それとやれ

 なまえが牧野を避けるようになり、数日が経った。それは教会へ行くなという警告を守るために考えた最善の策。牧野と顔を合わせ一言でも会話をすれば、あれよあれよという間に教会に顔を出してしまいそうだったからである。
 通勤や帰宅の道中に視界に黒色がちらつくことがあれば、気が付いていないフリをして足早にその場を立ち去る。求導女の口から牧野の名が紡がれそうになったときはぎこちないながらも話題を逸らし、極力牧野に関する話をしないよう努めてきた。
 いつまでこんな生活を続ければいいのだろうと、ふと考えた休日。小さな羽生蛇村では、外出したら知り合いに遭遇する割合がそれなりに高い。買い物は仕事帰りにすることで外に出ている時間を減らしているが、さすがにずっと、という訳にもいかない。
 もう一度宮田に相談しに行こうか、と考えてみるも、残念ながら彼は職業柄そこまでなまえのために時間を割くのは難しい。
 それにここ数日、なまえの不眠は改善の兆しを見せていた。牧野と距離を置いてからということに苦笑を隠せないが、体調が回復しているのもまた事実。心の隅っこで失礼なことをしていると感じつつ、やはり原因は牧野にあったのだということを突きつけられた。
 しかしどこか寂しさを覚えるところもある。というのも、なまえが惜しげもなく教会に通っていたのは、それなりの理由があったからである。それが自身の首を絞めているという矛盾が、最近の彼女の頭を悩ませることでもあった。

「……何か飲もうかな」

 なまえはうんうんと巡らせていた思考を一時中断し、台所へと向かって冷蔵庫を開けた。中から冷えた麦茶を取り出し、食器棚からお気に入りのコップをひとつ、準備する。中に麦茶を入れたらペットボトルをしまい、コップを持って再び部屋に戻ろうとしたら玄関のベルが鳴った。台所にコップを置いたままそちらへと向かう。
 カラカラと扉をスライドさせて開くと、その先には八尾が立っていた。なまえと八尾は仲が良かったが、家に訪問してくるのは初めてのことである。ぱちくり、目を真ん丸にしたなまえを見て八尾が控えめに笑う。

「八尾さん?」
「いきなり訪ねてしまってごめんね。今、忙しかった?」
「いえ、大丈夫です……あの、どうしたんですか? えっと……そうだ、まず中に」
「ううん、大丈夫。ちょっとお話したいことがあって」
「……お話したいこと、ですか?」

 家に訪ねてくるだなんて、とっても大切なことに違いないとなまえは思った。気を引き締めて求導女の話に耳を傾ける。「求導師様のことなんだけど」だがその言葉にドキリと心臓が跳ねた。

「ま、牧野さんが、どうかしたんですか……?」
「それが、最近元気がなくて困ってるの」
「……」
「あまりこの状態が続くと、お仕事の方にも影響が出ちゃうと思うし」
「え……」
「原因は分かってるんだけどね。……なまえちゃんが教会に来てくれなくなって、求導師様も心配なさっているわ」
「そ、それは、その……」
「何かあったの?」

 そう尋ねてきた求導女に、なまえがぐっと息をのむ。
 真実を伝えるべきか否か。迷っていると八尾と目があった。心配そうな双眸に見つめられ、気が付いたら口を開いていた。「じ、実は、……牧野さんと、ちょっと」ああ言ってしまった。でも彼女なら信頼できるし、きっと大丈夫だろう。そう思ってなまえが脱力すると、求導女は綺麗に微笑んで誰かを手招きをする。

「だ、そうですよ? 求導師様」

 求導師。その単語を聞いた刹那、なまえの目の前が真っ白になった。まさか本人がいたとは。顔色が青ざめる。
 目の前が真っ白になったところで、ひょこりと扉の横から現れた牧野の顔は情けないものであった。そんな顔をするべきは、本来はなまえであるというのに。

