ねじれ人道

 ヒビキは思った。現在対峙している彼女は一体何者なのだろうか、と。隣に佇む恰幅の良い青年を見上げてみると、彼の視線は彼女のことを突き刺していた。瞬きもせずに、ジイ、と一切の挙動を見逃すまいと見つめているのだ。彼女は俯いているがためにその視線が絡むことはないが。

「ヒビキくん。きみは先に行ってくれないか」
「え! で、でも、」
「行くんだ」

 狼狽るヒビキの返事を抑え込むようにして、ワタルは口を開く。その間も目線は彼女から逸らされることはない。
 ヒビキは後ろ髪を引かれる思いがあったが、あまりにも異常な───少なくともヒビキにはそう感じた───様相だったものだから、そのまま何も言わずにアジトの内部へと足を進める。
 そして彼らはふたりきりになった。

「どこを探しても見つからないと思っていたけど、まさかロケット団員になっていたとはね。盲点だったよ」
「……」
「一体何匹のポケモンを殺めた? 何人の人間を甚振った?」
「……」
「……黙りか。まあいい」

 ワタルは大きく一歩を踏み出した。彼女はそれに怯えるかのようにして走り出す。だが体躯な差は歴然、瞬く間に───少女は、彼に捕まり壁に縫い付けられた。

「……、て」
「なに?」
「はなして」

 その声は震えていた。圧倒的に不利な立場にいるというのに、抵抗する姿を見せる眼前の少女に、ワタルは目を細めた。

「何故俺がなまえのことを探していたと思う? それこそ、何年もかけて」

 少女───なまえは、思わず視線を上げた。上げてしまった。交差するそれはまるで獣のようだった。今すぐにでも切れてしまいそうな細い糸。ワタルはすんでのところで理性を保っているかのように窺える。なまえはごくりと固唾を飲み込む。それは一挙手一頭足、なにかを多少たりとも誤れば、引きちぎられそうなほどの細さだった。

「そ、そんなの、しらない」

 なまえはカラカラになった口で返答する。ドクドクと速まる鼓動に反して、身体は冷え切っていた。
 ワタルとなまえは共にフスベの出身だった。幼少期、なまえはワタルがどこへ行こうにも彼のうしろをついていくような、そんな少女だった。歳上の彼を尊敬し、模範するべき少年だという思いがあったのだ。彼はそんな彼女のことを大切に思っていたし、また彼女もそうであると思っていたのに。
 それなのに、なまえは突然姿を消した。実家にも連絡を入れず、痕跡も残さず。初めはちょっとした家出なのだと思い込んでいた。しかし、数日、数ヶ月と時が経つにつれそれは異変へと繋がった。
 なまえは“俺ではないなにか”に想いを馳せ、惹かれたのだと。ワタルはそう察知し、心の奥底から憎しみが湧き上がった。それはなまえを手中に収めるべきは俺だけだという、憤懣に近い憎悪だった。
 ワタルはなまえは自身のことを慕い後を追ってくるのだと思い込んでいたのだ。自身がそうであるように、なまえもまた然りであると。そう信じてやまなかった。だが、現実は違った。
 なまえは正義ではなく悪を選択し、染まってしまったのだ。ワタルは正義感の強い青年であり、決して悪を許さない。だが、行き過ぎた正義感がなまえのことを縛りつける。有無を言わさず己の正義を振りかざす彼に、なまえは戦慄を覚えた。なまえがロケット団員になった経緯は不明であるが、ワタルはそのことが非常に面白くなかった。押さえつけている腕に力を込めれば、なまえは痛みに顔を歪める。

「はなして」
「離さない」
「っ、な、なんで」
「それは俺の言葉だ」

 低い声で反論すれば、なまえは明確な恐怖を抱いた。怯えに染まった瞳がワタルの瞳とかち合う。彼はそれに口端を吊り上げる。
 なまえを手に入れるには、まだ猶予があるように思えた。
 しかし、なまえは突然行動に移す。
 腰にあるモンスターボールを投げたのだ。「クロバット! どくどくのきば!」鋭い声で指令がなされるが、しかしワタルのモンスターボールから飛び出してきたカイリューがはかいこうせんで相殺し───否、相殺ではなくクロバットを戦闘不能にした。それになまえはとうとう顔を青ざめさせ、再び俯く。

