ぐるりやぱらいぞうにまうづ

 七月某日、不慮の事故に巻き込まれ死亡。遺体は全身の損傷が酷く原型を留めていない。葬儀は近日中に行われる予定である。

「儀式の御成功をお祈り申し上げると共に、お悔やみ申し上げます。……では」

 その通告は、二十七年振りの儀式を間近に控えている牧野に更なる追い打ちをかけた。

「宮田先生、今日もお疲れ様でした」

 支度を整えていた宮田は、その声にピタリと静止する。
 恩田美奈。宮田の恋人である。同じ病院に勤め長らく時間を共有している内に親密な関係となった。職業柄仕事に拘束されることが多い二人は、それでも勤務を終えたあとや多忙の合間を縫っては親交を深めていった。「この後お時間ありますか?」ただ、誘いの声をかけるのは大抵恩田からだ。宮田はそういうことに対しては極端に欲がない。それは対象の相違によるものであるのかもしれないが、とかく彼が能動的になることは希少な事象であり、仮にそのような展開になった日には決まって恩田は夢見がよかった。まさに千載一遇の出来事と言っても過言ではない状況なのである。
 ところが、この頃の宮田はまるで何かを抱え込んでいるかのような、そんな不自然な様子が見られた。ずっと宮田のことを見てきた恩田であるがゆえに気がついた些細な変化だ。だからこそ気分転換にと提案してきた。それも数日前から。しかし、結果は全敗。どういうわけか宮田は恩田の申し出をすべて断り続けている。
 そうは言っても、想い人の不穏な姿を目にしておきながら素知らぬ顔で放置できる恩田でもなく。今度こそはと淡い期待を抱きつつ、今日も今日とて声をかけた次第だった。

「先生、」
「今日は無理だ」
「……そう、ですか」

 振り返らずにそう言った宮田に、恩田は肩を落とした。それから今日はではなく今日も、、、でしょう、と密かに心の内で訂正する。突き放されたような言い方は傷口に塩を塗り、じくじくと内臓を腐食してくる。だが、そろそろ恩田も我慢の限界だった。なにかあるのなら話してほしい。恋人なのだから頼ってほしい。そんなことを考え始めていた。

「……先生。悩みごとがあるのなら、話してください」

 切羽詰まったような声色でそう言うものの、やはり宮田は無言を貫く。背中は干渉するなと語っているが、恩田も恩田で追いつめられている状態ではそこまで気が回らない。

「私、思い当たる節ならあるんです。なまえさんのこととか、求道師様のこととか。……そうですよね?」

 恩田は話しにくいことであるならばと、少しでも打ち明けやすい環境をつくりたかった。だから口火を切った。実際、宮田の異様な様相をもたらしている原因を察知していたし、また確信に近いものも持っていた。それが引き金になるとは知らずに。「……なまえさんが亡くなってしまったのは、本当に残念なことだと思います。求道師様も、目に見えて衰弱していますし……」牧野が恋人を亡くしてしまったことは心中察する。しかし、宮田がその調子でどうするのだと恩田は言いたかった。

「でも、いつまでも引きずって前に進めないのも違うと思います」

 宮田は牧野ではない。それなのにまるで己が牧野であるかのようになまえの死に捕らわれている。少なくとも恩田にはそう見えた。

「だから、先生は先生のできることをしましょう?」

 脊髄をなぞり上げられる感覚。
 センセイはセンセイのできることをしましょう? 自分のできること。自分にしかできないこと? 渇望している肩書きが、光が、お前には到底叶わぬ夢幻であると。暗にそう言われた気がした。もがけどもがけど届かない。知ってる。ああ知ってるとも! 腹の奥底でふつふつと湧き上がるどす黒い激情。神経が焼き尽くされる。やめろ。言うな。触れてくれるな。俺には俺のできることをする? そんなこと言われなくても、俺は、

「先生は求道師様ではないんですから」

怨讐が。

「───黙れ」

 ぐるりと振り返った宮田に恩田が安堵したのは束の間。伸ばされた腕は抱きしめるためのものだと思った。「黙れ、黙れ……!」首に指が食い込む。気道が締め上げられる。息ができない。「……ッひゅ……かは……!」悶え苦しみながら絞扼してくる手を掻き毟る。恩田を睨みつける目玉は様々な感情が複合し揺らめいている。憤怒、怨恨、疾悪厭悪憎悪。そして殺意。恩田が意識の途切れる最期の瞬間に目にしたものは、あまりにも遣る瀬無いものだった。
 脱力した個体から手を放すと、重力に任せて床に落下した。べちゃり。なんて不格好なんだ。口許が歪む。

