていることを快く思っている。彼の存在が橋渡しとなるからである。ヴォックスはなまえと関わる時間を求めていた。だが、毎日のように顔を合わせるための理由がなかった。不自然であると捉えられることは避けたいのである。ヴォックス・テック社のトップを務めている以上、ただの一般市民である───なまえが元天使である以上、厳密にはそう言及できないものの───少女に執着していると認知されることは避けたいのだ。立場を見誤っては駄目だ。頂点に立つものは常に心に余裕を持ち、誇り高くあるべきである。それがたったひとりの存在に振り回されては、ここまで築き上げていた理想像が崩れ落ちてしまうだろう。それはヴォックスの信念だった。
そんな好都合なきっかけを生み出す有能な秘書は、ものの見事に衝撃を受けて動けないでいる上司に目配せした。だがヴォックスは心ここあらずの様相で、ただただなまえと己の手を交互に凝視することしかできない。
おもむろに、ヴォックスはなまえの肩から手を下ろす。続けて半信半疑に二の腕を掴んでみると、それもまた可能だった。思わず、力が籠められる。男のそれとは異なる柔らかな感触は、彼の眼にとても魅力的なものに映った。事実、なまえは悪魔的観点からすると実に興味の惹かれる存在だった。それは天使という地獄における特異的な存在であるがゆえである。
沈黙が続くなか、秘書が「ボス?」とヴォックスに声をかけたところで、彼はようやく我に返った。無表情を取り繕っているつもりなのかもしれないが、今の彼の口元は緩んでいる。再度秘書がヴォックスの名を呼ぼうとしたところで、口が開かれる。「会議の時間を午後に変更する。皆にそう伝えておけ」そう言うと、ヴォックスはなまえとともに秘書の前から姿を消した。
「……スケジュールを組み直さないといけないな」
そんな呟きは、誰かの耳に入ることはなかった。
見慣れた青い電流が身体を包む。気がつけば、なまえは液晶パネルに囲まれた部屋へと移動したことに気がついた。初めてヴォックスと出会ったときの場所である。フロントで話をすることは多々あったが、そういえば彼の部屋を訪れたのは久しぶりだなと思った。とは言え、ここがいい思い出のある場所だとは断言できない。ヴォックスならまだしも、どうしても恐ろしくてたまらないヴァレンティノのことが脳裏を過ぎるからである。つい先日の恐怖は忘れられやしない。彼の求める金稼ぎに利用されることはないと確信はできたものの、そこが安堵に繋がるわけでもないのだ。それに、エンジェルダストのことも気がかりだった。まるでもののように扱われ、人権が侵害されている彼のことが心配でならなかった。しかし、魂の契約が結ばれている以上は手の打ちようがない。なまえにできることはなにもなかった。それを歯痒く感じている。
なまえは未だ己の腕を掴んで離さない、思案顔を浮かべているヴォックスのことを見つめた。そのおずおずと見上げる様相は、彼にとって不道徳的な感情を湧き上がらせるものである。なまえが再度ヴォックスの名を呼ぼうとすると、彼は一歩前進した。ぐっと身体が押され、なまえは後退せざるを得ない。そしてまた一歩距離をつめられる。「?」困惑した反応を示されても、彼は無視を決め込んでいる。やがて、なまえの足がソファに引っかかり倒れ込んだ。柔らかな素材で作られたものだったので痛みはないものの、状況が読めず眼を丸くする。
「……ヴォックスさん?」
「……」
なまえの顔に影がかかる。ヴォックスは名を呼ばれても返答しない。ただただ興奮しているようだった。しかしなまえにとっては、この状況下がヴァレンティノに映画の撮影におけるモデルとして攫われた記憶と重なった。大柄の男ふたりに組み敷かれ、身のすくむような恐怖を覚えたことが鮮明に蘇ったのだ。必然と身体がこわばる。ヴォックスはその怯えた顔をはっきりと視認したものの、それ以上に自制心が崩壊している状態に陥り、本能的に能力を使用しなまえの思考回路を奪ってしまった。とは言え、虚ろな眼になったなまえを見てなにか思うことがあるようにも窺える。ヴォックスは術を施してから、このまま強行突破しては後悔する予感がした。眼前の光景は待望していたものだったが、ぐっと言葉を呑み込む。そして重い溜め息を吐き能力を解こうとするものの、数秒後意識がはっきりしたなまえがぎゅっと抱き着いてきたので、ぎくりとした。そんな行動を示されたら制御などできるわけがない。ずっとこのままでいたいと思ったのだ。ヴォックスは歓喜のあまり口角が吊り上がっている。にやにやするしかなかった。現状がうれしくてたまらないのだ。先の一瞬の後悔は、あっという間に思考の遥か彼方に飛んでいった。
ヴォックスは抱き着いて離れようとしないなまえを抱き上げると、対面するようにしてソファに腰かけた。とろけた眼をして恍惚の表情を浮かべているなまえがいたく魅惑的に見える。幾度も脳内に描いた展開に武者震いまでする始末である。なまえがアラスターの管理下に置かれていることがずっと不満だった。まるで所有物であるかのような扱いを受けていることもひどく面白くなかった。己のみが触れられなかったことも納得いかない。だが、今はその願望が叶っている。彼はそのことが心底愉快だった!
