兆す

 病院から帰ると、平腹さんが「部屋に行こうぜ」と言ったので、なぜかわたしも同伴することになった。そうは言っても特にやることもないし、断る理由もなかったから、わたしは二つ返事で彼についていく。このあと何が起こるのかも知らずに。

「薬って言う割には毒々しい色してるよなー。まあ抹本が調合したやつだし、そんなもんか」

 病院で先生から処方してもらった薬の入った小瓶を眺めながら平腹さんは言う。まつもとさん? 初めて聞く名前だ。口ぶりからするに獄卒さんなのだろうか。
確かに緑色の薬なんて初めて見たけど、たぶん大丈夫だろう……たぶん……。「薬塗る?」平腹さんは小瓶を掲げながらそう言った。もちろんだ。傷を治すためにいただいた薬なのだから。そうしている合間も首はヒリヒリと自発痛を持っている。一刻も早く薬を塗って治したかった。

「平腹さん、お薬貸してください」
「やだ」
「ありがとうございま……ええっ!? な、なんでですか!」
「薬塗る前にさァ、ちょっとこっち来てよ」
「え、え、どうして」
「いいから」
「……痛いことしないですよね?」
「そんなことしねーよ」

 疑心暗鬼になりながらもベッドに腰掛けている平腹さんの元へ近づくと、隣をポンポンと叩かれる。……座れということなのかな。わたしは言われた通り隣に腰かけた。ギシ、と二人分の重みをささえるベッドが軋む音がした。

「どうしたんですか?」

 訊ねようと口を開くと、首の傷に貼られていたガーゼを剥がされる。テープが皮膚から剥がされるときにぴりっとした痛みが首筋に走った。そして嫌な予感が脳裏をよぎる。

「ど、どうしてガーゼを剥がしたんですか……?」
「薬塗ろうと思って」
「……え、わたし、自分で塗れ───っ!?」

 ます、と言葉を続けようと思ったけど、不意に平腹さんの顔が近づいてきて、傷口に生温かいなにかが触れる。言うまでもない、平腹さんの舌だった。驚きと激痛に襲われ本能的に逃げようと体が動くけど、後頭部と背中を固定され、脱出は不可能に終わる。「んいっ、い、った、いたいです!」悲鳴のような声がわたしの口から溢れるけど、平腹さんは知らぬ顔でひたすら舌を這わせられて、わたしは泣きたくなった。というよりすでに泣いていた。「ひっ、う、ひらはらさん! いたいですってばあ!」両腕で厚い胸板を押そうと試みるも、それ以上の力で押さえつけられて徒労に終わる。平腹さんの嘘つき! 痛いことしないって言ったのに! その間もぐりぐりと舌先で傷口を抉られる。本当容赦のないひとだ! 再び逃げようと試みるも、やっぱり無理だった。それどころかベッドの上に倒れる羽目に。背中にシーツの柔らかさが触れる。そしていつのまにか両腕をまとめ上げられている。これは一体どういう状況なのだろう。

「っい、っうぅ……」
「痛い? 沁みる?」
「痛いですし沁みてます!」
「そっか」
「……っだ、だからどうして舐めるんですかあ……!」

 平腹さんは何も言わずにひたすら傷口を舐めてくださっている。やめてほしい。試しに暴れてみようと思ったけど、まとめ上げられた腕はなんとも容易に押さえつけられた。平腹さんに力で敵いっこないのは重々承知していたけど、痛いのはご免だった。

「ひ、っひ、ひらはらさん、お、おねがいだから、やめて……」

 痛みのあまり、とうとうボロボロと目から伝う涙。平腹さんはそれに気がついたのか、傷口を舐めるのをやめわたしの目を見つめる。「や、やめてください、おねがいですから……」しゃくり上げながらそう言うと、平腹さんの顔が近づく。また痛いことをされるのかと両目を固く瞑ると、瞼に温かく柔らかな感触。今のは……? 恐る恐る目を開けると、今度はわたしの唇と平腹さんの唇がくっついていた。唇と唇が。なぜかわたしは平腹さんにキスされていた。

「……ッん!?」

 びっくりして抗議の声をあげようと口を開くと、待ってましたと言わんばかりに舌が入ってくる。歯列をなぞられ、上顎を舐め上げられ、好きなように口内を蹂躙されると、酸欠で頭がボーッとしてきた。「んっ、んあ、ふぁ、っ!?」しかし鋭利な歯で舌を噛まれ、鉄の味がする。図らずとも意識が引き戻された。ついでに唇も離れる。

「いひゃい……!」
「わり、噛んじゃった」

 悪いなんてちっとも思っていないような口ぶりで言われる。「なんでこんなことするんですか……!」と思わず抗議の声をあげると、平腹さんは瞬きををひとつ、ふたつ。

「なんでって、なまえのことが好きだから」

 平腹さんはあっけらかんとそう言った。すき。平腹さんがわたしを? 好き?

