なまえが満面の笑みを浮かべてアルバイトから帰還した。その様相は誰が見てもなにかうれしいことがあったと推測できるであろう。それはチャーリーとヴァギーも例外ではなく、ふたりは互いに顔を見合わせてからなまえに訊ねていた。
「なまえ、なにかあったの?」
「ん! チャーリー、ヴァギー、これ!」
にこにこした表情を前にすると、いい意味でも悪い意味でもなんだか感化される気さえする。だがなまえが喜ぶことと言えば、チャーリーたちにとって不安に繋がりかねないことが多いのだ。他人を使役し利用して貶めることが当たり前であるという思想が蔓延っている地獄では、なまえは極めて都合のいい存在である。口車に乗せられて誘拐事件に巻き込まれたことだってあった。よってチャーリーたちはハラハラしているのである。ただ、無事に帰還できたことを踏まえればそういった事件性のあることに絡んでいるとは断言できない。それでも心配なものは心配なのだった。
そんなふたりの内心に気がつけないなまえは、とろけた面持ちで「もらったの」と言い、ポケットからある紙切れを取り出した。その眼はかがやき、頬は紅潮している。どうやらよほど興奮しているらしい。
チャーリーはまばたきをした。次いでヴァギーを見やり「これって……」と話しかける。ヴァギーはしばし悩んだ。なぜならなまえがふたりに見せたのはルールーランドのチケットだったからである。
「行ってもいいかなあ?」
「なまえ、待って。これ誰から?」
「上司の方からだよ」
「……チャーリー、ちょっと」
ヴァギーはチャーリーの名を呼びなまえから距離を取る。その表情は深刻で、なにやら思うところがあるらしいことが窺えた。
ルールーランドへの招待券。場所が場所なだけあって警戒せざるを得ない。なぜならそこはルールーワールドを模倣した娯楽施設だ。物騒な無秩序地帯もいいところなのである。
問題はそれだけではない。なぜなまえが上司から直接的にそのような代物を渡されたのか。ふたりは内緒話をするように、なまえに聞こえないほどの声量で話し合う。
考えられるとすれば、先日のインプシティでのことであろう。ひとり欠員が出たためになまえを普段とは異なる地区に派遣させた。己の身を守る術を持たないなまえにしてみれば、その判断は死地に向かわせられたようなものだ。もとより地獄には天国のような安置がないとはいえ、インプシティという街の特異性を考慮すれば、なまえは搾取され取って食われるしかない存在であると確信できるはずなのである。であれば、それを詫びるためなのか。そう思案すれば、なまえをルールーランドへ誘うための伏線であるような気もしてきた。意図的に危険な場所でアルバイトをさせ、その始末として行動しているのかもしれないのだと。いわば優待のために。
チャーリーとヴァギーはそこまで話すと、チケットを大事そうに掲げ、きらきらと輝いた面持ちをしているなまえを見やる。ふたりの懸念を微塵も自覚していない様相であるが、それがなまえという元天使なのだった。
やがてふたりは神妙な面持ちをしてなまえの隣に移動し、口を開く。
「なまえ、このチケットをくれた人に一緒に行こうって誘われたの?」
「ううん。友だちとか、だれかと行っておいでって」
「……?」
チャーリーとヴァギーは一抹の違和感を覚えた。己らの推測が筋違いであるとはどうにも思えないのだ。なまえをルールーランドへ誘いだし、なんらかの関係性を持ちたいという下心があるに違いないのである。しかしなまえがそう答える以上は、ふたりの推測は誤っているのだろう。なんだか内心はもやもやとすっきりしない。
判然としない空気のなか、アダムが現れた。彼はあくびを噛み殺しながらなまえのもとへ歩み「帰ってたんか」と言う。そしてなまえの手に握られているチケットに気がつき、眉根を寄せた。
「ルールーランドォ?」
「そう、もらったらしいの。……でも」
「ね、チャーリー、ヴァギー。わたし行ってみたい!」
どうやらなまえの決意は相当確固たるようである。疑問を抱かずにはいられないほど、異様なまでの羨望すら感ぜられた。だが遊園地は天国にもあるはずで、そこまで執着する理由がわからない。天国であればルールーランドと比較すると安全性も高いはずであるし、命がいくつあっても足りない、という状況にはならないであろう。それなのに、よりによって生命が脅かされ危機に瀕する可能性が否定できないところに行きたいのはなぜなのか。
