恐るる慧眼

 治安もへったくれもない場所、インプシティ。そこは身分も階級も最低な悪魔が生活する、秩序という概念が存在しないところである。
 なにを隠そう、そんな己の人間性とは正反対の特徴を持つ場所になまえは訪れている。仕事仲間の配達員がひとり体調不良で休養しているためである。穴が空いたぶんはほかの誰かが埋めねばならない。なまえの上司は、そこに彼女を充てた。誰だって治安の悪い地区には行きたくないものだ。一部の層を除き、常になにかしらの犯罪行為が蔓延っている場に出向かうなどごめんであると否定するものが多いからである。流れ弾に頭を撃ち抜ぬかれたり、不慮の事故に巻き込まれて死亡したりする可能性がぐんと上昇するのは誰にだって予想のつくことだ。つまりは下手に人員を配置させたのちの逆恨みを恐れた。粘着質に執着され寝首を掻かれる危険性だってある。だがなまえは、誰が見てもそのような行動とは無縁だとわかる。渋ることもなければ刃物を振りかざすこともない。なんの疑問も抱かずに与えられた職務を全うする。上司はなまえの優しさに甘えたのだ。
 実を言うと、休暇を得た配達員は仮病であった。もとより彼は仕事を適当にこなす質でやる気も見られない配達員なのだ。上司はそのことを重々承知であったが、へたに首を突っ込んで災難に巻き込まれるのはごめんだった。ゆえに、なにを言っても二つ返事で快諾するなまえを選択した。彼にとってなまえはせめてもの救いだったのだ。
 ただ、チャーリーがその事実を知ったら卒倒してしまうであろう。ヴァギーは死にもの狂いでなまえのもとへ向かうだろうし、エンジェルダストは顔の広い交友関係を駆使してなまえの身の安全を確保させるかもしれない。アダムは言わずもがなである。
 なまえは一生懸命に各家々を回り、ポストに手紙を投函している。その間、住民が皆外出中であったのは不幸中の幸いとも言えよう。関わりを持ったら最後、とんだ問題に首を突っ込むことになるのは明々白々であるからだ。
 なまえは不穏な欲望を持って関わろうとしてくる相手になんの疑問も抱くことがない。基本的にすぐ信じてしまうのだ。言葉の裏に隠された悪意に気がつけないのである。それは傍から見れば長所とも短所とも取れる内面性であろうが、チャーリーたちからすればやりきれないに違いない。
 ところが、鞄に入っている手紙が残り一通となった。実に喜ばしいことに、災難に巻き込まれず仕事を完遂できそうだとなまえは思った。鞄から手紙を取り出すと、住所を確認する。どうやら最後の目的地は徒歩数分でたどり着けそうなところらしい。
 だが、不意に強風が吹いた。そしてなまえの手から手紙が飛んでしまった。「あ、あ……!」血の気が引く。このまま手の届かないところまで飛ばされてしまったら配達することができない。手を伸ばすがを掴めなかった。飛ばされていくその様を眼で追うことしかできないのだ。慌てて駆け出すものの、最悪の事態が脳裏を過ぎり顔が青褪める。
 なまえにとって、この一瞬がとてもゆっくりとした時間のように思えた。手紙は無慈悲にも風に巻きあげられる。やがて道路を挟んだ向こう側にいた壁に背を預けてスマートフォンをいじっている女の顔に思い切り張りついた。なかなか痛そうな、小気味のいい音が辺りに響く。なまえは思わぬ事態に眼をまん丸くする。取り戻すことが不可能な距離まで飛ばされなかったことに安堵したのもつかの間、なまえは別の意味で再度顔を青褪めさせた。ハッと我に返り、慌てて女のもとへ駆け寄る。

「あっ、あの、ごめんなさい! 大丈夫ですかっ?」
「……」

 女はなまえの言葉かけに反応を示さない。よほど腸が煮えくり返っているのか。なまえはそう推測し、半泣き状態になる。眉尻を下げながら謝罪を口にし、女の顔にぴったりとくっついて落ちそうにない手紙を取ろうと手を伸ばそうとすると、逆に手首を掴まれて硬直した。なまえはおろおろと掴まれた手首と女の顔を交互に見やる。「あ、あの……」あまりの申し訳なさに声が震えている。
 女は依然としてなにも言わない。なまえはこのまま手首を折られてしまうのではないかという恐怖が湧いて出てきた。そう考えだした途端に女が恐ろしくなり、かたかたと身体も震え始める。
 するとなまえの異変に気がついた女がゆっくりと顔から手紙を引きはがした。ふたりの視線が絡む。女は己の眼を疑った。何故ならここは地獄だからだ。眼前の存在感は、あまりにも地獄に相反する。あり得ないのだ。ゆえに、言葉が出てこない。
 女の口があんぐりと開いている。見つめあって数十秒が経過した。なんの進展もない事態だ。やがてなまえがおずおずと声をかける。

