堕ちてなお憐憫に

 一面血の海だった。
 地獄の人口数を調整するために執行されているエクスターミネーション。エクソシストはその役目を果たすため、年に一回地獄へと降臨する。今回も順調に、粛々と悪魔殺しが執行されていた。
 阿鼻叫喚。まさしくそのような現場であった。鮮血がほとばしる光景は戦慄ものである。

なまえ! そっち行った! 逃がすな!」

 仲間のエクソシストが声を張り上げる。しかし、それはあちらこちらから響き渡る叫び声にかき消されてしまった。
 間もなく絶命しようとしている悪魔がひとり。手には錆びつき刃こぼれした剣が握られている。その悪魔はせめてひとりは殺したいと奮い立っているのか、血走った眼で高い建造物の上へ移動し、或るエクソシスト───なまえ目がけて大きく跳躍した。襲撃する対象とされたなまえは、一点の悪魔に槍の矛先を向けている。その姿は、一見すると一人前のエクソシストのように感ぜられる。ただしそれはあくまでその一瞬の姿に鑑みれば、である。
 つまるところ、後方への注意力が散漫していた。
 その悪魔は、なまえの動きを見てこいつならば、、、、、、殺せるという確信を持って襲いかかろうとしていた。「くたばれ!」背後から憤激に染まった声音でそう言われ慌てて振り返ると、眼の前には恐ろしい悪魔がいた。なまえは引き攣った声を洩らす。思わず腕で顔を守るが、悪魔の目標はそこではなかった。
 翼だ。悪魔はなまえの片翼を切り裂いた。なまえは平衡感覚を失い、墜落して地面に叩きつけられた。その衝撃で仮面が割れ、顔面が露わになる。
 激痛に声が出ない。地面に落下した衝撃と切断された片翼。なまえは声にならない声を上げて苦しんでいる。「なまえ!」仲間がなまえの名を呼ぶが、やはりその声は周囲の喧騒に飲み込まれ彼女には届かない。
 なまえの切断された片翼からは、夥しいまでの血液が流れ出ていた。錆びつき鋭利さに些か欠けていた刀のおかげで断面はボロボロで、より一層痛々しさが増しているように窺える。白銀の羽毛が、じわじわと少しずつ赤黒く染まっていく。
 まるで悪夢だった。
 なまえは空を見上げた。目標数の悪魔を殺戮できたのか、他のエクソシストは天国へ戻り始めている。「ッなまえ!!」仲間はなまえの傍らに降下しようとするが、他のエクソシストに腕を掴まれ阻止された。

「ま、まって!」

 なまえはふらつきながら悲痛な声を上げて起立したが、仲間はそのまま波に飲まれ天国へ帰ってしまった。
 なまえは呆然とした。片翼を失ってしまった以上、飛行は不可能だ。なんとか無事だったもう片方の翼を羽ばたかせるが、やはり足が縫いつけられたかのように地と密着し、浮くことはない。加えて天国へ通じる道筋も閉鎖され、八方塞がりである。
 かたかたと身体が震える。気がつくと、周囲には憤激を隠せなかったり下品な笑顔を浮かべたりした悪魔が集まってきており、取り囲まれていた。
 飛べない天使は天使と呼べない。天使の象徴のひとつである翼を半分とは言え失ってしまったのだ。なまえは帰る術がなかった。慌てて片翼を収納し周囲に溶け込もうとするも、もう遅い。加えてなまえには弱点があった。
 悪魔は厭らしい声音で罵声を浴びせながらなまえににじり寄ってくる。

「ひっ」

 後退したかったが、あまりにも血を失いすぎた。身体が重く、立つことさえもままならない。思わず地面にへたり込んでしまった。ぐらりと視界が揺れる。槍を手にしようとするが───なまえにそれを扱えるかは断言できないものの───落下したときに折れてしまい、到底使い物になりそうになかった。やがて悪魔の悍ましい手がなまえに触れようとしたところで、場違いな明るい声が聞こえた。