「わ、わたしのことが好きなんですか!?」
「おう」
「……それなら、どうして痛いことばっかりするんですか……」
「痛くて泣いてるなまえ見てっと興奮するからさァ」
「え……」
「けど好きなのはマジ。だからキスした」
「……!」
なまえはオレのことどう思ってるの?」
「……それ、は……」

 平腹さんには助けてもらった恩がある。あのとき、電車に撥ねられなかったのは何を隠そう平腹さんのおかげだ。それに、彼の温もりを恋しいと思ったのもまた事実。……わたしは、平腹さんのことが好き、なのだろうか。わからない。

「……嫌いでは、ないです。ぜったいに」
「じゃあ好きってこと?」
「……そ、そうなるんでしょうか…?」

 よくわからない、と答えると平腹さんはさんは「わかんねえってことはないだろ? 自分のことなのに」と、ちょっといじけたような様子でそう言った。だからこそ、わたしの思っていることを率直に言って伝えようと思った。

「……平腹さんがわたしを線路からホームに引き上げてくださったときとか、そのあと抱きしめてもらったときとか、平腹さんと触れ合っていたときに、どこか安心する自分がいたのはたしかです」

 鮮明に思い出せる先刻のこと。平腹さんがわたしを助けてくださったことを思い出しながら言葉を続ける。「そのとき、離れるのが寂しいって、思って、それで……」すると、話し終える前に、平腹さんがぐいっとわたしの腕を引っ張り、ぎゅうっと抱きしめてきた。厚い胸板に頬が押し付けられる。力が強過ぎて思わず「うっ」と声が出た。「く、くるじい……ぐるじいです平腹しゃん……」そう伝えても力は一向に弱まらない。

「今は?」
「え、う、うーんと……」

 温かな体温はたしかにわたしの鎮静作用をもたらすみたいだ。どこか安心感を得ている自分がいる。「やっぱり、落ち着きます……」でも、平腹さんはこわいひとだって思ってたのに、助けてもらった恩でころっと好きになるなんて単純すぎるし、なにより尻軽なんて思われるのは嫌だった。
 平腹さんは「オレは好き」と言うとわたしを腕の中から解放し、両肩を掴んできた。そして真っ向から向き合いながら追い討ちをかけるように「オレはなまえのこと好き。超好き」と言ってきた。

「……あ、あう……」

 面と向かって見つめあいながら好きだと言われる。これはいったいどんな羞恥プレイだ。真っ直ぐに目を見つめてくる平腹さんは好きだと繰り返す。好きって何だっけ? とゲシュタルト崩壊するくらいに何度も何度も。

「は、はずかしいです……もうやめませんか……」
「なんで恥ずかしいの? 本当のことなのに」
「……そういえば、なんででしょう?」
「……オレのこと嫌いだったら何にも思わないし感じないと思うけどなー」
「た、たしかに……。それは一理あるかもしれませんね……」
「だろ? じゃあなまえはオレのことが好きってことだよな」

 見るからに嬉しそうな表情を浮かべる平腹さんを、どこかかわいいと思う自分がいた。いつもこんなに純粋で怖くない笑顔だったらいいのになあ、なんて考えながら。

「……えっと、ひとまずお薬を貸してください」

 いよいよ薬を塗ろうとそう頼むと、平腹さんは「薬使わなくても舐めときゃ治ると思うんだけど!」と言う。その瞬間、わたしは嫌な予感がした。「ひ、平腹さん。やめ───」なんて、言葉を続ける前に、再びベッドの上に横たえられ、傷痕にキスされた。舐めるよりはましだけど、と思っていた束の間、ぶつっと鋭利な何かが表皮を突き破り体内に侵入してくる感覚。「いっつ、いたい、いたいです!」また噛まれた! 平腹さんは噛むのが好きすぎる! 次いでぬるりとした舌が肌を這い、噛まれて血が出ているであろう部位を丹念に舐めてくださっている。
 舐めるなら噛まなければいいのに。やっぱりわたしは平腹さんのことを“好き”ではないのではないかと思った瞬間であった。
 ポケットに絆創膏が入っていてよかったあ。