「あ、の……大丈夫ですか? ごめんなさい、お手紙が風にとばされちゃって、あなたの顔に……」
「……」
「も、もしかして、とっても痛いですか? ど、どうしよう……」

 なにも言えない女に、なまえの思考がぐるぐると渦巻いていく。正常な判断ができなかった。ただただ女への申し訳なさがこみ上げ、謝ることしかできない。
 女はわあわあと慌てふためくなまえを目の前にして、幻覚を見ている気さえしてきた。地獄に天使がいる、、、、、、、、だなんて誰が信じられようか! おまけに地獄一治安の悪いインプシティに、である。頬を強くつねり刺激を与えてみるも、当然痛みが生じて夢ではないと確信する。「あんた……」懐疑心は膨れ上がる一方であるが、これが現実であるならば。

「?」
「なんでここにいるの?」
「お、おしごとで」
「そういう意味じゃない」
「……?」

 女は己の言わんとしていることを微塵も推測できないなまえに一抹の不安を覚えた。出会って間もないことは否めないが──この少女は、もしかしてとんでもなく鈍いのではないかと。

「まさか迷子?」

 女は勝手にそう結論づけた。天使が地獄にいるのはそれほどあり得ないことだった。
 思わず呟かれたその発言に、なまえはぱちぱちとまばたきをする。女は頭を抱えており、なにやら苦悩しているようだった。なまえは彼女がなにに苦しんでいるのかが理解できない。顔に直撃したお手紙がとっても痛かったのかもしれないと、それくらいしか考えが及ばないのである。
 なまえは存在しているだけで周囲から浮いている、という自覚がなかった。インプシティで手紙を配達しているさなかも、集中していることで多方面から突き刺さる視線に気がつかなかった。気がつけなかったのだ。もっとも、アラスターの立場があればなまえ本人に介入できるものは圧倒的に少なくはある。ただし、必ずしもそれが絶対的、、、であると確約はできない。彼の呪術が発動することにも条件があるからだ。実際、その網を掻い潜ってなまえと接触できた悪魔がいた例がある。彼らはたまたま、、、、可能であったとも言及できるが、それでも二十四時間三百六十五日安全であるとは断言できないのがアラスターのみぞ知る事実だ。

「わ、わたし、迷子じゃなくって」
「……じゃあなんでここにいるの」

 女はなまえの返答を聞き、同じ質問を繰り返した。なまえは言葉が出てこない。己が天使であったことを知られるのは回避するべきであると、チャーリーから再三、耳にたこができるほど言われているのだ。もしかすると逃げた方がいいのかと考えあぐねていれば、女がなまえの頭を優しく撫でるものだから、驚きで肩が跳ねた。その手つきはチャーリーたちのものと似ており、なまえは女が危険な人物ではないと察知する。

「……!」
「……事情があるのね」
「……ん、は、はい……」
「……」

 女は深い溜め息を吐くと、きょろきょろと周囲を確認する。天使がいるだなんて悪魔に知られたら、予想できる結末はひとつだけである。なまえの存在感は明らかに悪魔のそれとは異なるが、天使が地獄にいるのはにわかに信じがたい話なので、よほどのどじを踏まなければ起こり得る危険は回避できるであろう。女はまるで己に言い聞かせるかのように胸の内で呟いた。

「あ、あの、ほんとうにごめんなさい。痛かったですよね」
「大したことない」
「けががなくてよかったです」
「まあね」
「それでは」
「!? ちょ、ちょっと待って!」
「?」

 なまえは女が傷を負ったわけではないことを理解すると、ぺこりと頭を下げて去ろうとした。だが女は拍子抜けをしたという面持ちで静止の声を上げる。それに辺りの悪魔の視線が集中し、思わず口を押さえた。女は不思議そうな顔をしているなまえを呆れ半ばに見つめる。

