おすわり

 平腹さんはなにかを考えるような表情で黙り込んでしまったので、部屋にはわたしの荒れた息遣いだけが存在している。静かな環境にハァハァというなんとも間抜けな呼吸音だけが響くのは、結構恥ずかしい。一刻も早くこの羞恥心から解放されたい一心で必死に息を整えて、やっと通常の呼吸に戻り始めたころ、平腹さんが口を開いた。

「やっぱオレなーんも悪くねぇよなぁ」
「……」
「どう考えたってなまえが悪いんだよなぁー…」
「そんな……」
「オレさぁ、テンション上がっちゃうとほんと自制効かなくなるし」

 だからってわたしが悪いということにはならないと思った。平腹さんがきちんと自分の精神状態を安定させる術をもてばいいだけのお話ではないのかな。
 ここで、引っかかる発言がひとつ。平腹さんは今、テンションが上がったと言ったのである。さっきの一連の流れの内に、そんな興奮を煽るようなできごとはなかったはず。なので、聞き間違いかと思って「……テンションがあがったんですか?」と質問してみたけど、彼は「そうだけど」となんてことない顔で返してきた。まったくもって理解に苦しむ。

「さっき、すっげー勢いで傷治ったじゃん? あれってその証拠なわけ!」
「そ……そうなんですか、すごい」
「だから肋角さんに怒られるとしたらなまえだな! ドンマイ!」
「……」

 ドンマイ! じゃないよ……。わたしはただ、普通に絆創膏を持ってきて、傷口の手当てをしようとしただけなのに。それのどこに悪い要素があるというの。平腹さんの話を聞くに、どちらかといえば怪我をしたのにハイテンションになるという意味不明なそちら側に非があると思う。それに傷を負って興奮するって、もしかして彼は……。

「あの……」
「なに?」
「平腹さんって……痛いの、お好きなんですか」
「……は?」
「!?……だ、だってさっき、怪我をしたのにテンション上がったって……!」
「……」
「……いっ、た……っごめんなさい…!」

 わたしもう黙った方がいいのかもしれない。平腹さんの大きな手に掴まれた腕がとっても痛い。ギリ、と骨が折れそうな勢いで力が込められている。自由な方の手で彼の手指を腕から解きたいところではあるけど、それは手に絆創膏が入っている箱を抱えているせいで不可能だ。だから痛みから逃げるために、腕をぶんぶんと振った。でも、わたしなんかの力では結果が知れていた。逃げようとしたのか気に喰わなかったのか、平腹さんは余計に力を入れて握ってくるし、もう、これ絶対に青痣になってしまうパターンだ。
 自分の力じゃどうにもできそうにないので、とにかく何回も何回も謝った。そうしたら、彼は意外にもすんなりと解放してくれた。ここまで聞き分けがいいと逆に不安になるなぁ……。なんて考えていたら、平腹さんは今度はわたしの手を取る。また骨を粉砕されるという錯覚を覚えるような強さで握られるのは、たまったものじゃない。平腹さんの手は、当然わたしのそれよりも大きい。握りつぶすのは朝飯前に違いないのだ。そんなわたしの気持ちは行動に現れていたようで、弾かれたように平腹さんの手を振り払う。……振り払ったつもり、だった。結果、力の差で押さえつけられて、大きくてごつごつした手から逃げることは叶わずじまい。

「オレなまえに心配してもらえて嬉しかっただけ」

 いつ激痛に襲われるのかとビクビクしていたら、予測していた痛みはいつまでたっても訪れなかった。それどころか手を包まれて、さらにやわやわと優しく揉まれている。こわい。

「う、うれしい……?」
「だってオレ怪我しても心配とかしてもらえねーし、大体オマエが悪いって言われるし」

 さっきのやり取りも、獄卒さんを怒らせるようなことを言ってのけた平腹さんが悪いとは思う……。しかし今そのことを口に出すと、また痛い目をみる気がする。わたしは何も言わないように、口をきゅっと結んだ。とりあえずは平腹さんの話に耳を傾けることに徹した方がよさそう。

「だから嬉しかった!」
「それは、あの……よかったです……」
「おう!」

 ぺかー! と輝く笑顔を見せてくれた平腹さんを見て、彼はこんなにもかわいらしい顔もできるんだなぁと感心した。平腹さんはしょっちゅう不気味な微笑みを浮かべるし、何を考えているか分からないし、自由奔放だし。突拍子のないことをし始めるから、こわい。だからずっとこんな風に微笑んでいればいいのに。そうしたら、わたしもここまで平腹さんにビクビクしなくてもよくなるのに。ころころと変化する機嫌に振り回されるのは、なかなかに疲れるものなのだ。
 わたしの手は、依然として平腹さんの手によってモミモミされている。いつになったら解放されるのかな。異性にこのようにされるのは恐らく初めてだから、なんというか、恥ずかしい。顔、赤くなってないかなぁ。なってないことを祈ろう。
 すると祈りが届いたのか、平腹さんはパッと手を離し、鼻歌混じりでベッド向かって腰を下ろした。随分ご機嫌なご様子。そりゃあイライラされるよりは安心できるけど、でも……。まるで嵐の前の静けさのような……。考え過ぎだろうか。わたしの思考は、すでに平腹さんのペースに毒されている。
 ヒヤヒヤする展開を抜け出すことができたところで、肋角さんに借りたこの絆創膏の箱を返しに行かないとなぁ、と思った。だから平腹さんにそのことを伝えようと口を開こうとした、ら、彼の「あー!! 違ェだろオレ!! 思い出したぁ!!」という大きな声に遮られた。突然の大声に驚いて持っていた箱を落としそうになったものの、すんでのところで持ちこたえる。彼の予測不能な奇行は今に始まったことではないので、今度は一体どうしたのだと目で訴えかけようとしたら死んだ。どういうわけか彼は怒りを露わにし始めていたのである! 手には、なぜか今朝わたしが目を覚ましたときに身体にかかっていたタオルケットが握られている。せっかく畳んでおいたのに、ぐしゃぐしゃだ……。
 わたしはくるりと回れ右をしてドアノブに手をかけた。もちろん逃げるためだった。ドクドクと加速する心臓に気持ち悪さを感じつつ、自分が一体いつ平腹さんの逆鱗に触れることをしてしまったのか考えてみるけど、悲しいかな。一向に思い当たらない。わたし、何か悪いことした? もしかして、タオルケットは畳まない方がよかったの? だけど、借りたものをめちゃくちゃなまま床に放置していく方が失礼だし、お前ふざけんな! ってなると思う。つまり何がいけなかったのかが分からなかった。
 部屋から飛び出したくてドアノブを握る。けれどもブルブルと震える手では力が入らない。このままじゃ、やられる……。今本気を出さないでどうするんだ。己をふるいたてて無理やり力を振り絞って、ぎこちない動きながらも扉を引いた。やった……! 開かれたその先に広がる廊下。希望が、希望が見えた!

「ざぁーんねん!」
「あっ……!」

 そしてその希望は一瞬で絶望に塗り替えられてしまった。後ろからぬうっと伸びてきた腕によって扉が押され、バタンと音を立てる。廊下が消えた……。直後、わたしの顔を横から覗き込むようにして平腹さんは言ったのだ。

「なんで出て行こうとしたの? ん? オレ許可してないよな?……っつーかァ、そう! 思い出したことあんだよね。話したいことあっからそこ座ってよ」

 彼は床を指差しながら「なあいいだろ」と続けた。疑問符はついていなかった。どうやらわたしに拒否権はないらしい。