「天国にも遊園地ってあったわよね? 行ったことあるでしょう?」
「あ、……」
「……アダム~? まさかとは思うけど」
うつむき言いよどむなまえを前に、チャーリーの脳内にある仮定が浮上した。確認も兼ねてアダムの方へ視線を滑らせれば、彼は眼を泳がせだらだらと冷や汗を流している。そのまさかが的中したのだ。
アダムは天国にいたころ、なまえに自由行動を許さず、また常に監視下に置き、さらには遊園地を含めた娯楽施設すらにも行くことを許諾しなかったのである。アダムはアダムで、なまえが自ら死地に向かおうとしていることに焦燥を覚えていた。そしてその原因が己にあることも認めざるを得ない。「束縛しすぎよ!」もっともな叱咤である。
ここで、チャーリーとヴァギーはなまえが不思議そうな面持ちをしていることに気がついた。なぜアダムが責められているのか理解できていないようなのだ。そこで、ふたりは彼が気づかれないよう根回しをしていたことも察知する。言うまでもなく、なまえは鈍い。ゆえに気がつけなかったのかもしれないが、その決して勘ぐられぬように行動に移す徹底ぶりには脱帽するほかなかった。
とはいえ、生きていれば誰しもが一度は行ったことがあるであろう遊園地が、経験したことのないなまえの眼にいたく魅力的に映るのは理解できることだった。己には一生手の届かない場所であるとすら考えていたかもしれない。そう思考して胸が締めつけられる感覚に苛まれる。チャーリーとヴァギーは顔を見合わせると、なまえのことを優しく抱きしめた。そして「なまえ。初めての遊園地、楽しんできてね」と言った。
「……! ん、ありがとう!」
「あとは誰と行くか、だね」
「………………」
「アダム」
「……あ、あんだよ」
「行ってきて。なまえと。ふたりで」
感情をあらわにするチャーリーを眼前に、アダムはたじろいだ。角が生えているのを見れば憤っているのは誰だって理解できるであろう。どうやら大層立腹しているようなのだ。手籠めにしていたことも許容できなかったのに、それだけに飽き足らず人生の選択肢すらも搾取していたなど誰が許せようか。この溝を埋められるのは本人であるアダムだけだ。もっとも、なまえは溝であるとは捉えていないのであろうが。とことんひとが好く、また疑うことをしらない極めて清澄な元天使。そのことが彼にとって救いになっていることは言うまでもないことであろう。
「アダムさま、一緒に行ってくれませんか?」
直視できないほどに輝く双眸で見上げてくるなまえに、アダムはぐっと言葉を呑み込む。無論、断る理由などなかった。
ルールーランドに到着したなまえとアダムは、相反する反応を見せている。まるで異世界にきたかのではないかと思うくらい頬を紅潮させ興奮しているなまえと、遠巻きからでもわかる悪感情が誘起される雰囲気にやや引いた面持ちのアダム。園内に入るとりんごを模したと思しきマスコットキャラクターがおり、なまえは喜色満面に駆け寄った。するとマスコットが大歓迎であると言わんばかりに両腕を広げて口を開く。
「やあ! 僕はルールー!」
「わあ、おはなしできるの?」
「もちろん! ここに来るのは初めてかい?」
ルールーと名乗ったマスコットはなまえにずいと近寄った。なんだか距離感がおかしい。親しみやすさを追求した顧客を愉しませるための常套手段のひとつだろうか。だが嫌な直観が働いたアダムはすかさず間に入り、なまえの腕を掴んで己の背後にくるよう誘導する。のんきにも「アダムさま、ルールーだって!」と口にするなまえは特段気にした様相ではなかったが、対してアダムの顔は歪みに歪みきっている。
ルールー。嫌な響きだ。どうにもルシファーの顔が脳裏を過ぎるのである。アダムもルールーランドはルールーワールドを模倣した施設であると把握済みである。よって彼の危機察知能力が発動する要素が盛りだくさんである気しかしない。それは確信だ。なかなか苦痛を強いられる時間になりそうだったが、それでもちらりと視線を移した先のなまえは心底満喫しているようで、それが唯一の心の安寧だった。
だが、ルールーはなまえを抱きしめようとしつこい挙動を見せるので、彼女の腕を引き距離を取りながら思わず悪態を吐く。
