彼岸の果てに触れる


 なまえは冷や汗が止まらなかった。沈みかける太陽を背に、両足は地面に縫い付けられているかのように動かない。ごくりと唾を飲み込む。そんなことはあるはずがなかった。ありえない! しかしこうなってしまっている以上、それは疑いようのないほどの事実だった。どくどく、心臓が暴れ出す。どうする? どうすればいい? 頭をフル回転させて考える。混乱する頭では正常な思考が蝕まれてしまっていた。そこで、たっぷりの時間をかけたところで、ようやく駐在所を訪ねるのがいいのかもしれないと思いついた。
 変な話だが、なまえは帰路がわからなかったのだ。

「い、石田さん。いらっしゃいますか?」
「ん? ああ、なまえちゃん。どうしたの?」

 駐在所の中に向かって声をかければ、返事が返ってきた。石田は外へ出てきてにこにこと人の好い笑顔を浮かべている。
 普段通りの石田の様相に、どこかほっとするなまえがいた。常ののんびりとした彼の姿を見て、若干の正気を取り戻す。激しく波打つ鼓動は少しずつ落ち着いてきた。

「あ、あの」
「うん?」
「……わ、わたしの帰り道、って、わかりますか?」

───沈黙。なまえは再度嫌な汗をかいた。奇妙な質問だとは自分でも思うのだ。そしてそれは他人にとっても意味不明な質問であることは重々承知だった。「帰り道?」ぽつり、石田が呟く。なまえはぎゅっと手を握りしめて、彼のことを見つめた。
 すると石田は一瞬、ほんの一瞬だが、表情をなくしたような気がした。それにどくんと心臓が跳ねる。
 数秒、数分、或いは数十分。まるでそれくらい長い時間の静寂のようだった。
 やがて石田はパッと表情を変え、先ほどまでの様相とは一変して快活に口を開いた。

「はは、何を言ってるの? なまえちゃんは森の方から来てるじゃないか。ほら、そっちだよ」

 指を差された方向を見る。その先には獣道ではあるが、なんとか人が通れそうな道があった。それを目にしたなまえは安堵し顔を綻ばせる。

「あ、ありがとうございます……!」
「いえいえ」

 帰り道を教えてもらえれば、なまえはそうだった、なぜ忘れていたのだろう、と思った。指示されれば途端に思い出したのだ。もしかしたらなにかの勘違いなのかもしれない。
 背中に声がかけられる。「暗いから気をつけて帰るんだよ」それになまえは振り返り頷くと、かろうじて日光が届く森の中を通り、家路に着いたのだった。

なまえ。……なまえ!」

 びくり。なまえは大きな声に肩が跳ねさせた。

「おい。なまえ? どうしたんだ?」
なまえちゃん? 大丈夫?」

 心配そうに顔を覗き込んできたのは美耶子と春海だ。楽しく話していたと思いきや、突然黙りこくったなまえに疑問を抱いたらしい。なまえなまえで、なぜ自分が物思いにふけっているのか、いつから考え込んでいたのか、分からずじまいで不思議そうな面持ちになる。

「大丈夫?」
「うん。なんだったんだろう」
「なんだ、変なことを言うな」

───自分のことなのに。そう続けられ、なまえは首を傾げる。確かに、自分のことなのに分からないとはどういうことなのだろうか、と。「まあ、でも大丈夫ならよかった」美耶子は言う。それに春海となまえは頷くと、中途半端なところで終わっていた会話を再開させる。

「春海からもらった人形は持ち歩いてるんだ」
「そうなの? 嬉しいなあ」
「ただ、なまえからもらった花はいつか枯れてしまうんだよな。それが悲しい」
「それくらいいつでも作れるよ! 季節のお花で作るのって楽しそうだよね」
「確かに」
「私もそれがいいと思う!」

