ロケット団。現在はジョウト地方を拠点に活動している犯罪組織である。サカキを筆頭に世界征服を目論み、野望のためならば手段を問わず任務を遂行する厄介なマフィア軍団。泣く子も黙るロケット団というスローガンの通りに悪行の限りを尽くし、反抗するものを徹底的に排除する。窃盗や殺人は日常茶飯事のことである。もともとはカントー地方にアジトを置いていたが、ある少年の手によって壊滅させられジョウト地方へ移動したのだ。アジトの壊滅後、ロケット団は解散を余儀なくされたと思われたが、実のところはひっそりと水面下で動いていただけだった。そして行方知れずになったサカキを迎えるべく、再結成に至るまで費やされた期間はおよそ三年。過去の栄光を取り戻すため、団員は皆躍起になっていた。
基本的に善意を容認しない団員で構成されているロケット団は、弊害を除去するために暴力でものを言わせることも多い。そのため、団員には折り畳み式のナイフが支給されている。それを使用して相手を恫喝するも刺殺するも、総べて各々が自由に選択できた。
そんな倫理観に欠ける軍団に所属しているひとりの少女──なまえは、チョウジタウンの地下にあるアジトにいた。どこか落ち着かない様相でナイフの刃先を出したり収納したりしている。なまえはしたっぱで、所持するポケモンもコラッタのみだった。ポケモンバトルが下手なことに加え、犯罪組織に属しているにもかかわらず任務遂行中に立ちはだかるものが現れても暴力を振るうこともない──正しくは振るえないと表した方が適切である──まさしく悪人とは形容しがたい人間である。
なまえは廊下に配置されていた。どうやらふたりの侵入者がいるらしいのだ。ひとりは少年、もうひとりは青年。ロケット団の野望を食い止めようとしている輩であろう。ポケモンギアでそのことが伝えられたとき、妙な胸騒ぎが襲いかかった。侵入者の報告をしていたはずの通話がどういうわけか途中で切断されてしまったため、一体どのような人物が敵地のど真ん中にきたのかは把握できていない。強制終了されてしまったそれに、ざわざわと嫌な感覚に支配されるほかないのである。
なまえは心を落ち着かせるためにモンスターボールを取り出し、なかに入っているコラッタを見つめる。視線が絡んだ。たったそれだけのことなのにコラッタが微笑むので、なまえも思わず笑顔を浮かべる。この子がいればきっと大丈夫だ。なにもかもがうまくいく。今までのように絶対に大丈夫。まるで言い聞かせるように何度も心のなかで繰り返し、うなずく。
それにしたってアジトの正面から突っ込んでくるだなんて、相手には相当な自信があるように思える。なまえは一抹の不安を覚えた。バトルが苦手なことは自覚しているし、かと言ってナイフを使用する勇気もなかったからである。最悪の場合、コラッタだけでも逃げさせることができればいい。そう思考を巡らせてモンスターボールを腰のベルトに戻そうとしたとき。
「はかいこうせん」
実直で芯の通った男の声が鼓膜を震わせた。かと思いきや熱い光線が頬を掠め、生ぬるい液体が頬を伝う感触がある。口もとまで流れてきたそれが口唇の隙間から口腔内に入り、舌に触れると鉄の味がした。どうやら頬の皮膚が焼き切れたようである。恐ろしい風圧のはかいこうせんはなまえの制帽までもを巻き上げ、静かに地面へ落下する。途端に鼓動が加速し、顔が青褪めた。
ポケモンの技を人間に繰り出すことはれっきとした犯罪行為である。それは一般常識であるはずなのに、眼前の男──ポケモンリーグの頂点に君臨しているはずのあのワタルが飄々としでかしたことに驚愕した。
「ここは君ひとりか」
淡々とそう言い放ったその存在感は、なまえにとってあまりに威圧感を覚えるものだった。この状況は非常によろしくない展開である。バトルで足止めをするだなんて夢のまた夢だろう。ワタルの隣に佇むカイリューは自信に満ちた面持ちをしているし、誰がどう見たって鍛錬を積み育てあげられているのがわかる。なまえがちらりとモンスターボールを確認すると、コラッタはかわいそうなほどに震えていた。ボールを隔てていても伝わってくる振動に胸が痛む。
であれば、選択肢はひとつだけだ。
「ポケモンを出さなくていいのかい」
