「なんか……つまんねぇ~……」
やたらと低い声が聞こえた。
「えっ? ピアノ、すごかったじゃないですか」
「オレ帰ろっと」
「え、ええ……あの、平腹さんは行かないんですか?」
斬島さんと佐疫さんのところに。わたしがそう話すのを待たずに、平腹さんはこちらに背を向けて彼らとは反対方向に歩いていく。……わたしは一体どうしたらいいのだろう。
実のところ、彼ら二人のことが心配だった。ピアノの演奏をしなければ先に進めないだなんて、きっとその手のかかり具合に比例するくらいの何かが、あの扉の向こう側に待ち受けている気がしてならないからだ。そもそも、平腹さんはあの二人と同じ獄卒であり、仲間であるはずなのに。普通は身の危険を案じるものじゃないのかなぁ。
そんなことを考えながら先ほど鍵が開いた扉と平腹さんの背中を交互に見ていると、そのままこの場から立ち去ってしまうと思っていた彼は、足を止めてこちらを振り返った。
「なんでついて来ねーの?」
キョトンとした顔でそう言われたけど、いやだって、そんなの佐疫さんたちが心配だからに決まっているのだ。二人が通って行った扉を見つめながら、「佐疫さんたち、大丈夫かなって」ぽつんと呟く。するとガランガラン! と何やら硬いものが床に落ちた音がして、驚いて平腹さんの方を見ると。うん……あの、見なきゃよかったなぁと激しく後悔した。
「ぁあ!?」
ヒーッ! なんか怒ってる! 平腹さん、いっつも不気味なくらいに笑った顔をしてるから、それもあいまってかすっごい怖い。彼の大切にしているはずのスコップは、悲しそうに地面に倒れている……。
全身からドッと嫌な汗が出るわたしに構わず、平腹さんは眉間にぐっと皺を寄らせ、拳をぎゅうと握りしめて、ズンズンこちらに近づいてきた。彼が一歩、また一歩と足を踏みしめるたびに床がギシ、ギシ、と音を立てる。なんで急にオンボロみたいな建物の風になっているんだ! さっきまでは誰が歩いても、こんな禍々しい音は鳴らなかったのに。
ザザザ、と思い切り後退するわたしのこの動きは、自然な反応に違いない。背中に壁がぶつかってこれ以上退けないことを突きつけられたけど、しかしこのまま立ち尽くしていても目の前の鬼に殺されそうなので、壁を伝って横に移動する。あわよくば、そのまま例の扉を開いてその先に逃げこむ……なあんて作戦を立てていたというのに。ダンッ! と長い腕が顔の横にぶちあたってそれは未遂に終わってしまった。お、追いつめられたぁ!
「ひ、あの、あの」
「オマエは一緒に帰るんだよ」
「……」
「帰るんだよ!!」
ぐわっと開いた平腹さんの口から、標準よりもかなり鋭い歯が覗く。な、なんだこりゃ~!? 牙みたいに尖った歯列に、わたしの腰は見事にぬけた。ずるずると重力に従って床に落ちる身体。わたしはそれに身を任せながら、「は、はひ……」なんて、笑っちゃうくらいに力ない返事しかできなかった。
さっきの平腹さんの鬼のような形相は、果たしてわたしの夢だったとでも言うのだろうか。そんなことを思案してしまうほど、今の彼はいつものヘラヘラ顔に戻っていた。わたしに怒っていたはずなのに普通に話しかけてくるし、もうなんなの?
とりあえず。平腹さんの逆鱗に触れるようなことはしない方がいい。それだけは断言できる。揺れる背中に乗りながら、ふと彼のブチ切れた顔が脳裏をよぎり、わたしは彼の肩を涙で濡らした。……こわかったなぁ……。
ぐすん、鼻をすする。まるで荷物のように運ばれるなか、これからわたしはどこへ連れて行かれるのだろうと思った。……ま、まさか冥府に……!? あそこがどんな場所なのか詳しいことはわからないけど、でもたぶん目一杯しごかれて、人格が変わるほどいたぶられて、それはそれは凄まじいところに違いない。凄惨な光景を頭の中に思い浮かべて、あまりの恐ろしさに身体が震える。
「いやだ……う、うう、わああん」
「玄関見っけ!」
とうとう玄関を通過してしまった。平腹さんは口笛を吹いており、わたしとはまるで正反対。いまだ腹をくくる覚悟ができないままに、彼は迷いのない足取りで外を歩き進む。
ジャリジャリ、というなんてことない砂利を踏む足音が、こんな状況ではわたしの心に追い打ちをかけてきて仕方がない。この音を耳にすることができるのも、もしかしたら最後になるかもしれないなぁ。そう考えるとまた泣けてきた。
元はといえば、廃校に向かったわたしに非があるのだ。つくづく運がない。
でも、どうして学校なんかを訪れたんだっけ。あそこは母校というわけでもないし、かといって特別な思い入れがある場所でもない。……なんて、そうは言うものの、わたしは死んでから記憶が曖昧で、生前の自分がどんな生活を送ってきていたのか、どんな人生を歩んでいたのかがどうもボンヤリとしてしまっているので、実際本当にわたしにとって“何か”あるところである可能性が存在したとしても、その答えに辿り着くことは叶わないだろう。
つまり、考えていても時間の無駄にしかならないのだ。……あっ、いや違う! これから真の終わりを迎えてしまうであろうわたしにとって、無駄なことなんて一つもない。白黒つけることができない問いを考えるこのひと時さえも、大事にするべきだ。
そう意気込んだわたしは、確実に近づいてくる消滅の恐怖を思い出し、またダパダパと目から涙を流しまくった。平腹さんの制服、主に肩の部分はこれ以上ないくらいにびっちょびちょになっている。