「ちょっとどいて! ねえあなた、大丈夫?」

 鈍い動作で顔を上げると、そこには地獄のプリンセス───チャーリーが佇んでおり、なまえに手を差し伸べている。
 なまえは顔をこわばらせた。なぜならこの場にチャーリーがいるということは、己を処分しようとしているのだと思考を巡らせたからである。チャーリーは手を取る素振りを見せないなまえに屈託のない笑顔を向けると「警戒してるの? 大丈夫、私は味方よ」と言った。そのひとの好さげな笑顔は到底悪魔と呼べる様相ではなく、なまえは判断に困った。
 しかしひとの好さげな笑顔とは言うものの、取り繕うことなんて容易にできるし、やはり地獄の、、、プリンセスということもあり、なにか裏があるに違いない。なまえはそう結論を出した。

「翼を切られちゃったのね。あなた、もしかして───」

 チャーリーは思案顔でなまえのことを見つめる。だが、頭の上に浮かぶ輪に気がついた悪魔が次々と集まり騒ぎ立て始めた。

「今は私がこの子と話してるの。どいて」

 悪魔らは我先にと前進してくる。思わずチャーリーがそう口にするが、一筋縄ではいかないのがここ地獄、そして悪魔である。

「殺させろよ。もしくはブチ犯す!」

 天使を強姦するとか一生笑い話にできるよな! げらげらと下卑た笑い声が響く。なまえは顔を青褪めさせた。チャーリーに縋るつもりは毛頭ないが、彼女がいなければ今ごろ屍となっていたに違いなかったからだ。悪魔はチャーリーの横を押し通り、再びなまえに近づく。そして彼の汚らしい手がなまえに触れようとした瞬間、腕が切断され吹き飛んだ。なまえは言葉を失う。エクスターミネーションにより悪魔が駆除される光景には慣れてはいるが、至近距離で眼にするそれは、なかなか惨たらしい。思わず顔を背ける。
 なまえは手が吹き飛んだ悪魔の血液を頭から被った。べたついた鉄の香りが鼻腔に充満する。動転して顔に付着した血を手で拭うが、なかなかどうしてうまくいかない。
 悪魔は叫び声を上げている。周囲にいる別の悪魔は爆笑している。
 仲間ではないのか。なまえは混沌とした状況と同族が殺されても狼狽するどころかまるで娯楽のように愉しんでいる悪魔を信じられないという面持ちで見つめる。かと言って、エクソシストも温厚なわけではない。そうでなければエクスターミネーションで駆除に手を染めることなどない。なまえは、そのような特性を持つエクソシストにしては珍しく、悪魔に同情する質だった。それに加えて悪魔を駆除することも不得手だった。ほかのエクソシストから嘲笑されるくらいには。
 それにしたって悪魔の所業は理解のできないものである。

「チャーリー、なんの騒ぎ?」

 その声の主は、腕を切断され喚いている悪魔を背後から強襲し、持っていた槍で心臓を一突きする。そうして悪魔はそのまま脱力して崩れ落ち、息絶えた。

「ヴァギー!」

 嬉しそうに破顔するチャーリーは、そのまま声の主の元に駆け寄り、手を引いてなまえの前に連れてきた。「見て、この子!」チャーリーは興奮しながら、グレーがかった髪の長い女───ヴァギーになまえのことを教える。

「この子、何者だと思う?」

 眼を爛々と輝かせたチャーリーとは対照的に、ヴァギーは眼光を鋭くした。「天使だね」天使と悪魔の見分けは容易い。明確な差異があるのだ。
 天使の頭上には光輪がある。翼と同様、それもまた彼らの象徴だ。そしてなまえはそれを隠すのが苦手だった。
 ヴァギーは溜め息を吐く。「それで、どうするの?」嫌な予感がした。ヴァギーはチャーリーの返答を待機している。チャーリーは堪えきれずに小躍りしながら「この子にハズビンホテルに来てもらうの」と言った。ヴァギーは頭を抱える。

