クロユリの讃歌


 いらっしゃいませー!
 店内へ足を踏み入れれば、店員がそう声をかけてくる。お昼時、店はなかなか繁盛していた。なまえと宮田は空いていた席に腰かけた。がやがやとした空気に、なまえはどこか懐かしさを覚える。今となっては慣れた既視感だった。

「羽生蛇蕎麦をひとつ」

 宮田が注文を聞きに近づいてきた店員にそう言う。それを見たなまえは首を傾げた。

「宮田先生は食べないんですか?」

 きょとんと目を丸くしているなまえを見つめ、宮田は呟く。「俺はいいです。それより貴女に聞いてもらいたいことがありますから」彼女はその言葉に、まばたきをひとつ、そしてふたつした。
 羽生蛇蕎麦が出てくるまで、そう時間はかからなかった。なまえはわくわくした様相で蕎麦を覗き込む。すると、そこには麺とトッピングされた野菜、そして赤い何かが乗っていた。「この赤いの、なんですか?」なまえが不思議そうに宮田にそう問えば、彼は「苺ジャムです」と返事をする。その言葉を聞いた彼女は、聞き間違いかと思い瞠目した。

「えっ?」
「苺ジャムです」

 苺ジャム。それは幾度問うても苺ジャムだった。
 ごくり、なまえは唾を飲み込む。当たり前だが蕎麦の上に苺ジャムが乗っているのを見たのは初めてだったし、さらにはそれを食すなど言語道断だったからだ。
 恐る恐る、箸で麺を持ち上げ食べてみる。それはどうしようもなく名状しがたい味をしていた。
 まずいわけではない。けれどもまるでゴムのような弾力をした麺に、甘さを感じるスープ、苺ジャムの味。なまえは喉の奥で唸った。郷土料理と謳うにはなかなかパンチの効いた食べ物だと思ったのだ。
 なまえが蕎麦を食べるのを、なぜか宮田は穴が空くほど凝視していた。まるで監視するかのように。なまえは突き刺さるような視線に首を傾げざるを得ない。「宮田先生? どうかしましたか?」訊ねると、彼は静かに首を左右に振った。

「……昨日の話の続きですが」

 おもむろに、宮田が口を開く。なまえは蕎麦を数本ずつ食べながら、彼のことを見つめた。なまえも宮田に問いたいことがあったのだ。

「神に贖罪を捧げる儀式があることは伝えましたね」
「は、はい」
「そして、その神を食した人物がいると」
「そう、言ってましたね」

「……それで異界化とか、存在を危うくしたとか、わたし、気になるところがちょっとあって」宮田はうんうんと頭を悩ませるなまえを一瞥し、静かに口を開く。

「村の一部が異界化した、というのは、村の一部が現世うつしよとの繋がりを希薄化されたということです」
「……んん、というと……?」
「現世と常世とこよの境目が曖昧になったと言った方が分かり易いでしょうか」

「だから存在を危うくしたんですよ」そう言った宮田だが、なまえはいまいちピンとこず、頭の上に疑問符を浮かべる。
 宮田はそんななまえを横目に続ける。

「神を食した人間は永遠の呪いをかけられ、そしてその呪いを解くために儀式を施行しなくてはなりませんでした」

 儀式。その触媒とされるのが美耶子であるとなまえは認識していた。そしてその認識は正しいものであり、宮田は頷く。「……ですが、と或ることを拍子に、その儀式を施行する必要がなくなったんですよ」その言葉に、なまえは心底喜んだ。ということはつまり、美耶子は生贄とならずに済む、ということなのだから。

「じゃあ、美耶子ちゃんは」
「これからも生き続けます」
「……よかったあ」

 ほっと安堵しているなまえを見て、宮田はひっそり、にたりと口許を歪曲させる。美耶子が無事でいられるということは、つまるところそれと同等の代償があるということを彼女は理解していなかったからだ。なまえはことの重大さに気がついていない。

「では、なぜ儀式を施行しなくて済むのか、ということですが」

 一度は姿を消したが出現したからです。宮田曰く、ある人間に食された神とは異なる神がいるのだと。彼はそう言った。

「俺としては、神だなんて大それた言葉ではなく、ひとりの女性として見ていますが」
「えっ、その神さまって人間なんですか!?」
「俺はそう思っています。寧ろ彼女のことを“神”と形容するのはあの女くらいだ」
「……あの女?」

 宮田は人差し指でこつこつとテーブルを打ちながら言う。「……俺は、正直、もう二度と会えないと思ってた」目を伏せながらそう言う宮田になまえの視線は釘付けになった。

「二十年です。……長かった。気が狂うかと思った。本来は会えるはずがなかったから、余計に」
「……その、神って呼ばれている女のひとのこと、大切に思ってるんですね」
「当たり前です。愛していますから」

