愛の証しながら

 なまえが風邪を引いた。平腹にとってその事実は衝撃的なものだった。自身が病気とは無縁だからなのかもしれない。ともあれ、平腹は医務室のベッドに横たわるなまえを、どこか不穏な気持ちを抱きながら側にいて見守ることしかできない。
 常よりも促迫な呼吸。紅潮した顔。そしてなにより、苦悶様の面持ち。平腹にとって今のなまえは、もしかすると死んでしまうのではないか、という危機感すら抱いていた。

「なあなまえ、大丈夫?」
「……平腹、さん。わたしはだいじょうぶです」
「けど、すげえ苦しそうじゃん……」

 小さな口からは咳がこぼれ、時折ヒュウヒュウと空気が抜けるような音が聴こえる。その様子が、平腹には生き絶える前兆のような、そんな風に見受けられるのだった。
 なまえの額に乗せられた氷嚢。高熱により既に氷が溶け人肌まで温かくなったそれに、新たに氷を入れる。少量水を加えると、平腹はそっとなまえの額に置いた。なまえは気持ち良さそうに目を細める。

「ありがとうございます。平腹さん」

 つらいだろうに微笑むなまえに、平腹はどくんと心臓が跳ねるのを感じ取った。なんだこれ、と彼はひとり自問自答する。そしてなにか良からぬ感情が湧き上がる。彼はそれにハッとすると、邪念を振りほどくようにぶんぶんと頭を振った。
 無理やりに笑んだようななまえ。その両眼にはじんわりと涙が浮かんでいる。加えて赤く染まった顔。まるで情事を連想させるような、そんな様相に邪な気持ちに支配されてしまったのだ。

「……」

 平腹はごくりと唾を飲み込む。実を言うと、このまま襲ってもいいとは考えていた。ただ、復活したなまえの予測される行動に関して思案すると、例えばしばらく口を聞いてもらえないだとか、なにかしらの態度を取られてしまうだろうと、そう思考することができる。よって平腹は苦悩していた。
 いっそのこと一旦席を外して外の空気を吸った方がよさそうだ。平腹はそう発案した。「なまえ、オレちょっと外に行ってくる」怪しまれないように極力明朗な声音で言い、椅子から腰を上げて扉の方へと足を進める───はずだったのだが、ピタリとその歩みを止める。制服を掴み行く手を阻まれたのだ。

「平腹さん、行っちゃやだ、いっしょにいて……」

 切なそうな声色。くしゃっと弱々しく制服を握りしめて、泣きそうな表情でそう言われれば、平腹の理性はガラガラと音を立てて崩壊してしまう。「……オレ悪くねーよな?」ぎしり、ベッドのスプリングがふたりぶんの重みで声を上げる。平腹がなまえの上に覆いかぶされば、彼女の上には影が落ちた。
 熱っぽい眼をした平腹を、なまえはぼんやりと見つめる。見えていたはずの白い天井は、彼の身体によって遮られている。
 おもむろに、平腹はなまえの頬に手を寄せる。すると、なまえはすりすりと彼の手に頬ずりをした。「……っ!」それにまたぶちぶちと理性が引き千切られる。どこまで煽れば気が済むのだ! 平腹はもやもやとそう思った。
 気持ち良さそうに目を閉じるなまえの唇に、自身のそれを重ねる。うっすらと開かれていた口では容易く舌を入れることができた。

「……っんや、う、やあ」

 熱い咥内。互いの舌がとろけ合いそうだった。平腹は思わず眼を細める。
 やがて、なまえは苦しそうに顔を背けた。氷嚢がシーツの上に落ちる。いつもなら聞き入れない要望だったが、今は状況が状況だ。平腹は大人しく唇を離す。なまえは頬を赤らめ苦しそうに喘いでいる。眼前に露わになったのは白く細い首筋だ。彼はごくりと唾を飲み込む。それはまるで吸い込まれそうな色をしていたから。
 平腹は考えるよりも先に首筋に顔を埋めていた。じっとりと汗をかいている肌を舌でなぞり上げる。しょっぱいような、あまいような。形容しがたい味だった。だが、彼にとってそれはどこか美味であると、そう感ぜられた。
 やがて、舐めるだけには飽き足らない平腹は、白い首筋に噛みつく。鋭利な歯牙がなまえの柔らかな皮膚に突き刺さり、ぶつりとふたつの穴を空ける。平腹は肌を突き破る際の感触が気に入っていた。
 両穴から流れ出す血を丁寧に舌で舐め上げる。それに満足すれば、また新たな場所に噛みついては穴を増やしていった。

「っひ、平腹さん、いたい」

 なまえは原因が熱だけに留まらない涙を浮かべている。弱々しく抵抗されるが、それは逆に平腹の感情を高ぶらせるだけだ。
 ふいに顔を上げなまえの眼を見つめると、彼女は涙に溺れた瞳で平腹のことを見つめ返す。鉄の味がするそれで舌舐めずりをしてみせれば、なまえはとうとうまぶたを閉じた。目尻から輪郭にかけて涙が伝う。「……なまえなまえ」平腹は閉ざされたまぶたに口をつけると、ふたたび唇を重ねた。だが、食みながら時折舐めると、ふとなまえの口が力なくぽかんと開く。平腹はそれに首を傾げた。「……なまえ?」名を呼ぶが返事はない。焦って額に手を当てれば、誰が触れたって理解できるほどの熱感がそこにはあった。

「っやべ」

 平腹は慌ててベッドから降りると、医務室を出てある男の元へと急いだのだ。

「───へえ?」

 冷徹な視線が平腹を射抜く。「オ、オレ悪くねーし……」なまえの傍にある椅子に腰かけ、だらだらと冷や汗をながら膝の上で拳を握る。罪悪感が否めないのか平腹の目線は佐疫と絡むことはない。「じゃあなまえちゃんが眼を回している原因はなんだろうね?」まるで棒読みだった。
 佐疫は落ちていた氷嚢を優しくなまえの額の上に乗せつつ笑んだ。目が据わっているとはこのことである。

「熱が上がったんだろ」
「ふうん? じゃあこの傷は?」
「ア゙」

 す、と佐疫の指がなまえの首筋を這う。そこには数カ所の噛み跡がまざまざと残っている。不本意とはいえなまえはぴくりとそれに反応を示し逃げるかのように顔を背けるものだから、平腹は脊髄反射で立ち上がり佐疫の腕を掴んでいた。

「触んなよ!!」

 平腹は突然激昂し、牙をむいて佐疫を威嚇する。思わず殴りかかりそうになるのを無理やり理性で押し留めたのはよかったが、それは骨が折れるほどの力だった。その反応に佐疫はため息をつくと、呆れ半分でなまえの首筋から指を離した。「なまえちゃんが大切ならなんで無茶させるようなことをしたの?」平腹はその発言にウ、と言葉を飲み込む。

「だって、なまえが誘うのが悪い…」

 眉を八の字にそう言った平腹は、尻尾が生えていれば垂れ下がっていることだろう。それに佐疫は肩を竦めてみせた。

「……何はともあれ、なまえちゃんが回復するまで平腹は近づかないほうがよさそうだ」

 その日、佐疫のその言葉に大打撃を受けた平腹の嘆き声が洋館に響き渡ったのである。