「自分がなにを言っているかわかってる?」
「もちろんよ! この子に来てもらえば、きっとみんなの手本になってくれるはず」
「悪魔を殺してきたのに手本になるの?」
「えっ」
「チャーリー、もしかして天使と関われているからって浮かれてる?」
「えっ、あ、それは……で、でも!」

 この子は普通の天使とは違う気がするの! チャーリーは握り拳を天に突き上げ、そう豪語した。その自信満々な様子を横目に、ヴァギーは再度重い溜め息を吐く。

「ヴァギー! なにかあったら私が責任を持つわ。それくらい当然でしょ?」

 ヴァギーを説得したいチャーリーは、なまえの隣に移動すると、ぎゅっと優しく抱きしめた。
 なまえは存在感を消すことに徹しているようである。
 チャーリーがなまえに頬ずりしているのを見たヴァギーは、やがて折れ、項垂れるようにして頷いた。

「……はあ。わかった、わかったよ。そこまで言うのなら協力する」
「ヴァギー!」

 ヴァギーはチャーリーの良き理解者だ。チャーリーの無謀な思考さえも、本当は進まない気持ちに蓋をして支持するのだ。ふたりの間には、確かな信頼関係が築かれている。
 チャーリーはヴァギーのその発言に歓喜した。そしてなまえを解放して歌を歌い、踊り始める。

「あなたの名前は?」

 なまえは流れるような動作で名を訊ねられ「……なまえ、です」と、恐々と小さな声で呟いた。これから己に降りかかるであろう展開が恐ろしかった。
 やがて三人のその様子に、また悪魔が集まってきた。当然、光輪を隠せないなまえの存在に気がつくものが出てくる。 

「チャーリー! 行こう!」

 これ以上この場に留まると面倒なことになる。ヴァギーはそう口にし、なまえを背負うとホテルに向かうため歩き出した。

 目的地に到着したなまえは、眼前に聳えるハズビンホテルを不安げな表情を浮かべながら見上げている。ホテルは新しく、きれいな印象を抱いた。

「さあ、なまえ! 入って」

 内装も丁寧に掃除が施され、細やかなところまで配慮が行き届いているようだった。
 存外居心地が良さそうである。
 ご機嫌なチャーリーは鼻歌を歌いながら、どこからともなく真っ白いタオルを持ってきて言う。

「その血はこれで拭いてね」
「え、あ、あの……あ、ありがとう」
「あ、それよりも先にお風呂かしら?」

 チャーリーはそこまで言うと、風呂の用意をするため、個室の───今後なまえに与えられる予定の───奥へ消えていった。
 ヴァギーは腕組みをしながらなまえに「変な気でも起こしたら容赦しないから」と吐き捨てた。なまえはほろりと涙をこぼす。それを見たヴァギーはぎくりとした。

「な、なんで泣くの?」
「だ、だって、……わ、わたし、もう死んじゃうかなって思って……」

 みんな、今ごろなにしてるのかなあ……。なまえはそう呟くと、タオルに顔をうずめてめそめそ泣き始めた。ヴァギーはまるで己が悪いことをしたかのような錯覚を抱き、押し黙る。
 どうしたらいいのかわからず沈黙するヴァギーと、涙を流すなまえ。ふたりは気まずい空気に身を包まれている。
 ヴァギーは慰めの声をかけようとした。結果として叶わなかったのだが。
 魅惑的な男───エンジェルダストが、「あれ、帰ってきてたんだ……って」と、自室から出てきたと思しき様相で、アイスを舐めながらヴァギーに声をかけたのだ。そしてその隣に天使がいることに気がついた。
 エンジェルダストは思い切り顔を歪めて口を開く。