「どこ行くの?」
「最後のお手紙をくばりに行きます!」
「ひとりで?」
「? はい!」
「危ないからやめておいた方がいいと思うけど」
「でも、毎日やってることなので」
「毎日!?」
「ひゅ……」
「あ、ごめん。……けど、マジで毎日やってるの? 正気?」

 女は己からなまえに正気かと問うておきながら、彼女は至って正気で大真面目であると理解した。こんなにも危機管理能力のない、浮世離れしている人物がアルバイトをしていると。しかも天国ではなく地獄で。加えてインプシティで。そんなの命がいくつあっても足りないだろう。どういうわけか、女は頭を抱えた。
 なまえは突然蹲り苦しみ始めた女に不安げな様子で「だ、大丈夫ですか? やっぱり痛いんじゃ……」と声をかける。背中をさすられた女は、どこか心が温かくなる感覚を得た。地獄では体験できないはずの優しさだ。それにどこか懐かしささえ覚える。
 女はなまえがこうまでも単純なことに憂慮した。天使とはそういう生き物なのかとも考えたが、現実問題そうとも思えないのである。
 出会って間もない関係ではあるが、女はすでになまえに絆されていた。手を差し伸べたくなるのだ。無論、悪魔がそのような思考を抱くことは至極珍妙なことではあるのは言うまでもない。なまえ親密になりたい、、、、、、、という感情を刺激するいい例だった。しかしそれがアダムにとって悩みの種でもある。どこへ行っても注目の的であるなまえのことが心配でしかたがないのだ。天国で権力を振りかざしていたころの姿とは到底重ならない、チャーリーもにっこりな成長っぷりである。
 女はゆっくりと立ち上がると、背をさすっていたなまえの手を掴み真っ向から凝視する。なまえはどぎまぎした。意味深な表情を浮かべて見つめてくるものだから緊張しているのだ。

「それ」
「……?」
「どこに届けるの」
「IMP社、です」
「!?」
「!?」

 女は嫌な予感がした。IMP社は彼女が勤める職場だ。義父を筆頭に暗殺を──と表するにはあまりにも派手な言動が目立つが──生業とし、依頼がきたら魔導書を介して人間界へ足を運び標的を処分する、まさしく裏社会で生きる会社である。
 女があまりにもこわばった顔をするものだから、なまえは腰が引けた。思わず手紙を握りしめ、折れ線が走る。ぴしりと硬直しているなまえを他所に、なにを思ったのか女は手紙を取り上げた。背伸びをしても手を伸ばしても取り返せそうにない高さまで持ち上げられ、なまえは困り果てる。
 女は手紙を注意深く観察する。そして反対の面を確認しようと裏返せば、そこにはIMP社の住所と十三時配達厳守、との一言が添えてあった。かわいらしいはあとマークが語尾に加えられているが、女はやはり嫌な予感がするのである。付近にあった時計台を視認すれば、現時刻は十ニ時五十九分だった。
 なまえは難しい顔をして手紙を睥睨している女を見上げ「あ、あの……」と声をかけるも、無反応を決められた。ほとほと困惑するほかない。
 ふと、女が手紙を折り曲げたり逆さにしたりするので、なまえは頭の上に疑問符を浮かべる。不思議そうに女のことを見つめていると、女は次いで、手紙に耳を当てた。途端に驚愕した様相になるものだから、なまえは息を呑む。一体なにごとだと身構えれば、女は手紙を頭上に放り投げた。きれいに放物線を描き、ちょうど一番高いところまで上昇したそれは、ものの見事に爆散してしまったのだ。焼けた紙片がなまえの足元に落ち、ちりちりと灰になった。
 女はぜえぜえと肩で息をしており、なまえはぽかんと呆けている。なにが起こったのか、状況を把握するのに少々時間を要した。やがてなまえは手紙が爆発した方向を睥睨している女におずおずと声をかける。

「だ、大丈夫ですか?」
「……あんたさ、もう少し自分の心配したら? あたしがいなかったら爆発に巻き込まれて木っ端微塵だったんだよ?」
「ん! ありがとうございます」
「……はあ」

 にこにこと人懐っこい笑顔を浮かべながらうなずくなまえに、女は重い溜め息を吐く。あまりにも危機管理能力に欠ける天使だと痛感したのだ。平和ボケしており、ひとを疑うことを知らない。これでは殺してくださいと言っているようなものだ。地獄には弱みにつけ込む輩がごまんといる。なまえはまったくもって単純なのであった。

