宮田は苛立ったようにして身支度を整えていた。原因は村の外からの訪問者、なまえのことに関してである。先日、あれほど強く医院へ来るよう伝えたのに、よもやすっぽかされるとは! 怒りより先に憎悪すら抱き始める。
しかし宮田はひとつ、危惧していたことがあった───彼女は“来なかった”のではなく“来れなかった”のだとしたら? そう考え始めると気が狂いそうだった! ようやっと再会できたというのに! けれども本当に来ることができなかった場合、彼にできることは何もない。ギリ、と歯を食いしばる。こんなことになるのならば帰すべきではなかった! 燃え上がる激情はやり場がなく、物に当たることしかできない。そして荒々しく椅子から立ち上がり、机を思い切り蹴った。その弾みでペンが床に散らばる。
「……」
カシャン、と音が鳴る。空虚な音を聴いた途端、無性に頭が冴えてきた。そう、宮田が今できることは何もなかった。それでも。なまえが来れなかった際はどうしようもできないが、なぜかその可能性はないと、“あり得ない”という確信が湧いてきたのだ。根拠のない確信だったが、そう言い切れる自分がどこかにいた。
「逃しはしない」
そう、逃しはしない。元より逃がすつもりなど毛頭なかった。宮田は喉から手が出るほどなまえを欲していた。次に会ったときは、必ずや手中に収める手立てを講じてみせようではないか!
宮田は思い立ったように医院を出る。そしてなまえに会うまでにとある調べ物をしようと考えていた。それは日が暮れ薄暗い時間帯のことであった。
∞
翌日。村を訪れていたなまえは、前日と同じように石田と挨拶を交わす。「今日も遊びにきてくれたんだね」そう言われたなまえはもちろんと言わんばかりに頷いた。
「昨日は教会へ連れて行ってもらったんです。この村のことを少しでも知れたらなあって思って」
「教会かあ。確かに、独特の宗教だもんね」
「それに、教会は涼しいので」
「それは何よりだ」
「それじゃあ、石田さん、わたし、そろそろ行きますね!」
なまえは元気にそう言うと、ぺこりとお辞儀してから走り出した。「転ばないようにね~」その言葉に彼女は振り返り手を振る。
そしてなまえは初めて美耶子と会ったところへ向かった。背の高い草を掻き分けながら歩む。しかし、肝心の美耶子の姿は見当たらない。
「昨日教会で眠ってる間に帰っちゃってたもんなあ」
美耶子は教育に厳しい家で暮らしているとなまえは自分なりに解釈していた。もしかすると今日は外に出られなさそうな日なのか、それともどこか別のところに出かけていったのか。もし家から出ることができないのだったら、自分が連れ出してしまいたい。そう思うほど、なまえは美耶子のことが好きだった。彼女の家を知らなかったために実行はできなかったけれど。
とにかく、詳細は分からなかったが、なまえはとりあえず昨日訪ねた教会へ行ってみることにした。そこにいけば何か分かるかもしれないと思ったのだ。
昨日美耶子に案内してもらった道を歩き進む。今日は不穏な曇り空だった。日光が雲で遮られているのはありがたかったが、湿度が高いのか不快指数は高めである。「……雨、降らないといいけど」なまえは雨具を持って来ていなかった。そして少し不安げな顔をして教会へと向かったのである。
「こんにちはあ」
やがて辿り着いた教会の扉を押し開ける。相変わらずひんやりとした空気に、自然と汗が引いていく。
中には八尾がおり、ぼんやりと何かを読んでいるようだった。どうやらなまえに気がついていないらしい。
「あ、あの、こんにちは」
側に寄り声をかけて初めて、八尾はなまえの存在に気がついたようだ。弾かれたように顔を上げられ、驚いた顔をされる。その眼は、どこか虚ろで、なにかやましいことがあるような、そんな薄気味の悪いものだった。けれどもそんなことは言えるはずがなく、なまえは弁明を試みる。
「ごめんなさい。気がつかなくって!」
「い、いえ! こっちこそ驚かせてしまってすみません!」
申し訳なさそうな面持ちになる八尾に、なまえは慌てて謝罪を口にする。
すると、彼女は八尾の手にしているノートのようなものに興味を惹かれた。それはぼろぼろで変色した紙が目につくノートだった。ずうっと昔から丁重に扱われてきた、そんなことを考えさせられるものだった。
「なにを読んでたんですか?」
「あ、ああ、これ……信者帳なのだけれど」
「……上からなにか……記号? みたいなのが書かれてますね」
「そうなの。……これを見ていると、何かを思い出しそうな気がするのよ」
「なにか忘れてしまっているのですか?」
「……恐らくは」
気難しい顔をしている八尾を見て、なまえはとても重要なことを忘れているのではなかろうか、と思う。しかし、なまえにとって八尾の欠け落ちた記憶は皆目見当もつかないものであるがために、それ以上会話が続くわけもなかった。
ところで、どうやら教会にも美耶子はいないらしい。「あの、美耶子ちゃん知りませんか?」そう八尾に訊ねると、彼女は首を横に振った。それになまえは肩を落とす。頼りになるのは教会くらいだったので、あてがなくなってしまったからだ。
「美耶子様は虚弱体質だから、もしかしたら体調を崩しているのかも」
「そうだったんですか!? わ、わたし、無理して付き合わせちゃってたのかな」
「そんなことはないと思うわ。……昨日、私たちが教会へ戻ってきたら出て行ってしまったのだけれど、その時の美耶子様の表情は今まで見たことないくらい穏やかだったから」
「きっと、なまえちゃんのことが大好きなのね」出会って間もない仲ではあったが、八尾にそう言ってもらえた#name1#なまえは気分が高揚する。ふたりの様子は誰が見ても“仲睦まじい”ものだった。切っても切れないような絆があるような、そんな関係性のように窺えた。
そしてそういえば、と。前日美耶子が言っていた、興味深い話を思い出したなまえが口を開く。
「美耶子ちゃんが、求導師さまと求導女さまが自分のことを生贄にしようとしてる、って言っていたんですけど、それってどういうことなんですか?」
そう問えば、場の空気が一変した。それを察知したなまえはぎくりと身体を硬直させる。
「……この村に代々伝わっている儀式があるのよ」
八尾は重たい口を開くように言った。あまり訊かれたくないことなのか、口調もどこか緊張を纏っている。なまえは触れてはいけない話題のような気がして、それ以上深入りしないよう「……そ、そういえば、求導師さまもいないんですね」と無理やり話題を変えた。すると八尾も素直にそちらの話題へ乗ってきたものだから、やはり触れてはいけない話題だったのかと理解する。
「もうそろそろ帰ってくるはずだけれど」
「……あ。本当だ。噂をすれば、ですね」
そう話をしている合間に教会の扉が開き、牧野が中へ入ってくる。「あ、なまえちゃんも来てたんだね」にこりと優しげな微笑を浮かべる牧野は、黒い服を身につけているとは思えないほど爽やかだった。汗の玉ひとつ見当たらない牧野をなまえは不思議そうに見つめる。そして手に持っている荷物に視線を移した。
「ああ、蝋燭を買って来たんだよ」
ちょうど切らしてたからね。しかし、どうやら柔らかな声は眠気を誘発するらしい。前日に引き続き、なまえはまたひどい眠気に襲われた。「……なまえちゃん? 眠いの?」そう訊ねる牧野の声すらもう遠く聞こえる。そして半ば強制的になまえの意識はシャットアウトされた。