「求道師ではない?……そんなこと、俺が一番よく知ってる」

 宮田は嗤っていた。

 コンクリート製の地面を踏み鳴らしながら階段を降下する。薄暗い地下は独特な匂いが充満し、いやに湿度が高い。決して長居はしたくない所だが、それでもここは何かを隠蔽するには最適かつ最良の場所だった。
 狭い廊下に連なる堅固な牢。手前のそれらには目もくれず、宮田は迷いなく最奥を目指す。ひとつ、またひとつと、壁や床を奇怪な染みで彩っている鉄格子を通り過ぎ、やがて足を止めた。

なまえさん」

 ただでさえ窮屈な部屋の、その更に一隅。そこには壁に背を預け項垂れているなまえがいた。名を呼ばれても小揺るぎもしないさまは生きているかすら怪しい。しかし、微かに上下する肩は確かに存命していることを示唆している。
 なまえの反応が鈍いのは今に始まったことではなく、宮田は対して気にも留めずに続けた。「貴女の葬儀は明日行われる手筈になっています」すると、掠れた声が弱弱しく返ってきた。ここから出して、と。

「居場所なんてもうどこにも無い。前にもお伝えした筈ですが」

 村では既になまえは絶命したことになっている。それはもちろん宮田の捏造に過ぎないが、そもそも地下から出してやるつもりも一切なかった。
 なんで、どうして。なまえの口を衝いて出てくる質問はいつも同じだ。宮田は今まで幾度となくその疑問を投げかけられてきたが、決まって沈黙を貫いてきた。けれど、今日は違う。先ほどの恩田の言葉がどうにも肺腑を抉って仕方がない。結局は俺のことを理解してくれてなどいなかった。誰もわかってはくれない。誰も。

「……俺は牧野さんが羨ましかった」

 己とは対照的な地位も名誉も手にしている半身を妬み、嫉み、憎んだ。それでいてアレは非正攻法とは言えど一人の人間も手中に収めた。醜く穢れた歪な愛のくせに、なまえはアレを拒まない。内心恐ろしくて堪らないくせにそうしないのだ。それなのに。それなのに!
 なまえは恐怖しつつも確かに牧野を愛していた。受容していた。牧野は宮田の望むものすべてを持っていた。宮田はそのことが酷く面白くなかった。

「子供じみた主張だと思いますか。構いませんよ。それはきっと事実でしょうから」

 せめてもの足掻きのつもりだった。
 いつかは誰かが気づいてくれるはずだとなまえは言う。その“誰か”が指している人物を宮田は見通していたが。大方、己の恋人であった人物だろうと。「生憎ですが、美奈なら来ません。どれだけ待っても、ずっと」鼻で笑いながらそう吐き捨てる。
 なまえは弾けたように顔を上げた。その表情は驚愕に染まっている。「み、宮田先生、まさか」震える声でそう言うなまえの姿を宮田は捉えた。何を見ているのか定かではない目だ。視線が合わない。矛盾。なまえはゾッとした。推測ではなく事実だと物語っている有様。嫌な汗が全身から噴き出す。肌が粟立つ。ここから逃げなければと思うが身体が動かない。術もない。どうしようもない。
 どうしようもないのだ。

「また来ます」

 やらなければならないことがある。そう呟いて去って行く宮田の後ろ姿が、目を疑うほど自然に闇へと溶け込んだ。
 それが八月二日夜半前の出来事だ。
 刻一刻と迫り来る。ある者は生贄の少女との対面を。ある者は儀式を。ある者は死体遺棄を。条件は揃い、集約されるのは然るべき鍵となる人物に他ならない。
 秒針が時を刻んでいる。間もなく日付がかわろうとしていた。
───八月三日午前零時。地図からひとつの村が消失した。
 サイレンが鳴り響き、羽生蛇村は外界から隔離された異界と化す。現世では土砂に飲み込まれ甚大な被害を受けた。数日に渡る救助活動の末、奇跡的帰還を果たした生存者はただ一人のみ。
 これも因果律の定めである。