「ヴォックスさん、すき。だいすき!」
「……!」
顔をほころばせながら発せられたその言葉に、ヴォックスは雷に打たれたかのような衝撃が走る。心のどこかで聞きたかったと渇望していた発言なのだ。言葉を失うほかない。
なまえはヴォックスに抱き着き頬ずりをする。うっとりした姿を見て、心が満たされていく感覚に見舞われた。細い腰に手を回し、いやらしい手つきで撫で上げれば、余計に抱きしめる力が強くなった。華奢だが柔らかな身体が密着する。己の意思で使役しているのは重々承知の上だったが、それでも興奮するものは興奮するのである。
ぴったりとヴォックスから離れないなまえは、彼にとって欲望を揺さぶるものだった。感情がかき乱され、理性がぐらつく。なまえはヴォックスの頬に幾度も唇を押しつけている。画面に手を添え、軽く触れるだけの口づけを繰り返す。彼はそれに痺れを切らすと、なまえの手を引き、力尽くで唇に己のそれを重ねた。平たい顔面から赤く厚い舌がぬるりと這い出る。角度を変えて貪るような口づけに腰が引けたなまえは、腕を伸ばして彼から距離を取ろうとする。ここで、彼はなまえがキスがへたであることを察知した。だが、それは余計に欲情を燃え上がらせる要因となった。離れようとするなまえの後頭部と腰を手で支え、逃げ道を塞ぐ。すると彼の推測通りなまえはあっという間に酸欠状態になり、ぐにゃぐにゃと脱力した。それにまた満たされる感覚を抱く。性とは縁遠い印象を抱く清らかななまえを乱しているのは、紛れもなく己である。そのことがどうしようもなくうれしかった。
ヴォックスは力が抜けてぐったりしているなまえの背を撫でる。そして身がよじられたとき、なまえの大腿が彼の一点に押し当てられた。スーツの上からでも張っていることがわかる。無論、彼自身も自覚していた。
「なまえ、少し動けるか?」
ヴォックスは吐息混じりの声でなまえの体勢を変えようと指示する。そして深い口づけの余韻が残っているなまえが、頭をくらくらさせながら緩慢な動作で身じろぎする。その膝が熱をかすめたそのとき、息を呑んだ。ほんの一瞬のことであるにもかかわらず、感じたことのない快感だったのだ。彼にとってセックスというものは日常茶飯事の行為であるものの、今までのその体感が覆るほどの感覚が脊髄を走る。思わず前のめりになり、息がつまった。密かに苦しんでいるヴォックスに気がつかないなまえは、彼の指示するかたちに体勢を整え、やがて落ち着いた。
ヴォックスの熱の上になまえの局部が重なっている。上機嫌に擦り寄ってくるなまえのおかげで熱が擦れ、得も言われぬ快感が生じる。そう仕向けたのは彼自身だ。それは理解している。なまえは静かに耐え忍んでいるヴォックスに再び抱き着いた。その体動で再度熱となまえの局部が擦り合わされ、彼の口角が引き攣る。
「……ッ、なまえ、待て」
「どうしたの?」
なまえは首を傾げてヴォックスのことを見つめる。至近距離で絡まる視線に、彼は沈黙した。余裕がないのは己だけだ。そのことが不満だった。なまえにも一泡吹かせたい。そう考え腰を突き上げるようにして動かせば、なまえの身体がびくりと跳ねた。きゅっと口を結び、迫りくる感覚に耐えているかのような様相を見せるので、思わず口元が緩む。ただ、そこには空虚感も存在していた。今のなまえはまがいものなのだ。ヴォックスの能力で使役して得られた、本心ではない、精巧に作られた偽物。彼はそれを虚しく感じている。
なまえにしてみれば、ヴォックスは親しくなりたいと願う相手である。しかし、それは彼にとっては知る由もない。加えて彼には不純な動機もあった。元天使であるなまえの清らかな心は、地獄ではもみくちゃにされておしまいなのだ。非常に面白くないことではあるが、アラスターがそこに関与しなまえのことを保護している。彼のみではない。ハズビンホテルという存在がなまえに手を差し伸べ、無法地帯で生存することを可能としていた。
彼らのおかげでなまえは生きることができている。ヴォックスはそのことに安堵しつつ、心のどこかでは羨む感情もあった。己に理解できる範疇をとうに超えていた。
ヴォックスは行為を続けるため、体位を変えようとなまえを抱えて立ち上がろうとした。そして名を呼ぼうとし、暗転する。眼前が真っ黒になり、己の身に何が起こったのかを理解したのは、或る声が鼓膜を震わせてからだ。
「お愉しみの最中だったかな?」
