ワタルは少年が敗れるという想定はしていない。彼の実力は本物であるし、なによりも悪を容認しないという強い意志を秘めたあの眼。勝利を収めロケット団を壊滅させるという信念が感ぜられるのだ。まごうことなく正義のために。
壊滅が実現されたのちのなまえのことを思惟すると、形容しがたい感情が誘起する気がした。どうしようもなく抑えられない、ある類の感情である。決して善意のそれではない。思わず口角が吊り上がりそうになってしまう。
ところがワタルが手を伸ばそうとすると、なまえが弾かれたように駆け出した。嫌な予感がしたのだろう。そしてそれは予感という言葉では済まされないに違いなかった。
なまえもまた爆発音の発生源が展望台であると推測し、焦燥に駆られるがままに走る。そこにはアポロがいるのだ。彼のもとへ辿り着くには突破すべき壁がいくつもあるはずなのに、少年がそれを難なく搔い潜っている気がしてならなかった。嘔気を催すほどの不安感に押しつぶされそうになる。アポロのことを信頼していた。敗北するはずがないと。
サカキを呼び戻しロケット団が再始動するまで、あと少しのはず。手を伸ばせば届くところまできているのに、あまりも障壁が多すぎる。なまえは唇を噛みしめひた走るほかない。
全速力で展望台まで続く階段を駆け上る。途中で足がもつれ転倒しそうになるが、必死に体勢を整え走った。最上階まで異様に遠く感じた。
「……っアポロさま!!」
やがて到着したときには、両足はひどく震えていた。疲労のみによるものとは断言できないものの、そんなことを気にしている場合ではない。乱れる呼吸をそのままに中央にある柱を回ると、アポロが立っていた。大きな窓ガラスは粉々に割れており、生ぬるい風が彼の髪をなびかせている。背を向けているために表情は窺えないが、ぼんやりと虚空を見つめていることはわかった。なまえが「あ、あぽろさま……?」と名を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返る。
呆然とした面持ちだった。常の飄々としている姿とは正反対の様相に、なまえの鼓動がどくりと跳ねる。嫌な予感が、した。こんなときになっても思い返されるのは、やはり妙に脳に焼きついて離れてくれないワタルの言葉である。彼の口にしたことが頭のなかで永遠に反芻され、なまえの思考回路を奪うのだ。
アポロに戦意喪失してほしくなかった。現になまえは諦めていなかったのだ。むしろそうであると呪文のように胸の内で復唱していた。たとえ傷つけられても、己という人間を見失い存在価値を奪われようとしても、アポロがいればよかった。ロケット団が存続すれば無問題だった。ワタルの言うロケット団の壊滅を回避できれば、生きる理由は失われない。
三年間積み重ねてきた努力が叶うその瞬間をずっと待望していた。ロケット団が本来あるべき姿へと変貌する。その夢を胸に生きてきたのはなまえだけではないはず。
だが、そんな淡い期待はアポロの口にした言葉で拾い集めることが不可能なまでに砕け散ってしまう。
「……なまえ、ですか」
「は、い、そうです、あぽろさま。まだ──」
「終わりです。何もかもが。総べてが。終わってしまった」
その瞬間、なまえの張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れ、床に尻餅をついた。頭が真っ白だった。アポロが敗北した。その現実が受け入れられない。彼は今までロケット団を牽引してきた実力者だ。サカキが去り団結が取れなくなったロケット団をまとめ、ここまで引っ張ってきてくれた。なにか面倒ごとが生じても、彼の手腕で解決しここまできた。その手段が法に抵触するものであっても、野望を阻止しようと立ちはだかるものはことごとく排除する。その信念で三年間活動してきた。アポロはサカキを迎えるために努力してきた。なまえもアポロのために献身的だった。
今までの尽力が水の泡になったと思った。
アポロはへたり込み動けずにいるなまえを見つめる。なにを考えているのか読み取れない。だが、その双眸が奈落の底に突き落とされていることだけは伝わってきた。思わず息を呑む。
「私達にとっての倖せは、世間には許容されなかった。それだけの話です」
なまえは壊れた人形のように否定の言葉を繰り返す。「い、いや、です、いやです」と。その顔は憐れなまでに青褪めており、誰か見ても絶望していると捉えられる姿だった。なまえの声は次第に尻すぼみになっていき、再び涙がこぼれ始める。次から次へと流れるそれは、なまえの制服の胸元に跡を残した。
アポロはなまえの前に片膝をつき、彼女の頬に指を添えて「……なまえにも、色々と無理をさせましたね。これからは自由の身です。好きに生きなさい」と語りかけた。言葉として表出されたことで、より状況が現実味を帯びる。なまえはアポロの胸元に縋りついた。意思表示をすれば再考してくれるはずだと思ったのだ。ラジオ塔の作戦は失敗に終わったかもしれないが、団員がいれば何度でもやりなおせるはずだと。ジュンサーに逮捕されなければ済む話であると。
だが、アポロは首を左右に振った。なまえは必死に声を上げる。
「っわ、わたし、は、わかりません。あぽろさま。わからないんです……あ、あぽろさまも、おっしゃっていたでしょう、ロケット団がすべてだと。わ、わたしも同じです、だから──」
「ロケット団は、ここで解散します」
なまえは思考停止に陥った。アポロの言っていることの意味が理解できない。脳が拒絶しているのだ。ロケット団は居場所を与えてくれた。生きる理由なのである。それがなくなってしまう?