「なんで天使がここにいんだよ」

 エンジェルダストはなまえに近寄りそう悪態を吐く。

「俺らを殺しにきたのか? 今回のエクスターミネーションはもう終わっただろ?」

 だがさめざめと泣くなまえを見ていると、やはりまるで己がなにか悪いことをしているかのように思えてくる。そしてヴァギーと同様に、彼もまた沈黙した。

なまえ! 今お風呂の準備をしてきたわ」

 チャーリーがみなの元へ戻ると、泣いているなまえと、どうしたらいいのかわからず手持無沙汰なヴァギーとエンジェルダストがおり、眼を丸くした。

「え? みんなしてどうしたの?」
「……ち、チャーリー、ごめんなさい」
「えっ?? なまえ、どうして謝るの??」

 状況が理解できないチャーリーは、泣き続けるなまえの頭を撫でた。「だ、だって、わたしのこと、殺すんだよね」再度ほろりと涙をこぼし、よわよわしい声でそう訊ねられれば、チャーリーは二回瞬きした。

「まさか! そんなわけないじゃない!」

 チャーリーはきれいに一笑すると、なまえの手を取り続ける。

「ねえなまえ。さっきも言ったけど、私はあなたにみんなの手本となってもらいたいの」

 曰く、チャーリーは悪魔を更生させ、天国へ行けるようにしたいらしいのだ。
 地獄の人口過密問題は看過できない。したがって、チャーリーはこのままでは飽和し崩壊してしまうと危惧していた。それは回避したいのだ。また、悪魔にも天使と同様に良心を持っているという確信もあった。
 しかし、それは悪魔からするとあまりにも愚問でお笑い種に過ぎず、冷やかしの嵐に見舞われている。実際、チャーリーの計画はお世辞にも順風満帆であるとは言えない。

「けど手本になってほしいって言ったって、こいつ天使だろ。火に油注ぐようなもんじゃん」
「それを逆手にとるのよ」

 エンジェルダストが怪訝そうな面持ちになると、チャーリーはふふんと笑みを浮かべる。

「冷やかしにきたひとたちをここに招き入れて、みんなで話し合いをするの。そうすれば私たちの思想が伝わって、きっと改心できるようになるはずよ」

 実際に面と向かって話をした方が効果てきめんに違いない。それがチャーリーの思惑である。
 エンジェルダストとヴァギーは沈黙する。なまえはまだ泣き止まない。

「あ。……あー、なまえだっけ? もう泣くなよ」

 明日、眼開けらんなくなるよ。エンジェルダストがそう言えば、なまえは涙を拭い、「もう泣いていません……」と言った。だが、まだ涙は止まっていない。
 泣き続けるなまえと笑顔のチャーリー、気まずいヴァギーとエンジェルダスト。すると、そんなちぐはぐな空気を一新させる扉の開閉音が聞こえた。
 二足歩行の猫。ハズビンホテルにおけるバーテンダーであるハスクが現れたのだ。

「……なんだ、また面倒ごとか」

 ハスクは呆れの混じった声音でそう呟くと、バーのカウンターのところへ移動し、ウイスキーを吟味するように確認し始める。そして目ぼしいものを選択すると、瓶ごとあおった。
 なまえはハスクを眼にすると、不思議なことに涙がひっこんだ。「か」小さな声。三人はなまえを見やる。

「かわいい……」

 そう呟いたなまえは、よろよろとハスクのもとへと歩いていき、カウンターの前にある椅子に座る。
なまえ~! ハスクのこと気に入った?」チャーリーはその後を追いかけていき、隣に座った。
 なまえは眼をきらきらさせながらハスクのことを見つめる。「なんで天使がここにいる」ハスクは瓶を片手になまえのことを見やると、「俺を巻き込むな」と言った。

