誰もが豹変

「んぐぇっ」

 あれ、おかしい……。わたしの頭の中では、逃亡に成功するまでの一連の流れが完成されていたはずなのに。しかしこうなった以上、現実はそんなに甘いものじゃなく、むしろ極めてにがいものに終わってしまったということになる。
 走り出した直後に「逃げんな」という言葉が聞こえたと思ったら、わたしの首には何やら冷たくて硬いものが巻きついていた。何だこれは? と不審がった次の瞬間には後ろに引っ張られて、そのまま正体不明の力に身を任せるようにして地面に尻もちをついていたのである。呼吸を妨げられて半分の魂が天に召されそうになったものの、それは首に巻きついていた物の力が弱まったことにより、消滅という最悪の状況を避けることはできた。……いいや、そもそも死にそうになるという事態が最悪の状況であることに違いはないんだけど、わたしは心のどこかで悟りの境地へと至っている。もはやこんな目に遭うことには慣れてしまった。悲しい話だ。
 涙目になりながらエホエホと噎せる。それから声をかけてきた主、田噛さんの方を見上げれば、彼の身につけている制服の袖から鈍い色をした金属が伸びていた。鎖だ。そして何気なくそれが繋がっている先を目で辿ってみると、恐ろしいことが判明した。なんとわたしの首に巻きついていたのは、田噛さんの鎖だったのである! 苦しかった原因はこれか……訳が分からない。止めるにしたって、もっといい方法があったはずなのに。獄卒さんたちの思考がこわすぎて何も言えない。

「……平腹は何してやがる」

 もやもやと思案に暮れていたら、チッと隠そうともしない舌打ちが上から聞こえた。田噛さんの怒りの矛先は、ここにいない平腹さんへと向けられているみたいだ。
 イライラしているひとが近辺にいると周囲の空気が重くなることは否めないけど、その憤りの対象が自分でないのなら幾分救われる感じはある。それでもまだ心が悲鳴を上げているのは、田噛さんのさらに後ろの方から恐ろしいほど冷たい不穏な雰囲気が流れ込んできて、わたしの周りを取り巻いているからだ。怖々しながら田噛さんの背後を覗き込むようにして確認してみると、その先には神主の格好をした男のひとが直立し、わたしのことを見つめていた。
 きっと、彼が亡者だ。亡者は悲しそうな表情を顔に貼りつけたまま、微動だにしない。その手には大麻が握られている。ときどき吹きつけるぬるい風によって、先端に飾りつけられた紙垂がカサリと揺れた。

「お祓いを必要とされているようですね」

 喉の奥から絞り出すような、悲痛な声。ぐっと唇を噛み締め、神主は顔を上げた。縋るような瞳だ。でもお祓いが必要って、一体誰がだろう。「どうか私に任せて頂けませんか、お願いします、必ずや貴女の不浄に侵された霊魂を救い出して見せましょう。ですからどうか、どうか」パチリと目があった。もしかしなくても、彼はわたしに言っていたのだ。

「……あー、そういう」
「?」

 田噛さんは、ガチャガチャと手荒な動作で依然わたしの首に巻きついている鎖を解きながら、ひとり納得したような声色でポツリと言った。途中で髪の毛が巻き込まれて「いたい!」と声を上げると、「なら切るか」だなんて慈悲の欠片もない言葉が投下され、据わった瞳で凝視されたために口を必死でつぐむ。彼の目は本気だった。それにツルハシをチラ見せするだなんて意地が悪い。そんなことされたら屈服するしかないのだ。
 わたしは学んだ。田噛さんに面倒をかける、それすなわち己の身が危険に晒される。そんな恐怖を学ばされたのだった……。
 しばらくして鎖から解放され、ホッと胸を撫で下ろしたあと、田噛さんが口を開いた。

「お前呪われてるんだったな」
「そうみたいですが……」
「なら託した」
「……!?」
「未練をなくしてやれば早々に一件落着。簡単な話だ」
「そ、そんなこと言って、本音はめんどうくさいんじゃ……」
「……」

 無言。肯定と捉えるのが吉だろう。どうしよう、どうしよう。田噛さん、こんなときまでだるいの一言で済ませようとするの。それにお祓いって、わたしにとって危ないのでは。
 本来お祓いというものは、悪霊だとか、そういう負の存在を清めるために行われるもののはず。その負の存在には、亡者も含まれる気がしてならない。半分ではあるけど、わたしも一応亡者だ。お祓いをしてもらったら、無になってしまうかも。
 助けを求めるようにして田噛さんを見つめてみたけど、華麗にスルー。いやだ。こんなときに限って平腹さんはいないし。こうまでも平腹さんに会いたいと思ったことは一度もなかった。