「ほら、求導師様。この機会になまえちゃんとお話をして、仲直りなさって下さい」
「はい…」

 しかし教会に勤めている二人が家を訪問してくるなど目立つこと極まりない。道行く人々がチラチラとなまえに視線をよこす。その状況下で堂々としていられるはずもないなまえは、家に逃げることを強いられてしまう。

「あの、とりあえず……人目が気になりますから、中に入りませんか?」
「それじゃあ、二人でゆっくり話し合ってね」
「えっ」
「おじゃまします……」

 てっきり八尾を介して三人で話をするものだと思い込んでいたなまえは、彼女の立ち去る後姿を見て驚きの声を溢す。そんななまえを後目に、牧野は平坦な口調で「どうかなさいましたか」と言うのみで、さっさと家の中に上がった。八尾は振り返ることもなく真っ直ぐに歩み、それが余計になまえに引き止めさせることを躊躇させる。そうして何の手も打てないまま、結局なまえは牧野と一対一の環境に放り込まれてしまったのだ。
 こうなったらどうしようもない。なまえは己を奮い立たせると先に部屋に入っていた牧野に座ってもらい、自身は台所へと向かう。来客用のコップを取り出して冷蔵庫に入っていた麦茶を注いだ。先程自分に入れたコップの周りには結露ができている。それをタオルで軽く拭うと、盆の上にコースターと二人分のコップを置き、牧野の待つ元へと運ぶ。

「……あの、お茶持ってきました」

 麦茶をテーブルの上に置き、恐る恐るといった具合になまえが牧野と向かい合うように座る。しゃんとした姿勢で正座をしている牧野は、求導師ということもあってか随分と様になっていた。───今日は、大丈夫なのだろうか。伏し目の牧野を見て、ぼんやりとそんなことを考えた。

「っなまえさん、」
「!?」
「すみませんでした。私が、何かしてしまったようで」

 しかし突如謝罪を口にした牧野に、なまえは瞠目する。次に何を言われるのかと、怯えに表情を硬くしていると彼は真っ先に謝罪を述べた。それに目を真ん丸に見開き、そして首を傾げる。この男は、自分が何故避けられているのか、その原因に本当に気がついていないのか、と。
 正直な話、牧野がその原因を承知していないのは有り得ないと思った。なぜなら彼が、なまえと八尾を前にした時の態度を使い分けているように感じさせる節が所々に見られたからである。
 例えば先程のこと。求導女が隣に佇んでいた際はしょんぼりと肩を落としてみせた。だがその直後。八尾がここから去ったときの、一瞬見せた冷たい顔、そして声。それらがあの求導師の振る舞いとは、まるで一致しない。

「また教会に来てほしいんです。私、つらいんです……なまえさんと会えないと。最近は避けられてもいますし、その……」
「……」
「あの、……私はなまえさんに一体どんな酷いこと……」
「……ほ、本当は、分かってるんじゃないですか?……なあんて」

 鎌をかけようと、勇気を振り絞ってなまえが訊ねる。すると牧野はぴくりと反応を示し、下げていた視線をじわじわと目の前の女へ合わせた。鋭い双眸が細められる。その様子になまえはどきりと鼓動が速くなる。と同時に嫌な予感が胸中に騒めいた。

「……あ、うぅ、ごめんなさい。知った風な、くち」

 口を閉じた牧野を前にいたたまれなさを感じたなまえは、俯きながら小さく謝った。膝の上に置いていた手は忙しなく閉じたり開かれたり、指を弄り合ったりと、余裕は伺えない。「……そう思いますか、やはり」今の、言葉。まるで。

なまえさんのおっしゃる通りです。ですから、顔を上げて下さい。ね?」

 優しい求導師の声がなまえの顔を上に向かせる。先程見せた表情と打って変わり、穏やかな微笑を浮かべているものだから、余計に彼女は混乱する。
 しかし、牧野は認めた。それは覆しようのないことだった。それに覚悟はしていたもののやはりショックは受ける。なまえは自分が好いた求導師は元来のものではなかったと、享受しなければならない。