「ッこの野郎、触る必要性、ねえだろ!」
「あひょっ! 確かに!」
「……なんなんだよ一体……くそッ……」
気味の悪い声で笑った反動で片目が飛び出したルールーに、アダムは心底嫌悪感を抱く。なにを思考しているのか汲み取れない。表情が見えない着ぐるみということもあいまり判断に困るのだ。それでも、なまえに対して不快な感情を抱いていることだけは理解できる。どうやらルールーはアダムにとって見た目だけではなく笑い声も言動もなにもかもが生理的に受けつけない存在となってしまったようであった。
そこで、なまえの興味がルールーからアトラクションへと移動する。いわゆる絶叫マシーンである。緑色の炎に包まれながら最高到達点から急降下し、地下に潜る。命がたったのひとつでは足りないと感じるほかない。あんなものになまえは乗りたいのか。アダムは期待した顔で見上げてくるなまえを諭すように語りかける。
「あ、アダムさま、あれ」
「やめとけ」
「でも……」
「どう見たって老朽化が進んでるし、管理が行き届いてるとは思えない。心配なんだよ」
「……しん、ぱい?」
アダムのその発言にぽかんとしたなまえは、まばたきを二回した。次いで「しんぱい……」と、ぽつりとその言葉を反芻する。
アダムは過去になまえのことを手ひどく扱ってきた。気が遠くなるほど長い間、人権というものが搾取されている目に遭ってきたのだ。拒絶を許さず、ただただ受け入れることしか許されてこなかった。なまえの嫌がることを率先して実行していたのだと。ゆえに、嫌われていると思っていた。それなのに、今彼の口から耳にしたことのない単語が紡がれた。思わず口に出してぼんやりと噛みしめる。気にかけてくれていることが伝わってきて、胸の内がじんわりとするのを自覚する。掴まれた腕も、以前のような自己中心的な行為をするためのような力の入り方ではなく、己を守るためであると伝わってくる。触れている部位から伝導してくるあたたかな体温が、なまえの心をぽかぽかと満たしてくれている気さえした。
なまえにとってアダムとは、時たまにまだ恐ろしいという感情を抱くことはあるものの、その前提が覆りそうな事態であった。
「なまえ?」
なまえは名を呼ばれ我に返る。突然黙り込んだ姿を疑問に思ったアダムに声をかけられ現実に引き戻されたのだ。慌てて顔を上げれば視線が交差する。考えてみれば、ハズビンホテルで生活拠点を共にしてから彼には数えきれないほどの場面で手を差し伸べてもらっている。それが天国に帰還するため──つまりはチャーリーの言う魂の救済のためであるのかは、なまえには判断がつかない。地獄で善行を積み、再び天使軍の先導者に返り咲きたいのであろうと考えていたが、目下のアダムはどうにもなまえの抱いていた印象とはかけ離れた、むしろ正反対のところに立っているような気がした。
考えれば考えるほどアダムのことがわからなくなってきたなまえであったが、今はせっかく念願の遊園地にいるのだから、愉しまなければと頭を振る。なまえはアダムの名を呼ぼうとした。だが、思わぬところから横やりが入る。
「あ、アダ──」
「みんな~! 今だ!」
「……!?」
声の主はルールーだった。そう理解すると同時に大量のマスコットがふたりのもとへ走ってきて、なまえとアダムが引き離される。掴んでいたはずの腕を振りほどかれ、あれよあれよという間に離れ離れになってしまった。アダムの怒声が徐々に遠くなっていき、なまえは血の気が引く。どこに隠れていたのか問いたいほどの数に怖気づくほかない。途端にどうしようもない不安が襲いかかる。チャーリーとヴァギーにもはぐれないよう、またひとりで行動はしないよう言いつけられているのに、こんな形で実現されてしまったことに心細さを感じてしかたがない。
ぽつんと取り残されたなまえは、途方もない形容しがたい感情に見舞われた。周囲の愉しんでいる様相、空気から取り残され、まるで切り離れされた世界に置いてけぼりを喰らっているかのような。
