ふらふら、ぐらぐら、何度も壁にぶつかる。距離感がおかしくなっているのか。もしかしたら血も足りていないのかもしれない。吐き気がする。でも大丈夫だ、まだ右目がある。わたしは生きているから、ビリーも同僚も、きっと助けられる。……まだ、大丈夫。
普段の何倍も身体が、足が、重くて敵わない。煩わしい。頭では分かっているのに。なんで動いてくれないの、早くしないと、ビリーと一緒に、一刻も早くここから脱出するんだ。
壁に体重を預けてただひたすら、無理矢理足を動かす。息は乱れるし脂汗が止まらない。視界までぼんやりしてきた。こうなってしまったのは全てアイツの、リチャードのせいだ。元から変な奴だとは思っていたが、まさかここまで狂っているとは知りたくもなかった。……なんで気がつけなかったのだろう、なんて後悔してももう遅い。過去のわたしは余程の馬鹿だったらしい。
ギリっと唇を噛み締めれば、顎を伝って裂けたところから液体が流れ落ちる。不快感に眉を顰めると目の前に広がる世界がぶれて尻もちをついた。鈍い身体では反射がままならない。そのまま重力に従って頭も床に打ち付けて、脳味噌が揺さぶられる感覚。
「ッすまない!!」
チカチカする視界で何が起こったのか瞬時には理解できなかったが、ゼイゼイと息を荒げた人物が焦ったようにそう言った。声からして男。果たして彼は正常な人間なのだろうか。ぶつかって謝罪をする程の自我は保っているようだが、もうなにを信じればいいのか分らない。逃げようにも身体が動かない。
「……その服、ここで働いていたのか。それに酷い傷だ……立てるか?」
返事をする前に腕を掴まれて立たされた。重症な人間にやるとは思えない荒々しい動きで頭がぐわんと揺れる。何度か瞬きをすると漸く周囲を確認できるくらいには視力が戻ってきた。相変わらずぼやけは治らないが、今はそんなことを気にしていられない。
この男は誰だ。
「まだまともな人間がいたとは……君は、ここで何を? 下は危険だ」
「……貴方は実験の関係者?」
「……俺もここで働いていた。君と同じだよ」
「一緒にしないで……! あんな、あんな狂った奴らなんかと、一緒に、」
「っ大きな声を出したら見つかる! 頼む、落ち着いて」
「……」
「確かに俺はここで働いていたが……でも決して自分の意志で協力していた訳じゃない。実はメールで外部に情報を漏らしたんだが、それがバレて今まで監禁されていたんだ…その間にこの有様だよ」
「……メール? もしかして、あの送信済みの」
「君も見たのか。証拠隠滅をもっとしていれば、こんなことには……」
唇を噛み締め、目の前の男性は悔しそうな様子でそう言った。
「それで、話を戻すが。君はどこに向かっているんだ? この先は地下に続く道しかない」
「助けに行かなきゃいけない。待っているひとが、いるから」
「誰かを助けに?……無理だと思うよ」
「無理じゃない」
「いいや、無理だ。俺は下から来たが、誰も生きてない……生きていられるはずがない。片っ端から殺されてるからな」
「やめて! むりじゃない、むりじゃない……!」
「……」
「ビリー、が、待ってるからそこを、どいて」
「……ビリー?」
一向に道を開けてくれる気配のない男の横を通りすぎる。「待ってくれ」腕を掴まれて阻止されたが、軽く振り払えば存外簡単に振りほどけたので、わたしは無視して歩き続ける。背中に突き刺さる視線に気が付かないふりをして。
まずは同僚と落ち合う場所に向かおう。そしてそこにまだ彼女がいなければ、もしかしたら既に……。そうなってしまったら、せめてビリーだけでも。
あのときわたしがもっと強く、彼を説得できていればこんなことにはならなかったのだ。彼がああいう風になってしまったのは、わたしのせいだ。わたしが、わたしが行かないと。