 どういうわけか、吊り上げられた口角がなまえをゾッとさせた。彼女は真っ直ぐに見つめてくる濡羽色の瞳から逃げるように、蕎麦へと視線を落とす。「それでも、この村が呪われた村だということに変わりはないですが」淡々と形作られる言の葉は、なまえをどこか焦らせるものがある。

「たとえ化け物が徘徊しなくても、この村は普通じゃない。殆ど常世であると言っても過言ではないんです。外界からの立ち入りが難しいからな。そして、当然出て行くことも難しい。……分かりますか、地図に載っていないんですよ」

 宮田は、羽生蛇村へ訪れるには、点と点が繋がるのと同様に、或る“条件”が必要なのだと言う。その条件とは元来の羽生蛇村と関係、、がある者、呪いに引かれ得る力、、、、、、、、を持つ者、本来は羽生蛇村に居るべき、、、、者。ぽつぽつと列挙されるのを、なまえは心ここに在らずという様子で耳を傾けていた。「地図に載っていないって、どういうことですか? それに、ばけものって、……」追いつめられたような声音で宮田に訊ねる。すると彼は「言葉のままです」と返答した。

「この村は常世であると表現するのも強ち間違いではないと言ったでしょう。つまりそういうことですよ」

「化け物は、いわゆる屍人です。肉体的にも精神的にも人ならざる者のことです」なんてことない表情で話してはいるものの、なまえは今、自分が話されている内容が、突拍子もないことのように思えてきた。

「今回は、うまく点と点が結ばれたと。そういうことです」
「……点と点が結ばれたから、その神の女のひとは羽生蛇村を訪れることができた、ということですか?」
「はい」
「……でも、それなら、その女のひとはこれからどうなるんですか……?」

 顔を上げて問えば、沈黙。宮田は無表情になまえのことを見つめる。なまえは絡んだ視線を逸らせなかった。ただ、静かなその瞳の奥に、燃え上がる欲望がちらついているのを感じ取り、肌が粟立つ。

「神隠し。聞いたことくらいはありますよね」
「……は、はい」
「マニアの間では、そう言われることになるでしょうね」

「味気なく言えば行方不明ですが」しれっと深刻なことを口にする宮田を、なまえは不安そうな面持ちで見つめる。それを見つめ返す宮田の双眸は、計り知れぬ濡羽色をしていた。感情の読めぬそれになまえは静かに、しかし確かにどくどくと鼓動が速まるのを感じ取る。

黄泉竈食ひよもつへぐい。この言葉には聞き覚えはありますか」

 ふと、そう訊ねられる。なまえは聞き覚えのない単語に、麺を咀嚼しながら小首を傾げた。
 ごくり。幾度も噛み潰し、どろどろした液体になった蕎麦だったものを飲み込む。最後の一口だった。箸を置き、ご馳走さまと両手を合わせる。その様子を見た宮田は席を立ち、そして「さあ、食べたのなら帰りましょう」と言った。

「……帰るって、どこにですか?」

───静寂。宮田は立ち上がったまま、なまえのことを見下ろす。わずかに吊り上げられた口角、感情の読めぬ眼。なまえはそれらを目にして身の毛のよだつ思いに支配された。彼のその視線が、背後にちらつく雰囲気が、大層気味の悪いものに思えて仕方がなかった。単なる別れの言葉とは思えぬ、それ以上の何かが、その瞳の奥底に息を潜めているような気がしてならなかった。
 帰るとは、なまえ自身の家に決まっているというのに、自分の家はどこにあるのか? 家族の顔は? そもそも自分とは何者なのか? 砂嵐に巻き込まれる記憶。宮田の顔がモザイクに呑まれる。見覚えのあるはずの顔。それは夢で見ていたはずの男の子の顔。「司郎くん」彼の名を呼ぶ己。目の前の男が、“宮田司郎”が微笑む。

「大丈夫です。何かあったら匿うと言ったでしょう」

 途端に、周囲の音の一切が断絶されたかのように感覚に襲われた。ひとり切り取られた空間にいるのではないかと錯覚するほど、なまえは自分の存在が周りとは異なるモノであるかのように感ぜられる。まるで壁を一枚、あるいは二枚隔てているかのような世界。けれども、けたけた、がやがやと、周囲の人間は確かに腹を抱えて笑っていた。四方八方からの視線が突き刺さる! さらには指を差されているではないか! 多方面から浴びせかけられるのは紛うことなき笑い声。その声音は戦慄する音だ。例えるならば、漆黒のなかの白。光のなかの闇。それが今の己の立場に違いなかった。対照的なそれらになまえは嫌な汗が噴き出す。
 今、自分は、どこに立っている?

「常世の食べ物を口にしたら帰れない、なんて有名な話じゃないですか」

 この男は、何を、言っているのだ?