不意に、近くにいたカップルが射的に挑戦して上がった歓声が聴覚を刺激し、意識が現実に戻る。それからどうやってアダムと合流すべきか思考を巡らせた。最も簡単な方法は、彼が押しのけられ無理やり引きずられていった方向へ進むことであろう。そう信じて歩き出そうとしたら、背後から「迷子か?」と声をかけられた。びくりと身体を震わせてから恐々振り返ると、そこにはピエロの恰好をした人物が立っていた。不安で言葉を口にすることができないなまえに、ピエロはどこからともなく花束を取り出し手渡した。するとなまえは眼を輝かせ「あ、ありがとうございます……! お花もらうの、ひさしぶり」と満面の笑みで言った。どうやら先の不安はどこへやらのようである。なまえは甚だ単純だった。そして花束からピエロに視線を移し、ひとつ気がついたことがあると口にする。
「あ……あの、あなた、ヴォックスさんのところにもいた」
「ヴォックス?……ああ、V軍団の? あれは用途が違うぜ」
「?」
なまえがヴォックス・テック社に初めて訪れたとき、ヴォックスからウェルカムドリンクを振る舞われたときがあった。そのときのお手伝いロボットのことを言っているのだ。見目は少々異なるが、顔立ちや雰囲気はよく似ていると思い訊ねたのである。だが、どうやら果たすべく役割が異なるようでなまえは首を傾げた。
「俺はあそこでサーカスするのが仕事だ」
ほら、と指をさされた方向に視線を移すと、そこにはサーカスショーを披露するテントが設置されている。そう気がつくと、なまえの顔が明るくなった。なにせ実物のピエロを眼にするのは初めてことであったし、サーカスにも興味を持ったからである。「観てくか? 観客がなまえなら大歓迎」ピエロはそう言うと流れるような動作でお辞儀をしてから手を差し出した。それに笑顔を浮かべながらその手を取ろうとしたところで頭上から声が落ちてくる。
「ふざけんなよ……」
声の正体は羽ばたいているアダムのものだった。彼はどうにかこうにかしてマスコットたちから逃れてきたようで、ぜいぜいと肩で呼吸をしている。その視線がなまえを捉え、次にピエロを突き刺し、最後になまえの手にある花束に移動する。薔薇だ。おまけに真っ赤の。花言葉は言うまでもないであろう。
アダムは荒々しく着地すると、なまえから花束を取り上げ真っ二つに引き裂いた。千切れた花弁がはらはらと力なく地に落ちる。「……あ、……」それを見たなまえは弱々しく声を洩らし花弁を拾い上げようとするも、風に巻き上げられ飛んでいってしまい叶わない。明らかに落ち込んでいる様相にアダムはぎくりとした。
「花なら私がいくらでも買ってやる……」
得も言われぬ感情により震えた声で呻るようにそう言えばなまえは顔を明るくするので、その発言が最適解であったと安堵する。ところが人知れず胸を撫で下ろすアダムを視認したピエロが笑いだしたので、彼は眉間に皺を寄せ睥睨した。
眼前に佇むピエロ──フィッザローリィ。なまえは彼のことを知らないであろうが、アダムは知っている。地獄は当然ながら、天国でも名を馳せている技量の申し分ないピエロなのだから。フィッザローリィは地獄で生活しているにしては珍妙な人間性を持っている。常識を弁えているのだ。加えて向上心を兼ね備えているそうで、エンターテイナーの鑑とも言えよう。さらにはファンサービスも事欠かないときた。心が荒む地獄では彼が心を癒す存在であると認識しているものも少なくないはず。
だが、このフィッザローリィは本物ではない。強欲を司る悪魔によって大量生産されているロボットなのである。ルールーランドにいるロボットはサーカスを生業としているが、もっとえぐみのある用途で販売されているものも存在する。アダムは堕天してからというもの、天国にいた際には把握するに至らなかった地獄の情勢を嫌というほど目の当たりにしてきた。それこそ嘔気を催すほどに。
強欲の悪魔。嫌な響きである。利己的で傲慢で、世界は己を中心に回っていると確信している男だ。実際権力は有しているのでなおさら厄介だった。
そんな強欲の悪魔は、年に一度ピエロコンテストを開催している。また、定期的に放送されているテレビ放送においても女はつまらない生物であると豪語していたのを再三観てきた。だがなまえを見ていると、どうにもその見解が払拭されてしまいそうな気がしてならない。強欲の悪魔の管轄内にあるロボットのフィッザローリィが接点を持とうとしているように感ぜられ気に障ってしかたがないのである。なにか裏があるのではないかと。アルバイトをしているがゆえに郵便物を配達する区域内にいる悪魔たちに把握されているのはまだ理解できる。だが、フィッザローリィはなまえと初対面なのである。