「本当は、なまえさんが私に怯えていることを知っていました。それを承知した上で、私は貴女との接触を試みていたんです。……それに、私はなまえさんが教会に来なくなってしまったのは、仕方のないことだとも思っていました。私自身、いきなり強姦まがいなことをしてしまったと反省はしていましたからね。……それから、後悔も、少しだけ」

 淡々と言葉を続ける牧野は大人しい。それなのになまえの心が落ち着くことはなく、緊張した面持ちで静かに話に耳を傾ける。

「……でも、なまえさんが教会に来て下さらなくなったのは、貴女の独断ではないでしょう? それは正直、面白くないです」
「!」

 牧野は知っていた。避けられるようになってしまったのは、なまえが一人で決定し実行した訳ではないことを。それも当然なまえの性格ではそんなことが出来るはずがなかったからだ。それを牧野はなまえのことを人一倍理解していた。
 となると、何故なまえが自身を避けるのか。この問題に介入できる人間といえば、牧野の性格の根底を心得る人物───宮田しかいない。血の繋がった片割れが、差し金をしたのだ。そう結論に至る。

「……いえ、その話は後ほど。今はこうして、久し振りに顔を合わせてお話することができて、それだけで私は幸せです」

 受け入れてくれてよかった、そう言って破顔する牧野に嘘偽りは見えない。そうして彼の言葉に覚えたはずの引っ掛かりは、その笑顔で全て払拭される。
 なまえの好いた求導師の笑顔が、まさにそれだったのだ。長らく見えていなかった、なまえの慕う求導師の顔。今までの事象から、たったそれだけの事柄にさえ過剰な感激に満ちる。結果、ピンと張りつめていた糸が、弛緩した。

「……牧野さん。あの、わたしも……避けてしまって、すみませんでした」
「!」
「やっぱり、牧野さんは───」

 喜ばしさもあいまり、緩んだ頬には桃色がさす。擽ったそうに微笑むなまえの顔を、牧野は凝視した。その表情は、一瞬鳩が豆鉄砲を食ったようなものを見せたものの、しかしみるみるうちに目がギラギラと不穏な光を見せる。その差異になまえは言葉を最後まで紡ぐことが出来ないまま、ピシリと硬直した。

なまえさん。貴女はどこまでも、……。そうですね。現にあんな酷い真似をした私を突き返すこともせず、挙句お茶まで出して歓迎してくれて。本当、人が好すぎのようにも感じます……が、今この状況ではそれ以上に、嬉しく思います」
「?……あ、ありが」
「でも。私以外の人間にも、そうなんでしょう? 貴女はそういう方ですものね。その優しさが、嬉しい反面悲しくもあるんです。……私は、なまえさんの好意を、独り占めしたいんですよ。汚い独占欲が渦巻いて、我慢し切れなくなって、それで」
「え、あ」

 顔を歪めて拳を握りしめる牧野は、なまえの返答を待つ気など更々無いらしい。なまえの言葉を遮り、ただひたすらに吐露を続けるその様子は、切羽詰まったような、焦燥に駆られているような。
 ちょっと前までは落ち着いていて、静かだったのに、となまえがオロオロしていると、牧野はカッと両目を見開いた。それにますますなまえが涙ぐむ。

「……なまえさん。私は、貴女と仲直りをしたい一心でこちらに伺っているので…あまり煽るような表情はしないで頂けますか。あの時もそうでしたよね。だから私は」
「な、なんのことですか?」
「……」
「……」

 突然無言になった牧野に、穴が空く程見つめられる。その視線から逃げるように、なまえはコースターの上に置かれたコップを持った。一瞬安堵した心は、また逆戻り。恐ろしい、その感情がなまえの胸を占めていた。乾いた唇を縁につけ、コクリと一口のお茶を喉に流し込む。「なまえさん」どこかぎこちない動作の彼女を牧野は視線で追い、口を開く。

「私だけのものになってくださいよ」

 ねえ、いいでしょう? 柔らかく、しかし隠しきれていない欲が滲み出るその言葉に、なまえの手からコップが滑り落ちた。