ひかりにはほど遠い

 現在、なまえは急ぎ足であるところに向かっていた。
 ラジオ塔の占拠。サカキを迎え、ロケット団としての活動を再開するための重要な計画を実行するときがやってきたのだ。綿密に練られた作戦を果たすべく、アポロに指示された場所へと走る。これでようやく報われる。三年かかった。思い返してみれば、長いようで短い期間だったなと思う。この三年間、ただひたすらに幹部のあとを追い、己の信じる正義を貫き通してきた。そう言われたからだ。それが正しい道であると信じて疑わなかった。
 存外、ラジオ塔内は警備員の数が少なく、占拠は楽に遂げることができたものだった。今や塔内はロケット団員で埋め尽くされており、どこもかしこも黒い制服だらけである。至るところに置かれているラジオからはサカキに向けた放送が流れ、目的を達成するときが近いのだとなまえは悟る。どきどきと胸が高鳴ってしかたがない。
 ラジオ放送を中断させるわけにはいかないため、団員は塔内に集まるよう命じられている。アジトの二の舞を避けたい、というアポロの意図もあった。よってなまえは駆け足になっているのである。
 ただ、内部に入り目的の階に向かう道中、やけに姿勢のいいしたっぱを見かけたため「やる気にみなぎってるね。一緒にがんばろうね」と声をかけたのがいけなかった。彼はアジトの壊滅に関与したあの少年だったからだ。なまえはあれよあれよという間に縄で身体を縛られ、そのまま適当なところに転がされてしまった。

「ひゃひゃひゃ! なまえも捕まっちまったのか?」

 すると、そこにはすでになまえと同様に縄でぐるぐる巻きにされているしたっぱがいた。独特な笑い声を上げ大層愉しそうな様相だが、危機的な状況に陥っていることに気がついていないのだろうか。笑っている場合ではないというのに! なまえは焦りながら「あの少年をはやく止めなきゃ」と言った。

「つっても方法がねえだろ」
「……? ポケモンもいるし、ナイフもあるのに?」
「ポケモンはあのガキに取り上げられちまったよ」
「え」
「お~なまえもみたいだな! ひゃひゃひゃ!」

 彼のその発言に慌てて腰を確認すると、確かにコラッタの入ったモンスターボールがなかった。そのことに、どうしようもなく胸騒ぎがする。嫌な予感が脳裏を過ぎるである。
 コラッタとは長い付き合いだった。なまえは物心つく前からロケット団におり、気がついたら隣にコラッタがいた。両親からも、コラッタととも成長し、ロケット団のために働くよう諭されていた。そんな大切な存在が、絶対に失敗させるわけにはいかない作戦中に離れ離れになってしまい、不安がこみあげる。
 なまえが黙り込んで思案に暮れていると、したっぱは溜め息を吐いてから「次の就職先さ、考えとかねえとまずいよなあ」と声をかけた。その発言になまえは首を傾げた。彼の言っていることの意味がわからなかった。

「ロケット団をやめるつもりなの?」
「やめるっつーか、もう終わりだろ」
「? 終わるってなにが?」
「バカ、話の流れでロケット団のことだってわかれよ!」
「ロケット団が終わる……? なにを言ってるの?」
「は、……はあああ? なまえこそ何言ってんの? こんなになってまで、まだロケット団が機能するとでも思ってんの?」

 アジトは侵入された挙句壊滅、おまけに占領したラジオ塔にまで邪魔しに来て、どう考えてもロケット団の解散は近いだろうが。早口にそうまくしたてるしたっぱの言葉が、なまえにはどうにも理解できなかった。

「ここにはアポロさまもいる。幹部全員がそろってるのに、負ける可能性なんてないよ」

 なまえがあまりにも理解できていない様相でそう言うので、したっぱは言葉を失った。心底ロケット団の復活を渇望し、この計画を完遂できるという確信が垣間見える。「……」違う。厳密には確信ではない。まるで病的に己に言い聞かせているかのように感ぜられるのだ。言葉の節々に汲み取れる歪んだなにか、、、が混ぜ込まれている気がして、閉口するほかない。無論、彼もロケット団の解散を望んでいるわけではないのだが、現状を考慮するとそれは非常に無謀なものに思えるのだ。この状況を冷静に判断できているのであれば彼のような思考回路になるのが当然であるはずなのに、なまえはなにかに縋っているかのように不安定で、今にも消えてしまいそうに見えた。
 なまえはナイフを探そうと身体をひねり、手で制服のポケットを探っている。したっぱはその姿を目視しながら「……なまえさ、そんなんじゃマジで解散した時どうすんだよ?」と訊ねた。
 その問いを耳にしたなまえは、不意に三年前のことが脳内に思い浮かんだ。サカキが姿を消してロケット団が実際に解散してしまったときのことである。あの日を境に、なまえの両親もどこかへといなくなってしまった。サカキの後を追うように、実の娘にはちっとも眼もくれずに。それまで生きる道を示してくれていた両親が消え、路頭に迷っていたなまえに手を差し伸べてくれたのがアポロだ。アポロが総べてだと常々言い聞かせられてきたなまえは、彼についていけば生きる理由ができたと思えた。