「けど、マジでこのアルバイトはやめておいた方がいいと思う。いや、そもそもあんたみたいなのが地獄で仕事するってこと自体がおかしいんだ。見るからに危機感なさそうだし……配達してる最中に誘拐されたりポストに手紙を入れようとしたら手を掴まれて家に連れ込まれたりする可能性だってある!」
「で、でも……わたし、チャーリーの力になりたくて、……」

 女はしゅんと落ち込むなまえを見て言葉につまった。あまりにも落ち込んでいるものだから罪悪感を抱いたのだ。そしてチャーリーとは誰かと思惟する。

「チャーリーってシャーロット・モーニングスターのこと?」
「はい! わたしのことを受け入れてくれたんです」
「ふーん……」

 女はチャーリーの名を聞いて、なまえは己が思っていたよりも安全なところで生活できていることに安堵した。地獄の姫のもととはつまり、地獄で話題沸騰中のあのハズビンホテルに暮らしているということなのだろう。チャーリーの生活圏にいられるのならば、危険に瀕する確率はぐんと低くなるはずだ。とは言え、ホテルの活動を揶揄する無計画な悪魔の襲撃はそれなりにあるかもしれない。けれども、女はホテルには悪魔も恐れる悪魔──アラスターがいる、という噂を聞いたことがあった。それだけではなく、エクスターミネーションが失敗に終わり堕天したとニュースになったアダムも生活していると。散々見下してきた悪魔に牛耳られるだなんて皮肉にもほどがあると鼻で笑ったのは記憶にも新しい。
 女はそこまで思考を巡らせるとなまえのことを見下ろす。にこにこと微笑んでいる姿を眼にして、チャーリーのことが羨ましいと思った。どうやら相当な信頼関係が構築されていることが伝わってくるのだ。まるで家族であるかのように。女は義父のことを思い返した。彼は己によくしてくれている。決まりが悪くなかなか感謝を口にはできないが、家族が素敵なものであるのは彼女自身も十二分に理解していた。
 女がぼんやりとなまえを見つめていると「おねえさん」と声をかけられ、我に返る。

「なに?」
「どうしてわたしが天使だったってわかったんですか?」
「……本気で訊いてんの?」
「?」

 女はまたまた頭を抱えた。なまえには周囲から浮いているという自覚がないのだ。どういった感情の矛先を向けられているのかも理解していない。極めて無防備な元天使。これでは取って食われるという言葉通りに、いつつまみ食いされてもしかたのない事態だろう。あるいはもはや手遅れなのか。女はそこまで考えて頭を振った。

「鼻が利くの。……まあ、あんたの場合はあたしじゃなくたって気がつくと思う」
「そうなんですか?」
「そう。……」

 女のその返事以降、沈黙が訪れた。なにかを言おうにも、なにを言えばいいのかがわからない。ただ、このまま解散するのはもったいないと感じた。なまえと知り合えたことがとても幸運なことのように思えるのだ。
 なまえはなにも言えずにいる女に笑顔を向けると、頭を下げて「助けてくださってありがとうございました」と言い、くるりと回れ右をした。このままではなまえは去ってしまう。地獄は広い。再び会える確証などないのだ。女は考えるより先になまえの手を掴んでいた。

「あ、あのさ」
「?」
「……また会えないかな」
「……!」

 ためらいがちにそう訊ねられたなまえは眼を瞬かせた。女の言葉を脳内で反芻し、やがて満面の笑みを浮かべて口を開いた。

「友だちになってくれるんですか?」
「え」
「え。……あ、と、友だちになってくれるのかなあって思ったんですけど……勘違いだったかも」

 しょんぼりと落ち込むなまえとは対照的に、女は未だぼんやりとしている。
 友達。そう、女はなまえと友達になりたかった。久しく感じ得なかった感情である。ころころと表情の変化するなまえを見ていると、不思議と形容しがたい気持ちが次々と湧いてくるのだ。決して負のものではなく、心がじんわりと温かくなるようなものだ。

「……いや、勘違いじゃない。あんたが嫌じゃなければ」
「わ、わたし、うれしいです。友だち、あんまりいないから……」
「プリンセスは友達じゃないの?」
「チャーリーは家族です! そう言ってくれました」
「……」

