緩やかに離れていく


「……なまえ?」

 それからは目まぐるしい毎日だった。休む暇なんてない。次から次へと傷つき狂い始めている患者を世話する仕事に追われて、こっちまで頭がおかしくなりそうだ。
 またリチャード医師に呼び出しを受け、廊下を早歩きしていると、目に入るのはうめき声をあげる患者。一人になんてかわいいものじゃない。何人も、何十人もいる。目を覆いたくなる異様な光景だった。唇を噛みしめながら、わたしは決心していた。リチャード医師に、本当は何が起こっているのか問いつめようと。
そう考えていた矢先にかけられたのは懐かしい声で、でもそれはおかしい事態でもある。なぜならここは精神病院であり、わたしの記憶では彼は健常人なのだから。

「お、やっぱりなまえだよな」
「……ビ、ビリー…どうしてここに? なにか病気でも?」
「まさか! 俺はいたって健康だよ。ピンピンしてる。なまえだって知ってるだろ? 俺が昔っから風邪もひかない奴だってさ」
「……それは知ってる、けど」

 幼いころの面影が残る笑顔は、とても懐かしくてこんな現状で荒んだわたしの心を温めてくれる効果があった。だが安心ばかりはしていられない。なぜビリーがここにいるのだろう。正直嫌な予感しかしなかった。

「なんでここにいるの?」
「……金が必要なんだ、母さんのために。心配すんな。簡単な実験だから大丈夫さ」
「……実験? 実験って、一体なんの───」

 不穏な単語に抱くのは不安だけ。
───実験。もしかしたらその実験とやらが、最近の異常事態に関係しているのかもしれない。そう思って詳しく聞こうと思ったけど、再度院内放送がかかって呼び出された。思わず舌打ちをする。あのリチャード医師だから、なおさら不愉快だ。これが彼の計算の内のような気さえする。だがあまり待たせてもネチネチと愚痴をもらされ、最悪彼のサポートに回される可能性があるので、仕方ないがここは大人しく彼のもとへ向かうしかない。

「ビリー、わたしが言うのもなんだけど、この病院最近おかしいの。お願いだから実験なんて受けないで、帰ってほしい」

 わたしは早口にそう言って、リチャード医師のところへ急いだ。

▽▲

「一体なにが起こっているんですか」

 患者の皮膚を縫合しながらわたしは訊ねた。先ほどビリーの言っていた実験とやらの説明を聞きたかったのだ。「口より先に手を動かしたまえ」そう言ってはろくに話を聞いてくれない様子にイライラする。はがれ落ちた皮膚を縫おうにも、糸に引っ張られてそこからさらに破けてしまうので意味なんてないのだ。
わたしが施術をするときにはすでに何重にも肌と肌を縫い合わされていた形跡があったが、それはお世辞にも上手とは言えない出来栄え。いや、違う。きれいに縫い合わせようとしても、できないのだろう。縫合するには肌が脆くなりすぎていた。
 この人はなにを隠している? 患者の目はひどく充血しているし、瞳孔も散大し始めていた。きっと長くない命だ。それはリチャード医師もわかっているはずなのに。必死の形相で針と糸を患者の肌に通す様子は、まるでここの患者たちに何かを求めているかのようで。

「この世には知らぬ方が良い事もあるんだよ。聡い君なら解るだろう? なまえ君」

 患者の皮膚がまた剥がれ、黄ばんだ床に落ちた。