余裕綽々な態度。なまえは足が震えていたが、胸中で己を鼓舞し、ワタルを睨めつけた。
「……コラッタちゃん。アテナさまに報告してきて」
モンスターボールからコラッタを出して語りかけるように言えば、心配そうな丸い瞳にじっと見つめられる。
侵入者がチャンピオンだなんて誰もが予想だにしないことであろう。そのため、まずは状況の報告が必要だと思ったのだ。そうすればワタルがアテナのもとへたどり着くまでに作戦を練ったり対応策を考えたりすることができるからである。突破されることが前提の判断であるが、要はもしものときのための準備を整える時間稼ぎだ。
バトルをせずとも、この男を一時的に足止めすることは不可能な話ではないはず。それこそ折り畳み式のナイフを使用するいい機会ではないか。なまえは胸の内でそう言い聞かせ、コラッタのことを見つめ返した。するとその思惑が伝わったようで、コラッタが走り出す。途中で何度もなまえの方を振り返ったり不安そうな鳴き声を上げられたりしたので、その優しさに心がじんとする。
「……バトルを放棄する、と解釈していいのかな」
「そういうことです。ポケモンを持たないトレーナーに一方的に攻撃をしかけるなんてこと、あるわけないですよね?……リーグのチャンピオンさまなら、なおさら」
「………………」
ポケモンを持たずとも、先のはかいこうせんの一件を考慮すればその言い分は難しい気がしたものの、それでもそう口にするしかなかった。なまえは内心の恐怖を悟られないように挑発する。するとワタルは怪訝そうに片方の眉を上げ、カイリューをモンスターボールに戻した。どうやらうまくことが運んだらしい。
だが、まさかあのチャンピオンが直々にアジトに乗り込んでくるだなんてなまえ自身も思いもしなかった。せいぜいいっぱしの正義感にあふれた、そんじょそこらにいるようなトレーナーだとばかり予測していたからである。
フスベシティ出身の聖なるドラゴン使い。ワタルの経歴は有名なもので、ジョウト以外の地方で生活しているものにも認知されているほどだ。言うまでもなく、なまえも一般的な範疇での彼の知識を有している。まさしく王者の風格をびりびりと肌で感じ、やはり足が震えてしかたがない。はかいこうせんが直撃していたらただでは済まなかったはず。否、わざと当たらないように指示したのであろう。恐らくは情報収集のため。ロケット団の内情について把握したいに違いないのだ。ただ、それでも生命の危機に瀕するような痛手を負わなかったことにはひそかに安堵していた。あるいはこれから痛めつけられるのかもしれないが、おとなしく情報を与えるつもりも毛頭ない。
「さっきのコラッタ、随分と君に懐いているようだね」
「ふふん、そうでしょう!……って違う! えっと……そう、足止めをする方法はなにもバトルに限ったことじゃない」
「それで?」
ワタルはどこまでも淡々としている。悪を決して許さないという信念が感ぜられた。なまえは加速する鼓動に不安を覚えながらも、彼にも見えるようにナイフを取り出す。天井の照明でぎらりと反射する刃にどこかざわざわした。その感覚の説明がつかない。ナイフで恫喝すればいいだけなのに、言いようのない感情に支配されるのだ。
目下するべきことは、ワタルを先に進ませないこと。たとえ一時しのぎにしかならなくとも、彼をこの場に留まらせることに意味がある。それだけは確かである。
なまえはこれから取る行動の一連を脳内で思い描く。今まで命じられてきたどの任務よりも緊張していた。分が悪すぎるからだ。なまえもそのことは痛いほど理解している。それでもロケット団のために、ロケット団のためだけに行動しなければ。ここだけが己の居場所であるからだ。ロケット団はなまえの総べてであり、命よりも大切なものである。ずっとそう言われてきた。だからこそ。
なまえは地面を強く蹴り上げると、ワタルとの距離を一気に縮め、懐に入る。バトルでの勝算はないに等しいが、ナイフがあれば別の話だ。心臓に狙いを定めて寸前で止める。そして「諦めて帰って」と凛とした態度で言った。ロケット団に逆らう煩わしい存在でも、それくらいの情けはかけてやるつもりだった。緊張のみにならない不安定な感情を抱いていたおかげかその声は震えていたが、そんなことを気にしていられるほどの余裕もない。