ヴォックスはソファごとひっくり返ったことに気がついた。そして顔を思い浮かべることすらも憎たらしい、到底許容できない、視界に入るだけでむしゃくしゃする奴が───アラスターが、今ここに姿を現したことに苛立ちを覚えた。ぐらりとぶれる世界。あまりの憤激に、顔面にライン抜けが走っている。なまえを引き寄せようと手を伸ばすが、細い腕を掴むことができない。慌てて周囲を確認すると、ぼんやりとしたなまえはアラスターの隣に佇んでいた。
「アラスター……!!」
アラスターはご丁寧になまえの肩に腕を回し、満面の笑みを浮かべている。対して、非常に面白くないヴォックスは厭悪がこみ上げる。これ見よがしに身体を密着させている姿に反吐が出る思いだ。まるで優位に立っているかのような余裕綽々の姿。実際優位に立たれているのだが、それを認めるわけにもいかない。
ヴォックスはぐらつく頭を支え重心の定まらない身体で立ち上がると、アラスターのことを睥睨する。だが、当然ながらアラスターはけろりとしている。にやついた面持ちがひどく気に喰わなかった。途端に笑い声が響き渡り、部屋のなかで反響する。狂気じみた音が耳を打った。
「誰の許可を得た」
感情の汲み取れない声音。ヴォックスは舌打ちをする。
なまえはアラスターに肩を抱かれたまま、ぼんやりとヴォックスのことを見つめている。どうやら洗脳は未だ解けていないようだった。このまま名を呼べば、#name1#は己のもとへ戻ってくるであろう。たとえ能力を介していたとしても、それは彼にとってなによりも価値のあるものだった。アラスターではなくヴォックスを選択するという結果に意味がある。優越感を覚えるのだ。そう信じてやまなかった。
そして、ヴォックスが「なまえ、こっちに───」と声をかけようとしたところで絶句した。アラスターがなまえの頬に唇を押し当てたのだ。たったそれだけのことなのに、ヴォックスの顔が歪む。ただ、同時に妙だな、とも思う。一瞬違和感が生じたのだ。しかしながら、今はそれどころではない。ただヴォックスがなまえのもとへ駆け寄ろうとするも、アラスターの召喚した悪魔に影を踏まれて転倒する。そう足止めをされているうちに、とうとうなまえが正気を取り戻した。眼に光が戻り、ぱちぱちと二回瞬きをする。ヴォックスはなにも言えない。言えるわけがなかった。弁明する余地がないのだ。それを自覚しているからこそ、なまえにかける言葉が見つからない。
「……? ヴォックスさ、…………!!」
なまえは己の置かれている状況を把握しようと周囲を見渡し、硬直する。そして肩を抱くアラスターを視認し、顔を青褪めさせた。その様相に、ヴォックスのなかで或る疑問が浮上する。まるでなにかに怯えているかのように感ぜられたのだ。
言葉を出せずにいるヴォックスを横目に、アラスターはかたかたと身体を震わせるなまえの頬に再度唇を押し当てた。「ひっ」なまえは口から過剰に引き攣った声を洩らす。その姿は、やはりヴォックスにとって違和感を抱くものだった。
「……っあ、あらすたあ……や、やめ」
「…………」
アラスターはなまえの表皮に舌を這わせる。それからやわらかな頬肉に歯牙をあてがった。不穏な雰囲気。どこか艶やかで、そして扇情的だった。少なくともヴォックスの眼にはそう映った。彼はなにも言えずにいる。ただ、眼前の光景は心底憎たらしいものであるはずなのに、なぜか眼を逸らせない。そしてアラスターの鋭利な歯牙がなまえの表皮を突き破り、体内に侵入するのを目撃してしまった。「……、い゛っ……!」まるで捕食だ。ヴォックスは息を凝らす。
なまえの口から痛みに苦しむ声がこぼれる。痛みから逃れようと暴れるが、肩をぐっと引き寄せられ、解放される兆しは見えない。それどころか、両肩を掴まれ余計に逃げられなくなってしまった。
アラスターは食い込ませた歯牙はそのままに、あろうことか頬に空いた穴からなまえの血液を啜っている。まるで口渇感を覚えているかのように無心で吸っているのだ。じゅる、という音がヴォックスの耳に入る。ただ悪魔のそれとは異なる美しい黄金色の血液は、カニバリズムの気がないヴォックスにとってもどういうわけかとても甘美なもののように見受けられ、思わずごくりと唾液を飲み込んでいた。
「あ、っあらすたー! っ、あ゛っ、いた、いっ!」