「……人間に技を繰り出すことがどういうことなのか分かるか」

 ワタルは地を這うような声で言う。なまえはとうとう身体を震わせた。目の前の男が、獣が、恐ろしい。
 冷徹な眼差しでなまえを見つめるワタルは、おもむろに彼女の顎を掴むと、力ずくで目線を上げさせた。やはり、なまえは自身に恐れを抱いている。

「随分と堕ちてしまったようだね」
「……」
「だけど、昔の面影も残ってる。クロバットに進化させるには懐いていることが条件だからね。その点を斟酌すれば、ポケモンに手をかけたことはないし、非人道的なこともしてなさそうだ」

 ワタルは垣間見えるなまえの恐怖につけ込む隙があると認知した。未だ矯正できると、己の思うがままに修正できると、そう考えた。

「俺と一緒に帰ろう」
「っい、いや!」
「抵抗するつもりか?」
「……ワ、ワタル兄さんはわたしに夢を見すぎてる」
「漸く名を呼んでくれたね。なまえは昔から俺を慕ってくれていただろう」
「そ、んなの、ちがう、しらない!」

 ワタルは泣きそうになりながら抵抗を見せるなまえを眼にして、途端に優越感を得た。やはりなまえは俺のものとなる少女であると、そう確信したからだ。それはあまりにも歪んだ認知である。

「怖がらなくていい。ただ俺と一緒にいてくれるだけでいいんだ」
「いや、いや、やだ!」
「さあ、クロバットをボールに戻すんだ。帰ろう」
「やだっ、やめて!」

 ワタルはなまえのモンスターボールを掴み気絶しているクロバットを戻したのはいいが、当のなまえはぐっと足を踏ん張り争うものだから、少しだけ苛立ちを覚えた。「手荒いことはしたくなかったんだが」ワタルはそう呟いた。

「カイリュー。でんじは」
「っ、カイリュー、やめて、やめて!」

 ぎゃう、とひと声上げたカイリューの瞳からは動揺が伝わってくる。本当に技を繰り出していいのか、さすがのトレーナー───カントーとジョウトのチャンピオンにはあるまじき行為、かつ相手はミニリューだったときから知っていたなまえであるから本当に構わないのかと、そういう不安があったからだった。なまえは泣きながら声を上げ、カイリューを縋るような眼で見つめる。カイリューは困惑しているようだった。

「いいんだよ。でんじは」

 だが、ワタルが優しい声でそう言うと、カイリューはおとなしく主人に従い、でんじはを繰り出す。するとなまえは意識を失い、倒れ込んだところをワタルは受け止めた。

「やれやれ、ちょっとだけ手間がかかったな」

 ワタルがそう言いなまえを抱き抱えると、丁度背後から声がかけられた。「ワタルさん!」その声に振り返れば、目先にはヒビキがいた。

「ヒビキくん。このアジト内は全滅できたのかい?」
「はい。幹部も倒したんですけど、ここにはボスはいないみたいです」
「そうか。……じゃあ、次はいかりのみずうみに行ってみようか。赤いギャラドスの噂を耳にしてね。何かあるかもしれない」
「そうなんですね。……でも、あの、ワタルさん」
「うん?」
「……えっと、その……女の子は」
「……」
「! あ、いえ、じゃあオレ、先にいかりのみずうみに行ってますね」

 ヒビキは不自然な笑顔を浮かべるワタルを見て、本能的に逃走を図った。彼らの間には第三者が踏み込んではいけない“なにか”を察知したのだ。そして足早に去るヒビキの背を見て、ワタルはなまえを抱きしめながらくつくつと喉を鳴らしたのだった。