とんだ興覚めだ。否、もとより愉しんでなどいない。なまえがいたから耐え忍べていたものの、それもここまでだろう。
「アダムさま、サーカスみて行きませんか?」
「………………」
「あ、あだむ、さま……?」
「おいおい、呼ばれてるぞ天使様?」
「………………」
げらげらと笑い声を上げるフィッザローリィにアダムは深い溜め息を吐いた。ひどく気分が害されたと思ったのだ。反吐が出そうな内心に顔が歪む。フィッザローリィは笑いをかみ殺してアダムの背後にいるなまえに声をかける。
「なあ、サーカス業に興味はないか? 今よりもよっぽど金になるし、なにより有名になれる」
「は?」
なまえが返答する前にアダムが口をはさむ。思わずすごんでしまったが、至極当然であろう。なまえの特異性を加味すれば、サーカスはなまえの長所を──見方を変えれば短所とも表せる──最大限に引き出せる仕事であるとは断言できる。非日常を味わえる環境にちょっとしたスパイスを加えるようなものだ。ただ、周囲を惹きつけるのはときに命にかかわる事態に関与する場合も否定できない。なまえがどこまで理解できているのかは未知数なものの。
アダムは思惟する。先の発言を聞くに、どうやらフィッザローリィはなまえのアルバイトの事情を心得ているようである。どこまで情報を得ているのかが不透明だ。それの入手経路も気がかりだったが、アダムはちらりとなまえに視線を移す。するとその面持ちは不安そうで、少なくとも二つ返事でサーカス業を務めたい、という意思はないように窺えた。なまえはチャーリーのハズビンホテル経営に関して力添えをしたいと強く思っている。だがフィッザローリィが金銭的な誘惑をちらつかせているにも関わらず即座に首を縦に振らないところを見るに、チャーリーが普段から口を酸っぱくして言い聞かせていた甲斐があったようだ。実を言うと気持ちが揺らいでいるのはわかるが「で、でも、チャーリーが」と考えなしに肯定しないのはなまえも多少は成長したと言えよう。
「生憎間に合ってる。勧誘なら他を当たれ」
なまえの発言を遮ったアダムはそう吐き捨てる。しかしふたりの返答は予想の範疇だったようで、フィッザローリィは特段気に留めることもなく「俺はいつでも大歓迎だからな!」と言い放った。彼はなまえ目がけて前進するとどこからともなくメモ帳を取り出し、さらさらと連絡先を記入して彼女に押しつける。するとすかさずアダムがなまえには到底見せられない顔でびりびりに引き千切ったものだから腹を抱えて笑い転げた。アダムの額には青筋が浮かび、苛立っているのが伝わってくる。
「マジでわかりやすいなお前!」
「………………」
「じゃ、なまえ。またな」
ひらひらと手を振り去って行くフィッザローリィになまえは手を振り返すが、反してアダムは苦い顔をする。なまえが相手を拒絶しないことは承知していたものの、面倒ごとに巻き込まれかねない交友関係を築くことに不安を抱かないわけではない。だが、その対応策が極めて単純明快であることに気がついたのも事実である。
要するに己が守ればいいのだ。アダム自身、天国にいたころと同等の戦力を保有しているとはいえないものの、それでもなまえを守護するそれ相応の実力は十二分に持ち合わせていることも自負している。天使軍を率いていたときには考えられもしない心境の変化だった。
ここで、アダムはふとあることを考える。なぜフィッザローリィがなまえの名を知っているのか。それを訊ねようとなまえから視線を移動させると、すでに彼は立ち去っており追求することは叶わなかった。
「アダムさま?」
なまえは険しい顔をしているアダムを不安気に見上げる。視線が絡むが、やはり以前のような戦慄が背筋に走る感覚はないのである。
「帰るか」
「ん、はい!」
「多少は愉しめたかよ?」
「はい、とっても!」
笑みながら返答するなまえはアダムの苦労など露知らぬところだ。それでもどうしようもなく心を揺さぶる姿を見せるので、帳消しだと考えれば無問題であろう。
翌日。なまえがアルバイトから帰還したとき、ルールーランドのチケットを手渡してきた上司が退職したと聞いたが、その理由はアダムのみぞ知る。