 まさに会話に花が咲いている時間であった。楽しそうに話し込む三人は、まるで幾年も前に仲良くなったかのような間柄のように窺える。ここ数日で構築された友情のようには到底見えなかった。
───しかし、或る問題が発生した。各々が帰路に着くとき、なまえを襲った“帰り道がわからない”という問題だ。

「あれ?……??」
「どうした? なまえ
「大丈夫?」
「ん……ううん、あまり大丈夫じゃない、かも」
「どうしたの?」
「……」

 帰り道が分からないなど、なんて馬鹿げた質問だろう。しかしながら事実そのような問題に陥ってしまっている以上、どうにかするしかない。なまえは口を開いた。

「わ、わたしの家ってどこにあると思う?」

あはは、と冗談交じりにそう口にしたなまえを見たふたりは、笑い声をあげる。

なまえちゃん、何言ってるの?」
「今日のなまえは変だな」

愉しそうにけたけたと笑われてなまえはゾッと鳥肌がたった。なぜかはわからないけれど、取り巻く空気が肌を粟立たせた。
 くすくす笑われている様相は普段なら微笑ましいと形容するに値するはずの行動だったが、今の笑い声はどこか普通ではない。喜悦に塗りたくられた声音の裏側に、果てしのない悪意が影を潜めているような、そう思わずにはいられない。そんなことはあり得ないのに。

「う、ん。そう、だよね。……」

 力なく返事をするが、ふたりはそれぞれ家路に着き、この場から去ってしまった。なまえは彼女たちの小さくなっていく後ろ姿を眺める。置いてけぼりのこの状況に、心がざわめき立つ。
 なまえは冷や汗が止まらなかった。沈みかける太陽を背に、両足は地面に縫い付けられているかのように動かない。ごくりと唾を飲み込む。そんなことはあるはずがなかった。ありえない! しかしこうなってしまっている以上、それは疑いようのないほどの事実だった。どくどく、心臓が暴れ出す。どうする? どうすればいい? 頭をフル回転させて考える。混乱する頭では正常な思考が蝕まれてしまっていた。そこで、たっぷりの時間をかけたところで、ようやく駐在所を訪ねるのがいいのかもしれないと思いついた。

「い、石田さん。いらっしゃいますか?」
「ん? ああ、なまえちゃん。どうしたの?」

 駐在所の中に向かって声をかければ、返事が返ってきた。石田は外へ出てきてにこにこと人の好い笑顔を浮かべている。
 普段通りの石田の様相に、どこかほっとするなまえがいた。常ののんびりとした彼の姿を見て、若干の正気を取り戻す。激しく波打つ鼓動は少しずつ落ち着いてきた。

「あ、あの」
「うん?」
「……わ、わたしの帰り道、って、わかりますか?」

───沈黙。なまえは再度嫌な汗をかいた。奇妙な質問だとは自分でも思うのだ。そしてそれは、他人にとっても“意味不明”な質問であることは重々承知だった。「帰り道?」ぽつり、石田が呟く。なまえはぎゅっと手を握りしめて、彼のことを見つめた。すると石田は一瞬、ほんの一瞬だが、表情をなくしたような気がした。それにどくんと心臓が跳ねる。
 数秒、数分、或いは数十分。まるでそれくらい長い時間の静寂のようだった。
 やがて石田はパッと表情を変え、先ほどまでの様相とは一変して快活に口を開いた。

「はは、何を言ってるの? なまえちゃんは森の方から来てるじゃないか。ほら、そっちだよ」

 指を差された方向を見る。その先には獣道ではあるが、なんとか人が通れそうな道があった。それを目にしたなまえは安堵し顔を綻ばせる。

「あ、ありがとうございます……!」
「いえいえ」

 帰り道を教えてもらえれば、なまえはそうだった、なぜ忘れていたのだろう、と思った。指示されれば途端に思い出したのだ。もしかしたら何かの勘違いなのかもしれない。
 背中に声がかけられる。「また明日ね」それになまえは振り返り頷くと、かろうじて日光が届く森の中を通り、家路に着いたのだった。