明らかに泣きじゃくっている声音である。じくじくとした熱を帯びた痛みがなまえを襲う。しかし、暴れれば暴れるほどアラスターの鋭い歯牙が深く突き刺さる。彼は眼を細め、激痛に泣き叫ぶなまえの顔を眺めている。なにも言えずにいるヴォックスの視線は、依然としてなまえに固定されていた。それを把握しているアラスターが、新たな歯牙で再度なまえの頬に穴を空ける。啜り切れなかった血液が頬を伝い滴った。
やはり、ヴォックスはなにも言えずにいる。ただただ言葉を失っていた。眼前の狂気に満ちた光景をぼんやりとした頭で眺めることしかできないのだ。
不意に、なまえの身体が脱力する。ぐったりと動かなくなり、そこでようやくヴォックスが正常な思考回路を取り戻した。アラスターは意味深な面持ちでなまえの頬を丹念に舐め上げている。血液の一滴すらも無駄にするのが惜しいと言わんばかりに。ヴォックスは思わずそばに駆け寄ろうとするものの、影を踏まれ叶わない。アラスターは悔しそうに歯を喰いしばる彼ににたにたと笑み「夢見心地の気分はいかがですかア~?」と問うた。
「この俺をからかってるのか?」
「そう思うのならそうなのでしょう」
「ふざけやがって……」
「随分と余裕のないご様子!」
「いけ好かない奴だ」
「今更ですね」
「……」
「穢らわしいそれを処理したらどうです」
「……!! くそッ、ふざけやがって!!」
ヴォックスはアラスターの指摘を受けて屈辱に見舞われた。冷めた眼差しに思わず頭を抱え、握りこぶしで地面を殴りつける。なぜ反応してしまったのか、そんなことは己にもわからない。苦しんでいるはずのなまえを見て、どういうわけか興奮を覚えてしまったのだ。嗜虐心を有しているわけでもないのに。
「むしろなぜ貴様は平常でいられる??」
ヴォックスは混乱しているようだった。思考と現実が噛み合わない。「……なまえは、……」彼の言葉は尻すぼみになっていき、最後の方は聞き取れなかった。もっとも、彼にさほども興味のないアラスターには無関係なことである。
「天使とまともに接触する機会なんてそう訪れない。それは理解しているだろう」
ぽつりと、ヴォックスが口を開く。崩れ落ちた体勢のまま、項垂れるようにして言葉を紡ぐ彼を、アラスターは幻滅したような表情で見下ろしている。「アラスター、貴様はいつだって俺の進む道の邪魔をする」ヴォックスはわなわなと震えた声で、地獄を牛耳るためになまえは利用できる存在であると断言した。現状、ヴォックス・テック社は軌道に乗っているが、そこからさらに確かな地位を築き上げることができれば、それ以上に望むものはないだろう。そう続けるヴォックスに、アラスターは溜め息を吐いた。
「利用できるものはとことん利用するのが道理だ。ここは地獄なんだぞ? この絶好の機会を活かさないでどうする?」
「あなたと一緒にしないでください。ほとほと迷惑だ」
呆れた様相でそうあしらわれたヴォックスは沈黙した。彼の言うように、無法地帯である地獄においては誰かを貶めるのは常識だ。己の利益とするためには犯罪にも手を染める。血なまぐさい日々が日常茶飯事で、そんな生活において人畜無害な元天使であるなまえは大いに利用価値のある存在だった。だが、上級悪魔のなかでも群を抜いた実力を持つアラスターは誰よりも悪魔的思考を有しているのに、なぜヴォックスの発言を否定するというのか。ヴォックスは理解が及ばなかった。
とは言え、なんだか余裕綽々で上から目線な態度を取るアラスターを前にすると、ヴォックスのなかにふつふつと苛立ちが湧き上がってきた。
「アラスタァアア~~~……!!」
「その行動を許容するわけがないだろう。なまえはお前のものではない」
「それはお互い様だろうが!!」
アラスターは声を荒げるヴォックス一瞥すると、ぐったりと動かないなまえを小脇に抱え影を介してホテルに戻ろうとした。両足が黒のなかに沈み込み、頭が飲み込まれるその直前に「どうぞご自由に持論を展開なさってくださーい!」と声高らかに言われ、押し黙るほかない。そしてとうとうアラスターの姿が見えなくなり、ヴォックスは憎悪のあまり意味の成さない声を洩らした。
嵐のような時間が過ぎ去った。ほんの数十分前までは、熱望していたなまえの時間を過ごせたというのに、今はひとりだ。ヴォックスは孤独感を抱いている。そして悶々とするなかで、アラスターの口にした持論とはいったいどういうことなのかという思考に行きついた。なまえを利用するだのなんだのという言い分のことなのか、それとも。
「……俺は……このまま……」
ヴォックスは力なく天を仰いだ。