「なまえちゃんって好きなひといるの?」
川辺に腰かけ、水に両足を沈めている前田知子は、ふとそんな話題を持ちかけた。川のなかに入り水を蹴りあげていたなまえは一瞬その動きを止め、知子の方を振り返ると、やわらかな微笑をたたえながら「どうだと思う?」と返事をする。
秋に差しかかり、気温がだいぶ涼やかになり始めた午後五時のことである。ふたりは下校途中に、こうして時間を潰すのが日課となっていた。
なまえは高校生であるが、知子との付き合いは長い。家が近所なのだ。知子は幼いころからなまえの背を追いかけきた。共に遊ぶこともあれば、勉強を教えてくれることもある。だからこそ知子は、基本なまえのことを知りたがる傾向にあった。
知子は少し考える素振りを見せる。「同じクラスの男の子、とか?」ありきたりな推測であるが、もとより人口が少ない羽生蛇村の内では、恋愛対象に含まれる相手は至極限定されてくる。「ふふ」小さく笑ったなまえは、知子の前に移動すると、口を開いた。
「あたり」
気恥ずかしそうにそう言うなまえに、知子は自分まで嬉しくなってきた。ふたりでくすくすと笑い合う。知子はまたひとつなまえのことを知ることができ、心が満たされる感覚に見舞われた。
ほんのりと頬を染めたなまえは、ふと眼を丸くする。視線は知子の背後だ。知子はそれに気がつくと、後方を見遣る。
「求導師さま」
知子がぽつりとその名を呟くと、そこには真っ黒な服に身を包んだ求導師───牧野慶が佇んでいた。穏やかな微笑みは、村民を神の導きへ誘う力を所持している。だが知子は、どういうわけか身体をぶるりと震わせた。
「なまえちゃんも知子ちゃんも、学校が終わったんだね」
どこか平坦な声音。だがそれを察知したのは知子のみであり、なまえは常と変わらぬ笑顔を浮かべている。
知子は途端に帰宅したくなった。どうやら牧野の機嫌がよくないらしいことを悟ったからだ。「……えっと、そ、そうだなまえちゃん、帰ろ!」こうまでも不穏な兆しを見せる牧野は、知子にとっては初めてのことだ。彼はいつだって穏やかで優しくて、あたたかな人間であったから。
だが知子が立ち上がる前に、牧野が訊ねる。
「なまえちゃん、好きなひとがいるの?」
「はい」
「そうなんだ」
牧野の笑顔は完璧だった。だが知子はやはり、どういうわけか心底戦慄する。ついには足まで震えてきた。現在の牧野は、どこか末恐ろしい。そんな直観に支配される。
牧野は知子の横を通り過ぎる。依然として立ち上がることができない知子は、牧野の背を見て固唾を飲んだ。激しい鼓動に不快感を覚えるほどに。
「わっ」
おもむろに、なまえが悲鳴に近しい声を出す。慌てて知子が視線を牧野からなまえへ移すと、彼女は川のなかに尻もちをついてしまっていた。制服がずぶぬれだった。
「大丈夫?」
牧野は緩慢な動きで川へ入ると、なまえに手を差し伸べる。「あ、ありがとうございます、牧野さん」なまえはそう言って彼の手を掴むと、立ち上がった。制服から滴り落ちる水滴に、なまえは眉尻を下げた。「……えへへ。濡れちゃいました」困ったように笑う姿に、牧野は言う。
「最近寒くなってきたからね。制服を乾かして、風邪をひく前にお風呂に入った方がいいよ」
「そうですね。……知子ちゃんはもう少し牧野さんをおはなしする?」
「え、あ、……」
知子は言葉を紡げない。あまりの恐怖に竦んでいたのだ。喉元から零れるのは声にならぬ声だ。口からはか細い呼吸音が漏れる。
だがそんな知子の変化になまえは気づけなかった。「じゃあ、わたし先に帰ってるね」手を振りながら走り去ってゆくなまえの姿さえ眼で追えなかった。
震える両足に反応した水面がゆらゆらと揺れている。やがては手まで震えてきた。知子は牧野のなににそうまでも怯えているのかが理解できなかった。
「……」
重い沈黙が訪れた。知子は居心地の悪さに泣きたくなった。「ねえ、知子ちゃん」すると突然牧野に名を呼ばれ、肩を跳ねさせる。それは平坦な声音から一転し、どこか燻りのある、恐怖の権化ともとれる声音だった。知子は震える声で返事をした。
「なまえちゃんが誰のことが好きなのか、知ってる?」
その質問へ対する返答は決まっていたが、やはり知子は声が出せない。「知子ちゃん」再三名を呼ばれる。牧野が振り返る。逆光で顔が見えない。だが、影に満たされた顔のなかで、唯一口許が歪んでいるのだけは確認できた。早く返事をしなければ、自身の身にどのようなことが降りかかるのか分かったものでなはい。しかしながら、脳がその働きを制止してしまっており、意思に反して身体は言うことを聞かなかった。
ここで、知子はなぜこうまでも牧野に恐怖している理由を理解した。彼は憤怒していたのだ。それはあまりにも大人げのない、歪み切った、どだい共感のできない感情だった。常軌を逸しているその想いは、知子のみならず、数多の人間を恐怖に陥れるであろう感情だった。
「知子ちゃん」
知子は泣きだしたい衝動を堪え、唇を引き結ぶと、ただ一言「ごめんなさい」と答えるほかなかった。