はてさてと

 牧野慶が震えを帯びたか細い声で求導女の名を呼ぶのも、柔和な雰囲気を纏い羽生蛇村の人々に挨拶をするのも、常に自信なさげに眉が八の字になっているのも、見慣れた光景であった。皆が皆口を揃えて言うのである。彼をヘタレと言わず誰をヘタレと言うのだ、と。それは規模の小さな村では当然周知のことであり、なまえも例外ではない。この羽生蛇村で信仰されている神に祈りを捧げることが習慣となっていた彼女は、求導師の働くさまをしばしば目にしており、それが否定しようのない真実であることを把握していた。
皆が口々に語る言葉を牧野は少なからず気にしている。教会の中でメソメソとしょげ、センチメンタルに染まった背を見れば一目瞭然だった。ヘタレといえば聞こえこそ悪いものの、逆手を取れば心優しい証拠であると、なまえがそう慰めれば彼はぐすぐすと鼻を鳴らしながらパッと顔を上げ、ありがとう、ありがとう、と感謝を述べながら彼女の手をぎゅうと握りしめる。あの求導師がこんな大胆な、とそこでなまえの心がわだかまるが、目の前で涙目になりながら微笑む求導師を見れば、疑問の言葉など溢せるわけがなかった。

「ふふっ……ねえ、なまえさん? 私、貴女のお陰で自信を持つことができたんですよ? 本当に感謝しているんです。ねえ。ありがとうございます。こんな優しいお言葉をかけて下さったのはなまえさん以外にいなかったものですから、私本当に嬉しくて……」

この男は一体誰だと、なまえは独り心の内でごつ。後ろから抱きつき首筋に顔を埋め、口を動かすのを止めない牧野を視線だけを移動して一瞥し、彼は誰だと再度己に問いかけた。しかし何度と問いただしても、それは牧野慶、あのヘタレの求導師に違いはないのだ。
なまえは両腕の上から抱きすくめられているせいで、暴れることも自身より太い腕から逃れることもできない。ぽそぽそと独り言を言うように話す牧野の吐息が首筋を撫でるものだから徐々に肌は粟立ち、やがてはくすぐったさを回避するために身体を捻じるが、それを許さないと言わんばかりによりきつく抱きつかれ骨が軋んだ。思わず、ウ、と苦しげな声がなまえの口から洩れる。牧野の口元がにんまりと薄い三日月を描いたのは、不幸なことに彼女の位置からでは窺うことが不可能である。

なまえさん、なまえさ、ぁん」

甘ったるい声に反し、ギチ、ギチ、となまえの身体を締めつける腕の力は容赦がない。狂気すら感じるそれにとうとう叫んで求導女に助けを請おうと口を開けば、横から伸びてきた指が口内に突っ込まれた。ぐちゃぐちゃと無遠慮に這いずり回り口内を荒らす指に、なまえは状況を飲み込めず目を白黒させる。息を荒げている牧野を、己のよく知る牧野であると信じることができなかった。「なまえさん、」かさついた唇が彼女の首筋にぴとりと触れ、その間から現れた湿った舌が皮膚をなぞった。大袈裟なまでに身体を硬直させたなまえを牧野は至極楽しそうに横目で確認する。
あれ、あれ、どうしてこんなことに? なまえの頭にはそればかりがぐるぐる反芻されていた。
己の身に何が起こっているのか、あの求導師になにをされているのか。状況を上手く飲み込めずにされるがままになっていると、それは突然終わりを告げた。牧野がパッとなまえを解放し、求導服を整え、何事もなかったかのように彼女にいつも通りの微笑みを向けたのだ。次いで古びた扉が押し開かれる音がして、なまえが救いを求めようとしていた求導女が教会へ入って来た。「あら、なまえちゃん。今日もお祈りに来てくれたのね。いつもありがとう」穏やかな微笑を浮かべながら見つめてくる八尾は、この神聖な場で今までどんなことが起こっていたのか知るよしもない。
なまえは愕然とした。牧野は全て計算をしていたのだ。しかし彼の鮮やかな態度の変化を目の当たりにすると、もしかして先ほどのは夢だったのではないかと、そんな淡い考えも脳裏を過ぎる。困惑した瞳で牧野を見つめれば、彼はやはり常時の頼りなさげな表情で控えめに微笑むだけで、それがさらになまえを混乱させたのである。