 やっぱ家族なんだ。女は口を衝いて出そうになった言葉を飲み込んだ。
 己と友達になれたことで頬を紅潮させるなまえを見て充足感を得た。きらきらと輝く眼は、地獄では滅多に見かけることのできない純粋で清らかなものである。直視できない眩しさに女は眼を細める。なまえと関わっていると過去の過ちすらも無かったことにできるのではないかという根拠のない憶測が生じる。しかし、そんなことはあり得ないだろう。ただ女は善意で溢れる天国には反吐の出る思いを抱いていたが、なまえが暮らしていたとなるとそこまで悪い気はしないと思った。

「ねえ、スマホは持ってる?」
「もってます」
「……よかったら電話番号交換しない?」
「わあ、いいんですか?」
「そう言ってる」
「ん! ありがとうございます」

 提案するとなまえが心底歓喜しているような蕩けた笑顔を浮かべるものだから、やはり充足感を得た気がするのだ。他愛のない話をしているだけだというのに、そこがなまえの長所であり、また逆も然りでもあるとも思った。そんななまえの性格を悪用する悪魔は必ず存在する。そういった悪を排除するためには、チャーリーを始めとしたホテルの従業員が必要不可欠なのだろう。
 もしチャーリーよりも己が早く出会っていたとしたら、なまえはIMP社で匿っていたのだろうか、などと考えてもしかたのないことばかりが脳内を駆け巡る。天使という特異性から様々な災難に巻き込まれるのは日常茶飯事ではあるだろうが、それでも賑やかで楽しい日々を送っていたはずだ。なんだかんだで部下想いの義父が先導してくれていたかも知れないし、己と親友と表せる間柄にまで至っていたかも知れない。女はちょっとだけチャーリーが羨ましく思えた。それくらい彼女たちの信頼関係は確固たるものだと伝わってくるからである。
 ただ、そろそろなまえも帰宅しなければならない時間だ。「遅くなるとみんなが心配しちゃうので、そろそろ帰りますね」そう言うなまえに、女が声をかける。

「待って、まだ名乗ってなかったよね」
「……あ! ほんとうだ」
「あたしはルーナ。好きに呼んで」
「じゃあ……ルーちゃん?」
「………………」
「ご、ごめんなさい、馴れ馴れしかったかなあ」
「そんなことない」

 思わぬ呼び名に女──ルーナは狼狽えた。あだ名で呼ばれるのはいつぶりだろうか。随分と長い間、そこまでに到達するほどの仲がいいと形容できる友達はいなかった。それに話を聞いたぶんはチャーリーを含めたホテルの従業員にはあだ名で呼んでいるようには思えず、なんだか特別扱いされているような気になる。そのことに高揚感がじわじわと溢れ、思わず口角が上がった。「よかったあ。……わたしはなまえです」なまえはルーナに拒絶されなかったことに胸を撫で下ろし名乗った。

「ルーちゃん」
「なに?」
「ふふ、呼んでみただけ」
「はは、なにそれ。……じゃあ、近いうちに連絡するよ」
「まってるね」

 そう言って帰路に就いたなまえは何度も振り返り手を振るものだから、それにまた心が温かくなるのである。
 ここが地獄であるとは忘れてしまうような時間が過ぎた。今日がルーナにとって忘れられない大切な一日となったのは言うまでもない。

 帰路の道中、なまえはルナのことを思い返してはにっこりしていた。そして鼻歌混じりでホテルの扉を開けると、いつものようにチャーリーとヴァギーが駆け寄ってきた。

なまえ、おかえり!」
「ただいま!」
「……ん? なにかあったの?」
「なんだか嬉しそうね」
「わあ……やっぱり、チャーリーとヴァギーはなんでもわかっちゃうんだ」

 あまりの感激に頬が紅潮しているなまえに、チャーリーとヴァギーは顔を見合わせる。どうやらとんでもなく興奮しているようで、不安を抱いたのだ。
 なまえが歓喜して帰宅したときは大抵、プレゼントを渡されたりデートに誘われたりしたという過去がある。そのプレゼントというのは身体に悪影響を──いわゆる催淫剤の類である──及ぼすようなものであり、デートに関してもバーへ行こうと誘われた例があった。手を出そうという魂胆が見え見えであるのだが、なまえが相手の思惑に気がつかず建前を信じるものだから、チャーリーたちは死に物狂いで静止するのである。
 なまえは嫌な予感で顔をこわばらせるチャーリーとヴァギーに、照れたように「ん、あのね、友だちができたの」と言った。すると聞き耳を立てていたアダムが現れてなまえを見下ろし口を開いた。