「時間の無駄だ。さっさと行け」
「ひぃ」
「……勘違いすんなよ。お前の呪いはどうせ解けやしねぇ」
「えっ? それならお祓いしてもらわなくても……!」
「祓ったつもりにさせりゃいいんだよ。気づけ」
「だって、だって」
「あーくそ面倒だな」

ドン、と背中を押されて無理矢理亡者の前に押し出された。ひどい。ガタガタと震える身体を縮こませながら、目の前の切なそうな神主を見上げる。

「ありがとうございます。では」

 持ち直された大麻おおぬさがしゃらんと揺れた。お祓いって痛いものではないはず。ただあの棒を振ってもらって、それで終わりなはず。だから痛みなんて感じることはない。そうは理解しつつも、なぜかわたしの胸には嫌な予感しかなかった。どうしてかは分からない。もしかしたら本能で察する何かがあるのかも。そしてこういうときの予感は、悲しいくらいに当たってしまうものなのであった。
 大麻を掲げた神主の目が、ギンッと見開かれたのだ。オドオドとした表情から一転、やる気に満ち満ちた狂気すらにじむそれに腰が引ける。これ、わたし本当に大丈夫なの。後ろを振り返ったら田噛さんはすでにわたしの方すら見ていなかった。階段に座って虚ろな目で宙を見上げている。こんなのって、ひどい。
 そうして後ろを見ていたら、「どこを見ている! 余所見をするなど舐めているのか!」と頭を叩かれて強制的に前を向かされたので、痛いしこわいしですすり泣いた。だれかたすけて。

「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄」
「……」
「舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是」
「……っい!? ひっ、いたいいたい!」

 神主は大麻を振る。そこはまあ許容範囲なのだけど、なぜか彼は突然それの先端でわたしの頬をぐりぐりしてきた。絆創膏を貼ってあるところ……つまり、平腹さんに噛まれたところである。当然わたしは獄卒さんたちとは違って、尋常じゃないほどの治癒力は持っていない。だから傷口にはまだかさぶたはできていないし、触れられれば痛みも感じるのだ。それなのに神主ときたら充血した目でそこをピンポイントで突いてくる。そしてその力がまたひどい。逃げるため後ずさりをしようと思ったけど腰は引けているし、冷えきった足がもつれて地面に尻もちをついた。それでも神主は頬を押すのを止めてはくれない。もはやのしかかられている体勢だ。こんなお祓い見たことないし、聞いたこともない。「ここから邪悪な念を感じる清めねば」神主はそう呟いたけど、傷には呪いなんてかけられていないのに。この神主がお祓いに失敗して死んでしまった理由が分かった気がした。知りたくなかったけど。
 地面に倒れたわたしの視界の端に、田噛さんが見える。それからもうひとつ、なにか大きな影が動いた───そう気がついた次の瞬間に、覆いかぶさっていた神主が消えて視界に広がる真っ黒な空。あまりに一瞬のできごとに、何が起こったのかを脳が瞬時に処理してくれなかった。
 ぐちゃ、という耳あたりのいいとは言えない奇妙な音がする。次いでゴリ、ガリ、と硬いものを擦り合わせたかのような音。なんだろう。じんと痛む頬を抑え、地面に触れていたせいですっかり冷えた背中をどうにかして曲げて上体を起こすと、音の発生源のところに平腹さんがいた。彼はスコップを構え、一心不乱に物体を殴打し、突きぬき、しまいには足で踏みにじっている。一体何をしているのか、平腹さんの足元に視線を移せば、そこには何やら赤黒い物体が。凝視した数秒後にようやくそれが先ほどの亡者であると把握し、途端にきもちわるくなった。亡者の残骸はやがてその姿を消したけど、平腹さんは気がついていないのか砂利をスコップでえぐり続ける。
 恐ろしいとは思いつつも、目の前で繰り広げられた光景から目を離せないでいると、やがて後ろでザリ、と小石を踏みしめる音がした。「平腹、そいつもう逝ってる」田噛さんの声だ。そこでようやく平腹さんはピタリと動きを止め、こちらを振り返り言う。

「マジだ! 気づかなかった!」

 満面の笑みを浮かべた平腹さんの顔にはべっとりと真っ赤な返り血が付着していて、そのアンバランスさが、たまらなくおぞましいと思った。