なまえは本日の最後の手紙をポストに投函した。鞄のなかを最終確認し、空になっているのを確かめると満足げに笑む。そして肩にかけていた鞄を背負い直すと、職場に戻るために踵を返そうとした。しかし、背後から何者かに肩に手を置かれ驚きで飛び上がる。思わず鞄をぎゅっと抱きしめ、距離を取るために走り出そうとしたところで「や、やあ!」と声をかけられ、静止した。その声の主は緊張しているのか、声が裏返っていた。
なまえはきごちない動きで振り返る。すると、そこにはひとりの悪魔がいた。その悪魔は一見すると好青年のように見受けられる。ただ、視線が絡まない。おまけに眼が泳いでいた。なまえが眼を瞬かせて彼のことを見つめると、彼は余計にそわそわと落ち着かない様相を呈する。どうやら悪意はないようである。
青年は上擦った声で「い、いい天気だね!」となまえに話しかける。その間も、彼の視線はなまえではなく明後日の方向へ向き、視点が定まらない。なまえは彼のその発言に促されるようにして空を見上げる。ただ空は相変わらずどんよりと重たい雲が広がっており、果たしてそれがいい天気であるかどうか、なまえには判断がつかなかった。天国の環境とはわけが違うのだ。酸性雨が降っていないだけ、世間一般で言うそれには該当するのかも知れない。なまえはぼんやりとそう考える。
なまえがなにも言えないままにじっと青年のことを見つめていると、ようやく視線が絡んだものの即座に逸らされ、少しばかり傷心する。目を合わせたくないのだろう。そう考えずにはいられない。
では、なぜ彼は己に話しかけ、挙句肩に手を置くなどという行動をとったのか? なまえは思考を巡らせる。彼の住居に手紙を配達したのは今日が初めてだ。初対面なのである。恐ろしい状況下ではあるが、そんな相手に接触を試みられる理由がわからなかった。おまけに嫌われているようである。なまえは恐怖を感じつつも、思わずしょんぼりする。だがそれが顔に出ていたのか、青年は慌ててまくしたてる。
「あ! ご、ごめん。悪気はないんだ。ちょっとさ、ほら……緊張? しちゃって?」
己のことであるというのに疑問形で訊ねられ、なまえは狼狽する。青年がなんのために声をかけてきたのか意図が読めない。なまえは命の危機を察する。だがじりじりと後退すると、それに気がついた彼が今度は逃げられないように両肩に手を置いた。その手には過剰なまでに力が籠められており、なまえの口から「ひっ」と引き攣った声が洩れる。彼はまっすぐなまえのことを見据えて口を開いた。
「お願いだから逃げないで」
不穏な色を揺らめかせた双眸に、なまえは硬直せざるを得ない。血の気が引き、身体が震え始める。恐怖におののくなまえは、ただただ彼のことを見つめることしかできない。
なまえが目を逸らせないでいると、不意に青年の顔が真っ赤になった。その反応になまえは瞬きをする。もしかすると、己の危惧する展開にはならないのかも知れない。漠然とそう思い、いつでも逃げられるようにと力んでいた身体から力を抜く。彼はそれに気がつくと、ゆっくりとなまえの肩から手を下ろした。まだ赤面してはいるが、それでも少しは緊張が解けたかのように見受けられる。
「あ、あの、ご用件はなんですか?」
なまえがおずおずと訊ねると、青年は思案顔になって黙り込んだ。ふたりの間に気まずい空気が充満する。なまえは彼が口を開くまで待機するしかないと考えた。「あの、さ」しばらくしてから彼が口を開く。だが、その次の言葉が出てこない。よほど言い出しにくいことらしい。
なまえは、もしかすると事件性のあることに巻き込まれやしないかと不安に思った。大虐殺の計画書を配達してもらいたいだとか、危険な手紙の処理を依頼されるとなると、なまえにはあまりにも───実際のところ、なまえは己が認知していないだけで、すでにそのような手紙を配達しているのだが───身に余るものがある。そうなると、一刻も早くこの場を去った方がいいだろう。そして駆け出そうとしたところで、「あのさ!」と声を張り上げられた。なまえの肩がびくりと跳ねる。
「と、友達になりたくて!」
「……友だち?」
「そうそう、……」
どうやら青年は己と仲良くなりたいらしい。なまえはきょとんと眼を丸くする。彼の言葉を理解するのに少々時間を要した。
友だち。なまえは脳内でその単語を繰り返す。数秒ほど思考を巡らせ、ようやく意味がわかったところで笑みを浮かべた。悪魔と親密になるだなんてとんだ災難に違いないのだが、なまえはそこまで考えが及ばない。アダムがいれば逆鱗に触れているであろう展開であることにも気がつけないのだ。
「ん、友だち! いいですよ」
「マジ!?」
「? はい!」
なまえが笑顔を浮かべながら了承すると、青年は驚愕の面持ちを浮かべる。それを不思議そうに眺めていれば、彼はもごもごと口ごもった。なんだかあんまり喜んでいるように見えない。なまえは困惑する。すると、彼が慌てて口を開く。
「ご、ごめん! その、信じられなくて」
「?」
「だって、なまえは……」
青年はそこまで言うと、再度黙した。なまえは先ほどから彼の言動が理解できずにいる。親密になりたいという願望があるわりには視線が絡まず、承諾したら沈黙するという行動。頭のなかが疑問符に満たされるが、なまえはある事実にハッとして微笑む。
「わあ、わたしの名前しってたんですね」
「あ、ま、まあ……そりゃ……」
前から追っかけてたし。青年は、なまえには聞こえない声量でぼそりと呟く。そして不思議そうな面持ちをしているなまえを横目に、がしがしと頭を掻いた。
友達になりたいという懇願を了承してもらえた青年は、次いで「じゃ、じゃあ、これからどっか行こうぜ」と提案する。そのまま強引に腕を掴もうとしたところで「みんなに訊いてきます!」と駆け出された。慌てて追いかけようとするが、なぜか追いかけることができない。足が動かないのだ。まるでなにかの支配下に置かれているかのように。静止しようと口を開くが、声を出すことも叶わないのである。これはおかしいと焦燥しているうちに、なまえが遠くに行ってしまう。
青年は嫌な予感がした。だが、なまえが見えなくなった途端に身体を動かすことも声を発することもできるようになったものだから、ただただ絶望する。
みんなとは一体誰なのか。そんなの考えなくたってわかる。ハズビンホテルで生活するものたちのことであると。そこにはあのラジオ・デーモンだってアダムだっているのだ。そんな彼らに知られるだなんて死ぬことと同義だろう。青年は微笑みながら「は、はは……引っ越そ」と涙を流した。
すごすごと引っ越し準備をしようと家に入ろうとしたら、後方から影が被さる。青年は再び嫌な予感がした。そう、振り返らずとも己の未来が見えたのである。