アポロは己の胸元に縋るなまえの手を解くと、あくまで優しく言葉を紡ぐ。「なまえ」と名を呼び、まるで聞き分けの悪い子どもに言って聞かせるように。
かいさん。解散? それならわたしの居場所はどうなるの? 好きに生きる? 自由に生きるとはどういうこと? そんな疑問が矢継ぎ早に出てきて、思考がままならない。
「お別れの時間です。なまえ、お前もここから去った方がいい」
アポロはそう言い残すと、なまえの頭を優しく撫でてから展望台から出て行った。数秒後、我に返ったなまえはとっさに振り返り声をかけようとしたものの、アポロはすでに去っていたため、姿を捉えることができなかった。
ここにはなまえひとりしかいない。
いくら熟考すれども、アポロやしたっぱの言う自由に生きる、という発言の意味がどうにも理解できなかった。なぜなら己のいるべき場所はロケット団で、ロケット団員としてしか生きていけないからである。そう言われたのに。
混乱し考えが堂々巡りしているなか、たしか彼らは好きなことをして生きろ、とも口にしていたことを思い出した。なまえは再度考え込む。
好きなこと。そういえば、ポケモンのことは大好きだった気がする。いつかの任務のさなか、ポケモンを使って悪事を働いているのにそのポケモンを愛してどうするのだと、したっぱからつめ寄られたことがあった。なまえはロケット団に所属していながら、ポケモンを手ひどく扱うことができなかったのだ。ポケモンのなかには身体の一部を商売に利用することが可能な個体も存在するため、金儲けの目的で殺害することは数えきれないほどあった。ほかのしたっぱたちが愉しそうな笑い声をあげるほど盛り上がった任務があったなかでも、なまえはその光景から逃れるように瞼を閉じ、悲鳴が聞こえないよう耳を塞ぎ、時間が過ぎるのをひたすらに待機することがほとんどだった。皆はポケモンに手をかけることになんの抵抗も覚えていないようだったが、なまえは手を出せないでいた。傷つけられ苦しんでいるポケモンを直視できなかったのである。
ゆえに、支給されたコラッタを大切に思っていた。任務で虐げられるポケモンたちから眼を逸らし、せめてコラッタにだけは愛情をもって接する。幼いころから抱き続けていたその罪悪感を、そうすることで償われた気になっていた。
そうか、わたしはポケモンがすきなんだ。
初めて己のことにじっくりと思案を巡らせたなまえは、多少は自分のことが理解できた気がした。今までは両親の言葉の通りに生きていけばいいと思っていたし立場に疑問を抱くこともなかったため、そもそも己のことを考えることがなかったのだ。
なまえはコラッタを抱くため腰のモンスターボールに手を伸ばす。だが本来ならば指先に触れるボールがなく、息がつまった。そして少年に捕まってしまったときに取り上げられていたことを思い出す。ようやっと自分なりの答えを見つけられた気がしたのに、それすらも許されないのか。今までのつけが回ったのかもしれない。自業自得だと言われてしまえば反論できなかった。
でも、だって、それならどうしたらよかったの? わからない。言われるがままに生きてきたことのなにが悪いの? 両親に教わったことに律儀に守ってきたことが過ちだったの? ふたりは道標を作ってくれた。生きる理由を与えてくれた。それのなにが間違っているの?
隔てるものがないままに、日光が室内に降り注いでいる。見上げれば視界に広がるのは真っ青な大空で、気味が悪いくらいの好天気に顔が歪む。こぼれてくる陽光が、途方に暮れたなまえを嘲笑うかのように照らしている。
今後のことを慮っても、なにも思い浮かばない。なにも。漆黒に塗りつぶされた未来しかなかった。己の居場所であるロケット団は解散した。つき従い生きる理由だったアポロも去った。道がないのだ。「……わたしって、なんのために生きてるんだっけ」呟かれた声はあまりにもか細い。
そのとき、たしかに両親の声が、言葉が、鮮明に蘇った。
「──貴女はロケット団のために生き、そして死んでいくの」
あ。そうだ。そうだった。それなら死ねばいいんだ!