はじめは些細なことだった。
仕事から帰ると、消したはずの部屋の電気が点いている。消し忘れかと思い、たいして気にも留めなかった。
仕事で愛用していたボールペンを失くした。どこを探してもなかったので新しいのを買うことにした。
洗濯をして乾かしていたお気に入りのワンピースがなくなった。
ここで“なにかがおかしい”と気が付いた。
誰かが部屋に侵入して物品を奪っているのかもしれない、と。しかし、その割には金目のものは盗まれていない。なまえは正体の知れぬ存在に恐れを抱いた。顔見知りか、それとも見知らぬ人物か。どちらにせよ気持ちが悪いことにかわりはない。だが、警察に通報するか否か、なまえは迷った。迷った挙句、もう少し様子を見てみよう、と、そう判断を下してしまったのだ。
夕飯を作り、食したのちに歯を磨く。そしていつものルーティンでパソコンを開く。デスクトップに存在しているのはOFFというゲームだ。友人からの勧めでダウンロードし、プレイしてみたのである。
ゲームは先日クリアした。なんだか後味の悪いエンディングだったのをよく覚えている。ふたりの登場人物、彼らのどちらかを選ばなければ終わりは迎えられない。
なまえは悩み、結局ジャッジという猫を選択した。だが、ゲームにとっては悪しき存在のバッターを殺しても、浄化を銘打った取り返しのつかないことをしてしまったのだと。OFFはそう思わせるゲームだった。たとえゲームとて、なんだか申し訳ないことをしてしまったと、しょんぼりしたのは記憶にも新しい。
なまえはこのゲームを消すかどうか、悩んだ。すでにクリアしたのだから、アンインストールしても構わなかったからだ。そしてファイルにマウスを合わせ、右クリックする───つもりだったのだが、誤って左クリックしてしまったのか、ゲームが起動してしまう。慌てて消そうとするが、なぜかマウスが動かない。否、マウスは動くのだがカーソルが一向に動いてくれないのだ。どこをクリックしてもうんともすんともいわない。なまえは首をかしげる。
「??」
カチカチ、マウスをクリックする音が静かな部屋に響く。しかしいくらクリックしてもフリーズしてしまったかのように変化がないのだ。これは諦めて強制的にコントロールキー、アルトキー、デリートキーを押し、シャットダウンさせるしかない。なまえはそう判断した。このパソコンは趣味を堪能するために購入した、仕事とはなんら関係のないパソコンなので多少の負担は大丈夫だろう、との考えからだった。
そしてキーに指を合わせると、画面が切り替わった。なまえはそれに思わずびくりとする。
画面は真っ暗である。
もしかしたら、何か見逃したエピソードがあるのかもしれない。そう思い、この先の展開を待つ。しかし、いくら待てども画面は真っ黒のままでなんの変化も訪れない。
なまえはいよいよ呆れてしまった。思わせぶりなゲームだなと、そう思いながら。
はあ、と溜め息をつくと、再び強制シャットダウンのキーを押す───つもりが、今度こそピタリと身体が静止する。
画面が切り替わったのだ。最終バトルのステージ。一面真っ白の、スイッチがある部屋の画面だ。
ただ、それはなまえが最後に目にした状況とは異なるようだった。倒したはずのバッターが佇んでおり、ジャッジが倒れているのだ───血まみれの、身体で。
なまえの動きが止まる。呼吸を忘れてしまったかのように、画面食い入るように魅入る。なにかが、なにかが起きようとしている! はやくシャットダウンしろと身体の奥底が叫んでいる!
だが、動けなかった。マウスに添えられた手は体温が失われている。クリックすることさえもままならない。
すると、血まみれのジャッジの側に立ち尽くしていたバッターがこちらを見た。ゲーム上ではない。彼は確かに画面越しのなまえを見ている!
なまえは冷や汗が止まらなかった。これは二次元と三次元。交差することはあり得ないのだ! だが、やはりバッターは、彼は、自身をみているのだと、そう確信している。
「なまえ」
名を、呼ばれた。ゲームをしていたときの名前ではない。それは彼女の本名だった。
「なまえ。聞こえているだろう。返事をしてくれないか」
なまえは恐ろしくなった。今目の前で起こっていることが、信じられなかった。ゲームの中のキャラクターがなぜ自身の名を知っているというのか!
「……まあいい。なぜなまえはジャッジを選んだ」
なぜ、と言われても、浄化を進め世界が虚無に染まっていくのを見て、浄化というものが本当に正しいのかわからなくなってしまったから、というのが大きい。しかしそれを口にするより先に、バッターが言う。
「俺はなまえの命令に従ってきた。ずっとだ。だからこそ最後の審判でャッジを選び、俺を見捨てたことが気に喰わない。……なあ、聞いているんだろう」
がりがり、バッターはバットでジャッジの内臓を引き摺り出す。「ここに在るべきは、俺と、そしてなまえだ」ぽつりと、発言。
すると途端になまえはひどいめまいに襲われた。目が開けられない。ぐわんと重力が揺れる。どちらが上でどちらが下なのか判断がつかない。
名状しがたい感覚から解放されたとき、なまえは真っ白な世界のなかにいた。目の前にはバッターが立っている。見下ろされれば息が詰まるほどの圧迫感を抱く。なまえはがたがたとふるえた。このゲームはなまえが選択したエンディングと異なるものを迎えようとしている。それも存在しないはずの人間を添えて。
「なまえ。俺は怒っているわけではないんだ。だが、ジャッジを選んだことが気に喰わない。それだけなんだ。わかるか」
疑問形ではなかった。
「へ、部屋の電気が点いていたのも、ペンが、なくなったのも、あ、あなたのせいなんですか」
「あなただなんて仰々しいことを言うな。バッターでいい。それが俺の名だ。知っているだろう」
なまえは足が震え立ち上がることができない。そんな彼女を眼前にバッターは屈むと、四つの赤い眼玉を開く。歪んだそれは一直線になまえのことを突き刺す。にたりと避けた口の奥からは鋭利な歯牙が顔を覗かせる。
「っわ、わたし、帰ります。帰らせてください」
「それは無理な相談だ。ジャッジが死んだ今、この世界を牛耳っているのは俺だからな。なまえを生かすも殺すも俺の匙加減なんだ」
「……」
「脅そうというわけではない。なまえはただ、俺とともに在るだけでいい。それだけでいいんだ。簡単な話だろう」
「……き、虚無にされた世界で、」
「ああ、そのことを気にしていたのか。問題ない。俺がいれば#name1#はひとりじゃないからな」
なまえが不安に思っていることをバッターは誤認していた。なまえは現世に帰りたいのだ。バッターとともに在ることを望んでなどいないのだ。しかし彼はそれを理解できない。ただただ自分の欲望のままになまえを側に置こうとしている。
「たまにはこういう終わり方も在りだとは思わないか」
不気味に笑むバッターを見て、なまえはとうとう抑えがたく涙をこぼした。