佐疫さんが「とりあえず、その人と合流するためには食堂に向かわないとね」と言ったので、わたしは言われるがままに後ろについていった。相変わらず綺麗に掃除されている廊下を歩き進みながら、今日も濃い一日だったなあと考える。ふと窓に視線を移動させれば、外はすっかり夕暮れに染まっていた。その様子を見て、いまさらだけどあの世にも時間という概念が存在していることを実感する。朝があって、お昼になって、夜がきて、眠ればまた朝がくる。こうしてみると、仕組みといった観点では現世とあまり大きな違いがあるようには思えない。
前を歩いていた佐疫さんの足が止まったので、衝突しないようにわたしも足を止める。それからキイという音がして、食道の扉が開かれた。「あやこ、連れてきたよ」あやこさん。そのひとが、このお屋敷の家政婦さんの名前みたいだ。
「お帰りなさいませ。指示の通りに準備は整っております」
「ああ、どうもありがとう。この子がなまえちゃんだよ」
「は、はじめまして!」
「お初にお目にかかります。あやこと申します」
あやこさんが深々と頭を下げたので、わたしも慌ててそれに見習った。動きのひとつひとつが洗練されている。これが家政婦さんの力。
自己紹介というものにはどうも慣れない。へんに緊張するし、気恥ずかしいし、むずむずする。頭を上げてからも落ち着かない心にそわそわしていると、佐疫さんは「じゃあ後は任せたからね」と言って食堂から出ていった。今朝お仕事に出ていたようだし、きっと忙しいのだろう。
「それではご案内致します」
着がえはお風呂に置いてあるとのことだったので、わたしは歩き始めたあやこさんの後ろをついていくことに。
鮮やかな青色の着物の上で、黒い髪が揺れている。色の映える組み合わせだと思った。歩くたびにさらさらとなびく様子は、普段から丁寧にお手入れをしているような印象を抱く。髪の毛を綺麗な状態に保つコツというものがあるのかな。目を奪われる美しさに、毛先の方から後頭部へゆるりと視線を動かしていけば、その先には口があった。それはそれは大きな口が、あったのである。ぎょっとして思わず唇を凝視していると、「ジロジロ見てんじゃないよ」という言葉がそこから発せられた。それにまた驚いて、とうとう歩いていた足が止まる。
「こ、こら、彼女はお客人ですよ」
「そんなに珍しいかい、この口が」
「も、申し訳ございません、なまえ様」
「人の顔みてそんな表情浮かべて、失礼だと思わないもんかね」
あやこさんがわたわたと後頭部の口を手で覆おうとしているけど、あまり意味を成していないみたい。な、なるほど。あの口は、あやこさんの意思とは別に存在しているものなんだ。でも、そうすると。確かにわたしの唖然とした顔は、とても失礼な態度だったに違いない。わたしだって、自分の顔を見た相手にそんな反応をされたらショックだから。
「す、すみません! あの、」
「まあいいさ、分かってる。現世にはいないんだろ? 私たちのような二口女は」
「すみません……」
「さ、こんな所で止まってる時間はないよ。とっくに夕方になっちまってる。さっさと風呂場に向かって、アンタのその汚れた服を洗濯させてくれ」
あやこさんとわたし、二人して廊下の真ん中に立ち尽くしていたけど、二口さん(さっき二口女、と言っていたので勝手ながらそう呼ばせてもらおうと思う)の言葉でハッとして、再び足を動かし始めた。これで会話は終了、かと思いきや「それはそうとして、肋角さんもまた七面倒なものを預かったもんだ」と続いた。七面倒、という単語に心が揺らぐけど、でも自分の力ではどうしようもない問題であることも事実。わたしは黙り込むしかなかった。
「人間ってのは愚かしい生き物だよ。感情なんてものを持ち合わせてるせいで衝動に流される。刹那的、あるいは継時的に、激情に毒されるんだ。正常な判断さえ不可能になるほどにねえ。……アンタはどうなんだい?」
