狡猾の手引き


 欠けてしまった視界に、いよいよ絶体絶命だと思った。
 鼻歌混じりでわたしの左目を縫い合わせるリチャード医師は、それはそれは楽しそうなご様子で、もはや憎しみすら感じない。顔の左半分が糸で引っ張られる感覚に違和感はぬぐえず、思わず眉根を寄せる。絶望的な状況下に置かれているというのに、どこか他人事のように捉えている自分がいた。脱力感がひどく、思考もろくに回らないのだ。ガクリと項垂れた頭が重い。まるで自分が自分ではないようだった。
 ジャキン、ジャキン。リチャード医師愛用の鋏の音が聴こえる。血に濡れた膝しか見えていなかったわたしの視界は、彼によって上を向かされた。目の前の男の瞳に映る自分の表情は虚ろで、死んでいるみたい。

「もう片方も奪ってしまおう」

 ぺちぺちと大きな鋏で頬を叩かれる。……両目が潰されたらどうなってしまうのだろう。何も見えない、闇の中で生きていくなんて考えたこともなかった。そんな境遇になるくらいなら、殺してほしい。だがそう懇願する気力すら微塵もわかないのである。意識だけどこかに飛んで行ってしまったように、わたしには現状が客観的に見えていた。
 ジャキン。刃先が右瞼にあてられる。金属の冷たさを肌に感じて、そしてそれが少しずつ、肌に押し当てられて、刃先がグッとめり込んだ。
 冷静にその様子を見つめるわたしを支配しているのは諦めだけ。こんな病院に勤めた時点で、わたしの人生の歯車は狂い始めていたのだ。
 必死に勉強して念願の医療職に就くことができて、病院で働くことができて、その結果がこれだ。こんな最期になるだなんて、考えたこともなかった。
 上下の瞼をピタリと合わせれば、多忙ながらもそれなりに充実していた日々を思い出す。両目を奪われてしまう前に、最後の景色を堪能した方がいいのだろうか。
───いや、やめておこう。目を開ければどうせ目の前には、気色悪い笑みを浮かべた彼しかいないのだから。
 次の瞬間に襲いくるはずの痛みを覚悟した。しかし視界を消し去った直後に鈍い音がして、リチャード医師のうめき声と同時に両腕の拘束が荒々しく解かれる。予測しなかった事態に弾かれたように目を開くと、床にはリチャード医師が倒れていて目を白黒させていた。どうやら彼にも考えもしなかったことが起こったらしい。手を添えられている頬は赤く腫れてきており、誰かに殴られたのは一目瞭然だった。

「……一体何が起こったというんだ?」

 リチャード医師は意識ここにあらずといった様子で、ボソボソと独り言をこぼしている。固定されていた両腕が自由になった今、わたしは逃げられる状況ではあったが、何が起こったのか理解できない内は下手に動かない方がいいのだろうか。
 判断できないまま挙動不審に部屋にあちこちに視線を巡らせてみても、ここにはわたしとリチャード医師の姿しか見えない。彼の演技にしてはリアリティーがありすぎた。

「そうか、居るんだな?……だが、一体なぜ……」
「……いる?」

 この部屋には、わたしとリチャード医師の二人だけ、ではないのだろうか。少なくとも自分はそう思っていた。だが彼の今の発言を聞くに、それは誤った認識なのかもしれない。
 思わず口から出た言葉に、視線を彷徨わせていたリチャード医師がこちらに顔を向ける。

「……、解ったぞ。なまえ君はコレにお気に召されたということか。……被検体の関係なのか?……そういえばビリーという人間と君は、確か───」

 一人納得した様子で頭を頷かせるリチャード医師は、喉の奥をクツクツと鳴らした。「実に興味深いな」ギョロリとした目に捕らわれる。なにかを探られるような、観察されるような目に、全身に鳥肌が立つ。勢いよく立ち上がったリチャード医師がこちらに向かって突進してくるのが恐ろしくて、わたしは椅子を倒すほど慌てて彼から距離をとった。しかし体格の差から、伸びてくる腕から逃げるのは不可能だ、捕まる!

「……ッぐ!」
「……えっ?」

 次はわたしが目を白黒させた。襟元を掴まれそうになったとき、リチャード医師が後退したのだ。不自然な動きで、もがくような動きを見せながら、ずるずると地面に引きずられて離れていく。目を疑う光景に思い出したのは、彼の先ほどの言葉だ。
 リチャード医師はこの部屋に、わたしたち以外の何かが存在すると言っていた。……それが、彼を引きずっているやつなのかもしれない。姿を確認できないということは、透明?
 考えあぐねていると、リチャード医師は大声で理解できない言葉を叫びながら部屋から引きずり出されて、どこかへと連れて行かれてしまった。……これは、助かったと解釈してもいいのだろうか。扉から廊下を覗いてみても、彼の姿はどこにも見えない。逃げるなら今がチャンスだ。
 腕に刺された輸血用の針を乱暴に引き抜いて床に投げ捨てる。血が足りないのか足元がおぼつかないけど、今は一刻を争う事態なのだ。
 わたしは揺れる世界のなか地下に向かった。