「あなたはロケット団が解散しちゃうって思うの?」
「……残念だけどな。似てるんだよ、三年前と。やけに真っ直ぐな眼をした若っけえトレーナーが来てさ、荒らしまくるんだ。信頼してたサカキ様も負けてどっかに消えた。……まあ、アポロ様っていう実力者がいたから今のロケット団があるわけだけど」
「そう。アポロさまがいればロケット団はなくならない」
「だから、おれもそう思ってたんだって。三年前、サカキ様がロケット団を引っ張ってくれてた時は。……でも、駄目だったろ? おれが言いたいのはそういうこと」

 仮にこの作戦が失敗に終わったとき、サカキやアポロのように秀でたトレーナーはいない。そうなればロケット団はお終いなのだ。完全復活の野望が消失し、再始動の夢も希望もなくなる。ぽつりとそう呟かれたなまえは、途端に身体が芯から冷える感覚に襲われた。つま先、指先、体幹、全身が冷え切って、視界が真っ黒になる。

「お、おい、大丈夫か? 顔色すげえ悪いけど」

 あまりに普通でないなまえの表情。途方に暮れ、まるでなにもかもに絶望しているかのような姿に、したっぱの顔が驚愕に染まる。ただただ憧憬の念を持ちアポロにつき従う、という理由だけでロケット団に身を置いているわけではない気がした。さらに根深い、なまえという人間の根底に纏わりついているなにかがあるような気がしてならないのだ。
 なまえはきゅっと唇を噛みしめ、したっぱの言葉を黙考する。せっかくここまで力を合わせてがんばってきたのに、総べてが台無しになってしまう? もしかすると、最悪の場合──……。そこまで思考を巡らせると、頭を振った。大丈夫だ。ここにはアポロさまも、ほかの幹部だっている。計画が失敗するわけがないだろう。みんなのことを信じないでどうするんだ。絶対に大丈夫だ。なまえはそう言い聞かせるものの、表情はかたく、顔も痛々しいまでに青褪めている。恐ろしい仮説を立ててしまった、のだ。ロケット団が、なまえの生きる理由が、この世から消え去ってしまうという、恐ろしい仮説を。

「……ね、ねえ。もし……もしね、ロケット団が解散することになったら、どうする?」
「ん? そりゃ別の仕事探して、心機一転、新しいおれになる。それだけじゃね」
「……じゃあ、わたしは?」
「自由に生きればいいだろ」
「自由ってなに?」
「じ、自由っていうのは……あれだよ」
「あれ?」
「自分の好きなように生きる、みたいな? やりたいことやって、生きたいように生きればいいじゃん」
「それっておかしいよ。だって、ロケット団にしか居場所がないひとだっているのに」
「……なまえさあ、何か趣味とかないわけ? 釣りをするとか、きのみを育てるとか」
「特にないかなあ……。だって、わたしにはロケット団しかないから。そう言われたの。でも、そうでしょ? みんなもそうなんじゃないの?」
「………………」

 したっぱはとうとう口を閉ざした。どうやらなまえは本気で疑問を抱いているようだったからだ。なまえにとってはロケット団が総べてで、生きる理由であるのだと。そんなひとりの人間の根幹を成すものが崩れ落ちてしまったとき、一体どうなってしまうのか。
 あまりにも気の毒だと思った。
 静黙するしたっぱを横目に、なまえは「大丈夫、きっと大丈夫。アポロさまがあんな少年に負けるわけない」と、やはり己に言い聞かせるように呟くのである。

「……おれもさ、当時は本当にそう思ってたよ。サカキ様、強かったし。でも……」

 これ以上彼と話をしていると頭がおかしくなりそうだった。
 指先にナイフのハンドルが触れたため、なまえは身体をよじってそれを取り出し縄を切断する。そしてそのまま駆け出した。「……行くのかよ」そんなしたっぱの言葉は、必死に己をつなぎとめようとしているなまえの耳に届くことはなかった。
 なまえは走りながら、優先すべきは幹部へ状況報告であろうと考え、ひとまず地下倉庫の鍵を管理しているラムダのもとへ向かおうとした。彼が敗れてしまえば突破口を開かれる危険性があったからだ。ラムダを信頼していないわけではない。可能性の話で弊害は排除しなければならないのである。
 ラムダは五階にいるはずだった。道中、壁に背を預けてぐったりと項垂れているしたっぱを数多く目撃する。まだ終わっていないのに、挽回の機会なんていくらでもあるのに、すっかり諦めてしまっている彼らの姿が、余計に焦燥を駆り立てる。
 なまえは走っていることによる疲労ではない奇妙な体感がまとわりついていることに気がついた。ひどく身体が重い。次第に足の動きが鈍くなり、やがてその場に立ち尽くす。先ほどのしたっぱの言葉を信じてしまいそうになっているのだろうか? そんなのあり得ないだろう。ここにはアポロがいるのだ。負ける理由はないはずなのに!