「刺さないのか?」
「え」
「いや……違うな」
しかしながら、ワタルは一切の動揺もしなかった。なまえの脅迫がまるで効いていないのである。加えてその双眸が、なまえの眼には極めて凶悪に映った。燃え上がる底知れぬ情意に、思わず固唾を呑む。睥睨とは異なる、なにか探りを入れるかのような鋭利な眼光。
眼前の男にただただ恐怖を抱いた。
気がつけば、ナイフを握っているなまえの手に一回り大きなワタルのそれが被さっている。手袋越しに表皮から伝導する体温がやけに生々しく、思わず「ひっ」という引き攣った声が喉奥から出た。手を引こうにも骨が軋むほどに握りしめられ叶わない。必死に距離を取ろうとするも、反対の腕が腰に回されてしまい身動きまでもが取れなくなってしまった。まったくもって訳がわからなかった。ワタルの意図が読めないのだ。反撃するつもりとも違う、なにか別の思惑があるように窺えてしかたがない。
「何故だ? 悪の組織に身を置く人間が懐かれるなんて、妙な話にもほどがある」
「っ、は、離して!」
「……君はポケモンを大切に思っているようだね」
「知った風な口を利かないで」
「今まで数々のトレーナーを相手にしてきたんだ。眼を見たら全部わかる」
「じゃあそういうことでいいです……っだから、離してよ!」
ワタルの力は弱まる兆しを見せない。なまえは全力で暴れるが、やはりそれをさらに上回る力で押さえつけられ、意味を成すことはない。「逃げたいのなら刺せばいい」その言葉はもっともなものだったが、なまえは硬直した。途端に冷や汗が噴き出し、背筋を伝う。
「そう、逃げたいのなら刺せばいいんだ。俺の身体を、このナイフで。簡単な話だろう。なあ? それで総べてが明らかになる。でもできないよ。君にはできないさ」
なにもかもを見透かしたようなワタルに、なまえは臆した。彼は己のなにを知っている? 初対面のはずなのに、まるで本質を捉えているかのような言動がただただ恐ろしく、言葉を発することができない。
至近距離で睥睨しあい数秒ほど経過したのち、なまえはワタルの胸元に宛がっていたナイフを下ろそうとした。突き立てる勇気がないことを悟ったのだ。それはきっと英断とは言えないのであろうが、今のなまえはそうするほかなかった。しかし、そうなるとここを突破されてしまうことは確実だ。ゆえに、あとの問題はアテナに託すことになる。追い払えないことに押しつぶされそうな罪悪感を抱きつつも、時間稼ぎはできたはず。今ごろはコラッタがアテナのもとへ行き現状を伝えているはずだからである。
なまえの手は面白いほどにかたかたと震えている。そう、手を下ろそうとした。だが、ワタルはそれすらも許容してくれなかった。そのことがまた理解不能で、頭が混乱する。
「わ、わたしには、刺せないってわかったでしょう。だから離し──」
恐怖のあまり声まで震えている。なまえがそう口を開くと、ワタルがやわらかく笑った。それにどうしようもなく戦慄が走る。ぴしりと硬直する身体。嫌な予感がしたその次の瞬間、手に持っているナイフがワタルの肩に刺さった。ずぶ、ずぶり、と鈍色に輝く刃が、容赦なく埋め込まれていく。「ひっ、な、なにして……!」皮膚を突き破り筋層まで達するその感触が神経系に伝導し、脳内に警鐘が鳴り響いた。この男はなにかがおかしい。そう思わずにはいられない。全力で手を離そうとするもやはり許してもらえず、それどころか余計に深く突き刺さり、藍色の服に赤黒い染みが広がるのを目視した。
「……ッさすがに、痛いな」
そんなの当たり前だった! なまえは呆然とワタルのことを凝視するしかない。
理解しがたい行動。果たしてみずから己の身体に刃物を突き立てて得られるものとは? まったくもって予想だにつかない展開になまえは泣き喚きたかった。
「君に悪役は向いてない」
そう断言して近くでかち合うワタルの眼差しは、実際の悪であるなまえよりもよっぽど悪の色を帯びている。どろどろ濁った双眸はどこかいびつで普通ではない。ワタルは己とは違う、正義という存在のはずなのに! 認識を覆す姿に息を呑んだ。ただただアテナの救援を待つことしかできないなまえは、ワタルという人間に関して持っている知識はどうにも思っていたものとは差異があるようだと考えざるを得なかったのだ。