「あなたの名前、ハスクっていうの?」
「……ああそうだが」
「ふわふわ。……かわいい」
「……おい、こいつをどうにかしてくれ」

 ハスクは輝いた顔をして見つめてくるなまえを面倒くさそうに扱った。「まあ、泣き止んだのならよかった……のか?」エンジェルダストは拍子抜けた顔になり、ヴァギーと顔を見合わせると、ふたりもまたなまえのもとへと歩み寄った。

「俺の質問に答えろ。なんで天使がここにいる」

 至極煩わしい展開になりそうだ。内心そう思ったハスクに、なまえの代わりにチャーリーが答えた。「翼を切られちゃって天国に戻れなかったの」そう伝えられ、なまえが肩を落とす。
 長年、エクスターミネーションは一方的に執行されてきた。悪魔はただひたすらに、天使という手の届かない存在によって牛耳られ、蹂躙されてきたのだ。そんな出来事を覆らせる展開に、皆が口をつぐむ。それは前例のないことだったからである。
 天使は悪魔にとって憎悪の対象だ。無慈悲で情け容赦のない圧倒的な力量の差で、暴力的に治められているからである。
 しかしながらなまえに関して見てみると、彼女はあまりにも弱そうだった。まるで不出来な、ある意味かわいそうな、そんな感想を抱かざるを得ない天使。それがなまえだ。

なまえがいれば、今よりも効率的にみんなが更生できる気がするの!」

 チャーリーは楽しそうに言う。ハスクは今一度ウイスキーをあおり、続ける。

「天使がいることで奇襲されるとは考えないのか」
「もちろん考えたわ。でも、それを考慮してもなまえはホテルに必要な子だって断言できる!」

 自信に満ち溢れたチャーリーを見たなまえは、泣いて赤くなった大きな眼を瞬かせた。
 つまるところ、チャーリーはなまえに感化されて改心することできる悪魔が大勢いると言うのだ。良心は伝播する。そう信じてやまなかった。

「チャーリー……」

 なまえは思わず笑顔になる。そして天国ではあり得なかった存在意義を認められ、嬉しさのあまり翼が出現した。パタパタと左右に揺れる片翼は上腕骨の中央あたりから切断されており、酸化し変色した血液が羽毛にこびりつくかたちで乾いている。露出した骨の断面は粗く、ぼろぼろだった。
 みなが切断された翼を見て、閉口する。同類である悪魔によって為された業だった。
 そこで、なまえがチャーリーに訊ねる。

「あ、あの、チャーリー」
「なあに?」
「……悪魔を更生させたいって」

 おずおずとそう訊かれたチャーリーは、喜色満面に首を縦に振った。「私の目標よ。ここでみんなを改心させて、天国に行けるようにするの」なまえはうつむく。チャーリーは不思議そうな顔をしてなまえのことを見つめた。

「どうしたの?」
「……とっても、すごいことを考えるなあって」
「ね、なまえも協力してくれない?」
「……」

 チャーリーが懇願すれば、なまえはなにかを思案していた。やや時間を置き、口を開く。

「で、でも、わたし、エクソシストのなかでも階級が低くて……みんなの力にはなれないと思うの」
「そんなことない! なまえにしかできないこと、たくさんあると思う」
「……そ、そうかなあ」

 なまえは視線を落とした。そして「この世に価値のないひとなんて存在しないもの」と言ったチャーリーを見て、羽が揺れる。「わ、わたし」なまえは震えた声で顔を上げると、口を開いた。

「みなさんのこと、勘違いしていました。……悪魔はみんな残酷で野蛮で、暴力的なひとしかいないって、……そう教えられてて」

 皆が、静かに話すなまえを見つめる。
 天使間では、悪魔は悪であると言い伝えられていた。対照的に、天使は善であると。エクスターミネーションが執行されるのがいい例だ。悪は淘汰する、そういう信念で執り行われているのだ。なまえはチャーリーたちを見て、己の先入観が改められたと言う。

