いわば溟渤のごとく

 なまえは眼を疑った。アテナが敗北を喫したからである。
 先ほどなまえの手ごと己の身体にナイフを突き立てたワタルは、後方から名を呼び駆け寄ってきた少年の方を振り向いた。どうやらもうひとりの侵入者が現れたらしい。少年がやけに距離の近いふたりのその光景に疑問を抱きつつ「おれがバトルしますよ」とモンスターボールを取り出しながら言うと、どういうわけかワタルにやんわりと否定されていた。バトルをすることすら時間の無駄であると暗に言われた気がしたなまえは、思わず閉口する。実際敵う相手ではないのは重々承知していたが、あまりにも無力だと思ったのだ。ふがいなさを痛感して口を引き結ぶ。
 ただ、ワタルだけでも対応できないというのに、この状況下に少年までもが加わってしまえば、一体どんな恐ろしい目に遭ってしまうというのか。なまえは震えることしかできなかった。たとえ悪事に手を染めていなくとも、ロケット団に所属している以上はなまえも犯罪者に含まれる。ジュンサーに引き渡される覚悟はずっと昔から持っていたが、眼前にいる狂気の滲んだ双眸をしているワタルが、どうにもそれだけで済ませるとも思えないのだ。そうして命の危機を感じていたとき、アテナとひとりのしたっぱが救援に現れたのである。ふたりを先導するように歩いてきたコラッタは、なまえがワタルに囚われているのを目撃して威嚇する。しかしそれはかわいいもので、大した牽制にはならなかった。
 それでも、なまえはアテナに言伝を頼んだコラッタが役目を果たしてくれたことにひたすら安堵した。
 ワタルはアテナとしたっぱが現れたのを視認すると、そこでようやくなまえを解放した。なまえはそのまま力なく地面にへたりこむ。脱力し、しばらく立てそうになかった。それを確認したコラッタがすかさずなまえのもとに駆け寄ってきたため、その小さな身体を抱きしめ「ありがとう」と言う。コラッタはキーキーと甘えた声を出し、なまえに頬ずりをした。その光景をじっとりと観察しているものがいることになまえは気がつけなかった。そしてダブルバトルを開始した四人を眺めていたのだ。これで大丈夫だと、胸を撫で下ろしながら。
 しかしアテナは敗北した。バトル後、アテナがせめてもの代償だと言わんばかりにナイフでワタルに切りかかろうとしたものの、いとも容易く腕を掴まれ取り上げられてしまった。加えて眼前でナイフを真っ二つに折るところも見せつけられ、なまえは震えあがった。眼を逸らせないでいた。するとワタルと視線が絡み、口腔内がからからになる。愕然とした。なにもできず、なにか言うこともできない。幹部であるアテナがいれば、この困難を打破できると確信していたからである。
 やはり、ポケモンリーグの頂点に立つにはそれ相応の理由がある。ワタルの実力は確かなものだったのだ。
 ワタルと少年は大暴れしてアジトをボロボロにしたのち、嵐のように去って行った。ポケモンの技によって床はえぐれ、壁も崩れてしまっている。これではアジトとしての機能を果たせない。したっぱは「アテナ様、すみません! おれの実力が足りないばかりに……!」と何度も頭を下げている。そのうち土下座をして床に頭をこすりつける勢いである。

「……頭を上げなさいな。あのふたりの実力は本物だった。この敗北は仕方のないものだったわ」

 アテナは敗北したことを嘆きはしなかった。たとえアジトを失ったとしても、それ以上に意義深いことがあるからだ。

「ほら、しゃんとしなさい!」

 なまえはアテナのその発言にハッと我に返る。そうだ、このままずっと落ち込んでいてもしかたがない。まだできることはたくさんあるし、やらなければならないことも山積みだ。たった一回の敗北で総べてがおしまいになるわけではないのだ。己にそう言い聞かせ立ち上がる。
 ただ、したっぱはなかなか立ち直れないでいるようである。アテナと協力してバトルに臨んだため、より責任感があるらしい。背中を丸めて謝罪を永遠に繰り返しているのだ。アテナがそんなしたっぱの背を叩くと、小気味いい音が響いた。彼は痛みで顔を歪めていたものの、その行動でどうにか思考を切り替えることができたようで、キッと顔を上げる。やがて制帽のエッジを掴み、すみません、と最後に一言謝ってから思い出したように口を開く。

「チャンピオンの肩に血がついてたけど、あれはなまえが?」
「……え」
「バトルの最中も傷を気にしている様子だったわね。なかなか深手を負わせたのではないかしら? それだけでも十分な手柄よ。よくやったわ、なまえ。ああ清々する!」
「……は、い」

