茶色を基調とした広い空間は、この部屋の主である肋角さんの雰囲気にぴったりだ。真ん中にどっしりと設置された大きな机に、いかにも座り心地の良さそうな椅子。彼はいつもここに腰かけて仕事をしているのだろう。机の上には報告書のような白い書類がまとめられている。獄卒さんたちが提出したものかな。
部屋の奥の方の壁にはこれまた大きな窓があって、わたしたちはそこから外の景色を眺めながら、お互いに一言も話さないというなんとも気まずい時間を共有していた。
肋角さんはキセルをふかして、紫色の煙が空気中を漂っている。う~ん、身体に悪そうな色。たぶん肋角さんの肺は真っ黒…いいや、もしかしたら真紫かも。
「けったいな話だな。霊魂が引き千切られているとは」
外に視線を固定させたまま、肋角さんはそう告げた。ひきちぎられて…?それは初耳だ。佐疫さん曰く、わたしには呪いとやらがかけられているそうなので、考えられるのはきっとそのせい。
「力任せに毟り取られたような荒さだよ」
「……むしり……」
魂をむしり取るだなんて、そんなこと可能なんだ。触ることすらできなさそうなのに。疑問を抱くわたしを他所に、肋角さんは「全部持って行かれていたら消滅していたぞ」と教えてくれた。それがもしかして無というやつなのだろうか。
「余程の荒技であると見受けられるが…憎まれるようなことでもしたのか?」
「憎まれ……?」
なんてことだ……。呪いをかけるという時点で、わたしになんらかの負の感情を抱いていたとは多少なりとも考えてはいたけど……でも、やっぱり面と向かって言われるとなかなかくるものがある。胸が痛い。生前のわたしはそのひとに、一体どんなひどいことをしてしまったというのだ。思い出したいような、思い出したくないような。複雑な気分だ。
「こちら側からすれば亡者は一匹残らず冥府に連行するべき対象だが、お前は例外中の例外だろう」
「えっ?……あの、亡者ってみんな冥府に連れて行かれちゃうんですか? 悪いことをしていなくても」
「そうだ。亡者にとって冥府は避けて通れない道であり、向こうにいる十王により審判され、六道のいずれかに赴くことになる。それが所謂転生だな」
あの世では覚えることがたくさんあるなぁ……。
そんなことより、わたしはとても大きな勘違いをしていたらしい。てっきり悪いことをした亡者だけが冥府送りにされるものだと思っていたけど、そういうこと関係なしに亡者は冥府に連れて行かれてしまい、罪に関する裁判を受けて転生する、ということになるみたいだ。
でも、そうなるとひとつの疑問が出てくる。佐疫さんの話によると、わたしはその転生ができない魂なのだ。こういう場合ってどうなるんだろう。ぼんやり考えていたら、肋角さんが口を開いてその疑問を解決させてくれた。
「しかし転生できない不完全な霊魂を持っている以上、お前を亡者と断言することは不可能だ」
「……はい」
「つまり、今のところは冥府に連行する訳にはいかない。向こうに面倒事を持ち込めば、後にこちらに付けが回ってくるからな」
「つけ……ですか?」
「……冥府には日々腐る程の亡者が送り込まれる。それこそ十王達の機嫌を損ねるくらいの、だ。目を回す忙しさの中、対処の仕様が無い存在を送り込んだらどうなると思う?」
「……わたしだったら、いやだなぁって思います」
「そう、向こうも同じ意見だ。そうして手を煩わせた罰として倍の仕事が回されることになる」
いい性格をしているだろう。と、肋角さんは吐き出した。今のって愚痴かな。彼が話す度に、紫色の煙がぷかぷかと浮かんでは薄れて消えていく。
そうだ。今この瞬間も、どこかで命を落としているひとがいるんだ。そういうひとたちが次から次へと冥府に送られるとなると、……ううん、確かにとっても忙しそう。あの世のお仕事は中々の激務のようだ。死んで初めてわかった。
わたしもこの呪いがどうにかなったら、冥府にお世話になるのだ。自分が誰かから憎まれていたって話を聞いたから、わたしはどうあがいても重い判決は確定だろうなぁ……。身に覚えがないのに、そんなの受け入れたくない。なんて思っても、これはもうどうしようもない話に違いはないのだろうけど。それでも、完全に納得はできなさそう。難しい……。