「あー、いや、なまえ
「エンジェル。いいの」
「……」

 エンジェルダストがなにかを言おうとし、ヴァギーが遮った。
 なまえが言う悪魔は残酷で野蛮で暴力的であるというのは、あながち誤りではない。つまりはハズビンホテルにいる皆の方が物珍しいのである。
 だが、そもそも悪魔との交流が全くない───もっとも、それは当然であるのだが──なまえにとって、あまりにも人情に溢れるホテルの皆が、いわゆる平均であると勘違いしてしまった。

「悪魔もやさしいんですね」

 己の価値観が覆され、なまえは恥じるようにして笑んだ。なまえがホテルで生活するようになれば、嫌でも現実が目に入ることになるだろう。とりあえずは、時の流れに任せようということになった。ヴァギーとエンジェルダストは視線を交わらせ頷く。
 チャーリーが「それじゃあ、なまえの部屋を紹介するわね」と言ったところで、扉が開かれる音がした。皆の視線が玄関へと移動する。

「おや」

アラスターだ。ホテル内で一番厄介な、なにを思考しているのか汲み取れないラジオ・デーモン。チャーリーが彼のもとへと駆け寄る。

「ちょうどよかった! アラスター、新しい───」

 従業員よ、とは続かなかった。アラスターは一瞬のうちに間合いをつめ、なまえのそばに立っている。なまえはぶわりと冷や汗をかいた。ついぞ感じたことのない感覚。明確な恐怖だ。

「新しい従業員ですか。なるほど」

 まるでラジオの媒体を通しているかのような声だった。ひび割れたノイズは畏怖を誘起する。
 恐怖のあまり血の気を失いうつむくなまえの顔を、アラスターは感情の読めない面持ちで覗き込むようにして声をかけた。「しかし私には天使のように見受けられます」どくどくと、心臓が急速に脈打っている。
 アラスターにとって、下級のエクソシストは大して害のない存在であった。彼に関しては、常識が通じない。そんな掴みどころのない、同族の悪魔でさえも警戒する脅威。なまえはアラスターのことをそのように把握していた。
 チャーリーはことのあらましを説明する。その間も、アラスターは興味があるようなないような、判断のつかない様子で話に耳を傾けている。
 なまえはアラスターにちらりと視線を移すと、当たり前だが思い切り目が合い、慌てて逸らす。なにか新しい玩具でも見つけたかのように不気味なそれは、やはりなまえの恐怖を煽るのだ。

「アラスター。今日からなまえは仲間よ」

 チャーリーがおずおずとそう言うと、アラスターは頷く。

「そうですか。よろしくお願いいたします」

 不穏な空気になったかと思いきや、アラスターは素直に了承の意を示した。皆は緊張が解け、張りつめていた空気に安堵の声を洩らす。
 しかしながら「ですが」と、感情の読み取れない声音に再び空気が凍る。

「これがあると今後支障が出るかも知れませんねえ」

 アラスターはなまえの光輪を杖でコンコンと叩き、そのまま粉々に割ってみせた。ぱりん、と音が出て、その破片がぱらぱらとなまえの頭に落ちる。「!!」なまえはふにゃふにゃと力が抜け、椅子から落ちて地面に尻餅をついた。身体の一部であった光輪を失ったことは、なまえに多大な衝撃を与えた。もともと備わっていない能力をさらに搾取されたかのように。
 したがって、戦力が完璧に失われてしまったと言っても過言ではない。皆があんぐりと口を開け、その光景を見つめてからハッとする。「アラスター!」チャーリーが声を張り上げた。

「これじゃあなまえがいざとなったとき天国に帰れないじゃない!」

 こんなことをされたら、もし天国へ帰還できるときが訪れても、それが許可されるかどうかわからない! 天国には堅牢な門があるのだ。そして当然、入国するための監査も厳しい。
 アラスターは半ば叫ぶようにして悲嘆の声を上げたチャーリーに、不適な笑顔を作り返答した。

「帰る必要があるとでも?」

 誰も、なにも言えなかった。