「野郎か」
「あ、あだむさま……」
「アダム~? 違うでしょ?」
「………………」

 有無を言わせぬチャーリーの様相に、アダムは沈黙する。なまえにもなまえの生活があるのだから、過干渉するのはよくないとはわかっているのだ。けれどあまりに平和ボケしているがゆえに心配だった。そこはチャーリーもヴァギーもアダムと同様の気持ちを抱いている。だが怯えさせるのもまた違うことも理解している。だからこそアダムは苦悩していた。
 青い顔をしていたなまえは、震えた声で「お、おんなのこです」と言った。それに安堵したのはアダムのみではない。とは言え、異性よりかは不安材料はないものの、それでもどこの馬の骨かもわからない悪魔となまえを交流させるつもりもアダムには毛頭なかった。久しぶりに手を下す必要があるかと考えていると、チャーリーが訊ねる。

「女の子に友達になろうって言われたの?」
「ん、うん」
「どこのどいつだ」
「い、インプシティの」
「インプシティ!?」

 三人の大きな声になまえは気圧され後退した。地獄一治安の悪いところなのだから当然の反応である。ただでさえ己の身を守るすべを持たないというのに、なぜそんな危険な場所へ行ったのか。考えられる理由はひとつしかない。
 職場だ。大方、なまえならば却下しないと踏んだ上司が保身のために押しつけたのだろう。利用されているのがひどく気に喰わない。アダムは苛々している。
 なまえは黙り込んで思考を巡らせているアダムを恐る恐る見上げ、おずおずと切り出した。

「お、おしごとをお休みしたひとがいたから、そのかわりにわたしが」
「ええ、みなまで言わなくてもわかってるわ。……ああ、本当に……」

 無事に帰ってこられてよかった。チャーリーは心底安堵した声音でそう呟くと、なまえのことを抱きしめた。なまえは抱きしめられたまま、どうやら自分は相当危険なところに行ったらしいと自覚した。手紙を配達していたときは集中していたおかげかそこまで治安の悪い印象は受けなかったが、なまえは己がアラスターに施されている術のことをすっかり忘れていた。彼がいれば百人力で、恐ろしいことなどなにも起こらないのだ。よほどのことがなければ。

「ねえなまえ、その人がどんな方か知ってる?」
「わ、わたしが配達しようとしたお手紙に爆弾がはいってて、……それで、その手紙を投げてくれたの」
「助けてくれたのね!」
「あ、あと、IMP社で働いてるって」
「IMP社!?」

 三人の気迫になまえは再び後退した。「??」なぜ皆が驚愕しているのかがわからない。世情に疎いからだ。加えてそもそも地獄のほかの階層に赴いたことがないのも関係している。インプシティのことを知らないのも当然だった。
 チャーリーは顎の下に指を添えてなにやら考え事をしている。なまえは友達になれたルーナのことを思い出していた。また会っていろんなことを話したい。助けてもらった恩もあるのだ。ぜひお礼をさせてもらいたいと思った。

「チャーリー……職場が絡んだ問題事に巻き込まれる可能性は?」
「否定はできないわ。……でも、なまえのことを助けてくれたんだったら悪い人ではないと思う」
「それには同意するけど」
「……そうね。決めた」

 チャーリーは決心した面持ちでうなずくと、不安そうななまえの両手を取って「友達ができたのは素敵なことよ!」と言った。なまえは瞬きをする。

「チャーリー……いいの?」
「ええ、もちろん! 今回は大丈夫な気がする。私の勘がそう言ってるわ!」
「確かに、地獄で人助けだなんてほとんどないからね」
「……! ん、ありがとう!」

 満面の笑みを浮かべて抱き着いてきたなまえを、今度はチャーリーが抱きしめ返した。本当にうれしそうにしているものだから、これでは許可した甲斐もあるというものである。
 ただ、インプシティでは会わないようにと念を押された。さらに言及すれば、会うならばホテル付近が望ましいと。そうすればなまえの知り合いが多いので、なにか問題が生じても誰かしらから手を差し伸べてもらえる。なまえの日頃の仕事に対するひたむきな姿が活かされるであろうと踏んだのだ。
 そんな喜んでいるなまえを前に、アダムはなにも言えないでいる。もやもやと晴れない内心に、思わず口元を歪めるほかなかった。