「そこで、お前の件に関してはここで手を打つ必要がある」
「はい……」
「だが……今すぐに解決できそうな代物ではないな」
鋭く細められた赤い瞳に射抜かれる。わたしではなくて、もっと奥の、まるで本質を見澄ますように。平腹さんの言う通り、肋角さんは端正な顔立ちではあるけどなかなかこわいので、心臓には悪い。だけど、こんな面倒なことになっているわたしのことをちゃんと考えてくれている。それによって怖さは半減だ。
「そんなにひどいんでしょうか……」
「同情はしよう」
「わ……わあ~……」
どこか哀れみを含んだ目で見られた。わたしの呪いってすごいんだ。全然実感湧かない……。ついついそんな風にどこか他人事のように考えてしまったけど、それは肋角さんを含めた獄卒さん全員にとって失礼極まりないことだ。わたしは相談に乗ってもらっている身、助けていただく身であるので、こんな失礼なことは考えるべきじゃない。図々しい自分の心に嫌気がさして、頭をぶんぶんと振った。すると、「……どうした?」と、肋角さんが訝しげな表情でこちらを見てそう言ったので、とっさに「なんでもないです!」と返事をした。不審がられてしまったかな。危ない、気をつけないと。
「閻魔庁からは他の仕事も回ってくる。よってお前の問題のみに割ける時間は多いとは言えない。……が、恐らく解決には然程手間はかからない筈だ」
「?」
「元は一つの霊魂が意図的に外力で引き千切られている訳だ。力尽くで引き剥がされた霊魂は、本来ならば一つに戻ろうとする。……分かるか? 原型に戻ろうとするから“引き合う”んだよ」
「分かるような、分からないような……」
「要するに、お前が餌となるようなものさ。その手余者を引き摺り出してやれ」
「……えさ……」
「それまでは此処の獄卒の目に届く範囲にいるようにしておくといい。お前が相手に釣られてしまうなど論外だからな」
「釣られる……? それって、わたしがもう半分の魂の方に引っ張られてしまうこともある…ということですか?」
「ああ。可能性として零ではないと言える。お前の半分の霊魂は呪術を掛けた者の手にあると推測できる。だからもしそうなると少々厄介な事態に陥ることを否めない」
「……」
「あいつらには私から事情を伝えておこう。問題が解決するその時になったら、お前一人では対処出来ないだろうしな」
「……はい……」
全くもってその通りだと思ったので、わたしは大人しく頷いておいた。すると肋角さんは、再び窓の外に視線を移して「それにしてもお前は運がいい」と言った。……運がいい? 電車に轢かれて死んじゃったり、挙句呪いがかけられていたことが発覚したり、その時点で運がないも同然だと思うけどなぁ。そう考えていると、彼は「血の気の多い獄卒に見つかっていたら、呪術を解くという話以前の問題だった」と続けた。
「異質な霊魂に気づかれず致命傷を受けていたら、お前は今此処には存在できていなかったぞ」
「……転生されないで、無になっていたかもしれない、ということですか?」
「ああ。お前を発見したのがここの獄卒だったから助かったようなものだ。あいつらは優秀だっただろう? 自慢の部下だよ」
「……う~ん……結構危ない目にあわされたような……」
「…………何?」
「……あっ、ご、ごめんなさ」
「ここにいる獄卒は皆、私に選ばれ訓練されてきた者。実力は確かなものであることは保証できる」
「……」
「……だが……そうだな。個性が中々に強いことも確かだな」
肋角さんは遠い目をしてそう話した。……きっと、色々と苦労してきたに違いない。
ともかくも。わたしの半分の魂はいずれわたしと引き合うそうなので、それまでは好きに過ごすことができる、という結論に落ち着いた。その時まで生きていられるみたいだ。余命宣告をうけた感覚なので、喜んでいいのかどうかは、正直よく分からない。