なまえちゃん」

 突如鼓膜を震わせた、背後から己の名を呼ぶ男の声。途端にアジトでのあの感触──ナイフでひとを突き刺す、肉をえぐる感触が手によみがえった。身体がかたかたと震え始める。なまえは振り返ることができない。

「まだロケット団にいたんだね。予想はしていたけど」

 ワタルが、なぜかここにいた。
 なぜか? その疑問は愚問だろう。アジトの壊滅に関与しているのだから、ロケット団の野望を阻止するために現れるのは想像に容易い。だが、今のなまえにとって彼の存在は極めて有毒だった。
 忘れもしない。忘れられやしない。先日のアジトでのできごとを。己の手ごと身体に刃物を突き立てたことを。真っ直ぐな瞳で言い放った言葉を。
 なまえはただひたすらにアポロに従い生きてきた。それが正しい道なのだと。信じるべき道なのだと。それなのに今まで積み重ねてきた人生を、意味を、ワタルがことごとく突き崩そうとするのだ。決して受け入れられたことではないが、情けないことに実際ガラガラと虚しい音を立てて崩れかけてしまっている。必死に築きあげてきた確固たるものがたったひとりの初対面の男の言葉であっけなく形を変えてしまうことがなによりも悔しかったし、なによりも恐ろしかった。初めて生き方が間違っていたのかと悩むこともあった。
 だが、なまえにはロケット団が総べてだ。それ以外の生き方なんて知らなかった。それがなまえだから。ロケット団がなまえの生きる理由なのである。それなのに!

「あなたたちがきてから、なにかが変わっちゃったんだけど。ロケット団の、なにかが。今までなにもかもがうまくいってたのに……!」
「俺には君が変わったように見えるけどな」
「……い、いみが、わからない」
「本当は気がついてるんじゃないのか? 知らないふりはいけない」
「や、やめて」
「信じたくないだけなんだろう。だから必死に顔を背けて、自分に言い聞かせてる」
「……っやめてよ! あ、あなたたちがしてることは、悪だよ、わたしたちにとっての悪!」
「世間から見れば、君たちのしでかしていることの方が悪なんだけど」
「そっちが勝手に仕立てあげた正義を押しつけてこないで……!」
「……なまえちゃん。築き上げてきたものが偽物だから、自分が定まらないし覚悟もできないんだ。何もかもが偽りなんだよ。なまえちゃんの矛盾がなによりの証拠じゃないのか」
「………………」
「無言、ということは思い当たる節があるんだよね」

 アジトでもそうだった。ワタルはなまえの心を見透かしたように、なにもかも知っているかのような口ぶりでものを言う。それが、どういうわけかなまえの内心を気持ち悪いほどにかき乱すのである。
 己はロケット団で、それ以外のなにものでもない。惑わされてはいけない。迷ってもいけない。ワタルはなまえの生きる理由を揺らがせようとする。生きる理由を奪おうとする。
 眼前の男が、なまえにとってひどく凶悪に見えた。

「み、みんな、信じあってるし、仲間で、だから」
「信じあってる仲間?」
「そ、そう、そうだよ」

 自分で自分の身体を抱きしめながら、なまえは懸命に頭を回転させる。言いくるめられてはだめだ。たった二回の接触でなにがわかるというのだ。知ったような口ぶりで否定して、勝手に納得している。そんなのはあまりにも独りよがりだろう。
 震えながら声を上げるなまえが、ワタルにとってひどく不憫に見えた。
 初めから見逃すつもりなど毛頭なかった。泣きながら抵抗されたところで意味はなく、またその言い分を認めるわけもない。それどころか余計に感情が昂ってしかたがなかった。身を縮める華奢な背を見つめ、ワタルは徐々に声が弱々しくなっていくなまえに追い打ちをかける。

「それなら、すでに戦意喪失して項垂れている彼らのことはどう説明するつもりなんだ? なまえちゃんもここに来るまで見ただろう」
「……ぁ、」
「これがなまえちゃんの言う仲間なのか? 危機的状況で団結するどころか秩序を失っているのに」
「っそんなことない! だって、だって」
「……往生際が悪いな。はっきり言葉にしないと伝わらないようだね」

 鼓動が加速する。後方から足音が近づいてくる。これ以上つめ寄られたらなにかが終わる気がした。聞きたくない。震える手で耳を覆うつもりだったが、ワタルの手によって阻まれる。腕を掴まれ耳元に唇が寄せられる。聞きたくない!

「ロケット団は今日でお終いなんだよ」

 そのとき、なまえのなかで確かになにかが壊れる音が聞こえた。ぐら、ぐらりと、不安定ながらも細い糸で保たれていたなまえが崩れる、落ちる、ひびが入る。
 なまえの両眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。力なく地面にへたり込み、両手で顔を覆い泣きながら声を上げる。

「わ、わたしは、ロケット団のために生きているのに、だから、ロケット団がなくなったら生きていけないから、……で、でも、あなたは言ったでしょう、わたしには、むいてないって。……そ、その言葉を聞いてから、わ、わたし、おかしくなっちゃったんだよ、だから全部、全部全部あなたのせいなんだ。今みんなが苦しんでるのも、わたしが苦しいの、も、ぜんぶ。お、おねがいだから、居場所をうばわないでよ……」

 視界が、滲む。