「……よく分かりません。わたし、生きていたころのことをあまり覚えていないんです」
「大抵の亡者はそう言うよ。でもそんな変わった魂持ってる時点で、大方は予測はつくもんだよ。引きずり込まれた不運な人間ってさ」
「それは肋角さんもおっしゃっていました。誰かにやられたものだ、って……」
「魂に手を出そうと考える人間なんて、絶対ろくな奴じゃないだろうよ。せいぜい気をつけな」
「あ、ありがとうございます」
「アンタ、見たところ生者に手を出してはいないようだしね。そしたらまだ救いはあるってもんだよ」
そこまで話したところで、タイミングよく浴場に辿り着いたらしい。あやこさんが扉を開くと、あたたかな空気が肌に触れた。脱衣所も寒くないように、ほどよく室温調節されているみたいだ。風邪をひかないための配慮がすごく細かいところまでいきわたっている。すごい。それにお風呂も広い。わたしは途端に上機嫌になった。
「なまえ様、こちらがお着がえになります。今着ている洋服は、脱いだらこちらの籠に入れておいて下さい。後で私が回収に参りますので」
「ありがとうございます!……あ、あの、ところで、あやこさん」
「はい。いかがなさいましたか」
脱衣所から出ていきそうになったあやこさんを呼び止めると、彼女は静かにこちらに向き直り、こてんと首を傾げた。
会ったときから気になっていたのだ。あやこさんがわたしのことを“さま”付けで呼ぶことに。家政婦さんだからなのかもしれないけど、でもわたしは一時的にこのお屋敷に居候させてもらっている、生前は女子高生をやっていた一小娘にすぎない。平腹さんたちのように亡者と戦えるわけでもなければ、自分の問題解決のために何かできるわけでもない、いわばこのお屋敷のカーストでは最下位に堂々位置する存在なのである。そんな人間にうやうやしい敬称なんて、つけるに値しない。わたしなんかに使うべきものではない。ということを一気に伝えると、あやこさんは「では、なんとお呼びいたしましょう」と問うてきた。た、確かに…。個人的には、こんな状態になってから初めてお話することができる唯一の同性なので、もっと親しみのあるような呼び方がいいなあ、と思っている。だけど、それこそ半亡者の分際で、となるかもしれない。しっかりするんだ。獄卒という存在と、わたしのような亡者という存在は、相いれない立場であることを先ほど廃神社で身をもって体験したのだから。そのことを念頭に置いておかなければ。
気持ちを押し殺して、じゃあ一体どういう風に呼んでもらおうかな、と考えていたら、あやこさんが口を開いた。
「……なまえ、さん」
「!」
「……と、お呼びしてもよろしいでしょうか」
「は、はい、ぜひそっちでお願いします」
よかった。これで少しは肩が軽くなる。わたしはホッと胸を撫でおろした。
引き止めてしまった目的も果たしたことだし、あやこさんも脱衣所から出ていくことだろう。と思ったけど、彼女はまだ出ていこうとするそぶりをみせなかった。頭の中にたくさんの疑問符を浮かべていれば、「そういや、アンタ」と二口さんが話し始める。
「それ、今着てる服。制服だよな?」
「?……そうですね、制服です。きっと通ってた高校のかも。どうかしましたか?」
「いや、若いのにぽっくり死んで気の毒だと思っただけさ。まだやりたいこととかあっただろうにね」
「……やりたい、こと」
「とりあえず、洗濯は私たちに任せな。新品同様にして明日渡してやるよ」
そこまで言うと、あやこさんはゆっくりと脱衣所から出ていった。
静かになった空間で、脳内では二口さんの言葉が何度も何度も再生される。やりたいこと。生きていたころわたしにも、やりたいことって、あったのかなあ。思い出そうにも、やっぱり記憶には靄がかかっているようで、どうしたって叶いそうになかった。