 本当は違うことを、どういうわけかなまえは口にすることができなかった。
 今でも鮮明に思い出せる。鋭利な刃が人間の身体に食い込んで、奥へ奥へと突き刺さるあの感覚を。ぞっとした。ワタルが一体なにを考えそう行動したのか理解不能だった。謹厳な意思を秘めた双眸は見方を変えればある種の狂気で、なぜあんな眼をした存在がポケモンリーグの頂点を務めているのかもわからない。吐き気が、する。ロケット団が正義を容認しないのと同様に、ワタルも悪を容認しないと。そういうことなのだろうか。しかしそれが己に刃物を突き立てる理由にはならないだろう。ご丁寧になまえの手までをも巻き込んだ事実が、やはり正気の沙汰ではないと思ってしまう。
──君に悪役は向いてない。
 その言葉が、なまえの脳内で繰り返し反芻されている。向いていない? 適していないと? わたしがロケット団にいることが? なまえは己の意思でここにいる。たとえワタルにとってロケット団が悪なのだとしても、なまえたちからすれば悪はむしろ彼らの方だ。ロケット団に所属しているものは、みな己が正義だと思っている。正義だと信じているのだ。この信念の相違は、恐らく一生わかりあえないに違いない。
 とにもかくにも、なまえにとってワタルは警戒すべき人物であると色濃く記憶された。惑わすようなことを言い、混乱させる。そして理解不能な言動の数々に己がなにものであるかを揺るがせる、そんな危険性を孕んだ存在。今後会うことはないと願いたいところである。
 なまえはロケット団のために生きている。それがなまえのできること。なまえができるただひとつのことであり、それしかできないのだ。
 アテナはポケモンギアを取り出すと、誰かと連絡を取り始めた。アポロに状況を報告していると考えられる。朗報ではないことが心苦しいが、ロケット団はまだまだこれからだ。果たすべき役割が残っている。こんなことで計画を頓挫させられるわけにはいかない。
 ところが、アテナが「……うるっさいわね! 仕方がないじゃない、チャンピオンがいたのよ、チャンピオン!」と声を荒げた。通話相手がアポロであればありえない態度に、なまえとしたっぱが顔を見合わせる。次いで、彼女は「あんたもここにいたら同じことになっていたでしょうよ、ランス!」と吐き捨てた。そこで彼女と話している人物がランスであると把握する。ふたりは苦笑いをした。
 ランスはロケット団のなかでも群を抜いて冷酷な男である。任務を失敗に終わらせたしたっぱたちへの制裁は恐ろしく、また裏切りも許さない。ワタルのような正義のかたまりのような人間にも拒絶反応を示すほどだ。もっとも、なまえはワタルが実際正義の味方ではない、、、、、、、、、ことを先の一件で察知したため、善人であるか否かの判断には迷うところはある。ただ、アジトの壊滅は少なからずの打撃を与えるものだ。その点、アテナのもとに配属されていてよかったと思った。ランスの配下であったら身の毛のよだつような処罰が待っていたに違いない。
 アテナはポケモンギアをぶつりと切ると、ぜいぜいと肩で息をしている。眉間には皺が寄り、憤りのあまり頬が紅潮していた。よほど頭にくるようなことを言われたようだった。だが、その責任はなまえと、そしてしたっぱにもある。ふたりはそのことを十分に理解しているので、しょんぼりと眉尻を下げた。

「だ、大丈夫ですか? アテナ様、本当にすみません!」
「問題ないわ。……ったく、顔がよくても性格が最悪じゃあね。なまえもそう思うでしょ?」
「えっ!?」

 いきなり話題を振られて驚いたなまえは、わあわあと慌てた。アテナが言っているのはランスのことだろう。肯定も否定もできずにいる姿を見たアテナは小さく吹き出すと、なまえの頭を優しく撫でた。「ほんと、かわいいわね」その言葉に思わず赤面する。
 ランスは性格こそ厳格であるものの、実力も有している男だ。したっぱ時代からこつこつと努力と功績を重ね、幹部まで成りあがった。決しておごらず、サカキを崇拝し、彼に忠義を尽くすという強い意志を持って行動している。だからこそしたっぱに厳しくあたるのだが、ランスのもとに仕えるものたちは、そんな彼を尊敬し憧憬の念を抱いている。加えてランスは端正な顔立ちをしているため、その感情が次第に恋慕へと変貌することも少なくないのである。

「さて。あたくし達には、まだするべきことが残ってる。……ラジオ塔へ向かいましょう」

 なまえとしたっぱは、そう言って背筋を伸ばして歩き出すアテナに従い、アジトをあとにした。