初めてなまえとアジトで対峙したとき、雷に打たれたかのような多大な衝撃が走った。己に向かってポケモンの技を繰り出されていながら手持ちのコラッタにバトルをさせず、幹部への報告を命じたからだ。ワタルの隣にカイリューが佇んでいたことは承知していたはずなのに、身を挺してコラッタを優先させたことがにわかには信じがたかった。
ワタルはロケット団員に対し、そういった状況下では手持ちのポケモンを盾にして己の身を守ったり、攻撃性に富み殺意を持って襲いかかったりするような印象を持っていた。ポケモンを散々虐待しておきながら、みずからが生命の危機に瀕すれば脱兎のごとく逃げだすいっそ清々しいまでに卑怯な存在か、或いは殺人に手を染める悪党であると。それなのに、なまえは再度はかいこうせんを放たれる可能性だってあったにも関わらず、コラッタを守護しようとした。己の命よりもポケモンに重きを置いている。それがどうにもロケット団に所属しているものの判断とは思えなかったのだ。
始めはコラッタを現場から逃し興味を逸らしたのちに不意をついて別のポケモンで攻撃をしかけてくるものだと予測していた。だがその予測は外れ、なまえ自身がナイフを手に襲いかかってきた。なまえがロケット団である以上は凶器で恫喝される可能性も視野に入れてはいた。だが体格差を考慮しその選択肢は度外視していたのだ。そもそも敵うわけがないであろう。やはりと言うべきか、体術で圧されることは一切ないに等しく、実際難なく防御することができた。ただ、相手が己よりも体格のいい男であるのに接近戦に持ち込む勇気は認めざるを得ない。しかしながら、どういうわけかなまえはワタルの身体にナイフを突き立てるつもりもなかったようで、そこにまた疑問を抱いた。あまりに不利な状況だったからだ。なおさら理由がわからなかった。なまえには負ける見込みしかなかったからである。寸止めされたのかとも考えたが、どこか意思が揺らいでいたあの双眸がやけに引っかかった。
極めつけに、コラッタがアテナとしたっぱを呼び戻ってきた際になまえと交わした視線である。なまえを信頼しきった眼に、確信した。絆が存在していると。
早い話が、なまえのコラッタを見つめる慈愛の瞳に惹かれた。自然と追ってしまいそうになる姿に閉口するほかなかった。
ワタルはそう悟った瞬間から、なまえという人間に途方もない興味を持った。今までロケット団員と衝突したことは何度かあったが、彼らとは一線を画している気がしてならなかったのである。なによりワタルの直観がそう言っていた。
アジトにてワタルがほんの少し踏み込んだことに対し、なまえはひどく不安定な様相を呈していた。多少問いただそうとしただけなのに、まるで壊してほしいと言わんばかりに。恐怖に染まった顔を眼にしたとき、鼓動が跳ねた気がした。なまえの手ごと身体にナイフを突き立てたのは興味本位だった。そうしたらなまえがどう動くかが気にかかった。案の定、なまえは怯えた表情を浮かべ、やはり彼女の居場所はロケット団ではないと思惟した。
形容しがたい高揚感を抱いたまま、ワタルは少年とアジトをあとにする。いかりのみずうみでの赤いギャラドスのことを考慮すると、ロケット団の計画はこれだけには留まらないはず。そう予見していたワタルは、ラジオ塔が占拠されたと聞いたときは絶好の機会だと思った。必ずなまえもいると踏み、ラジオ塔へ向かったのだ。
ラジオ塔でなまえと再会したとき、彼女はすでに壊れる一歩手前の状態だった。たったひとりの少年の手によってロケット団が制圧され、統率が取れなくなっていたからだ。したっぱは皆、まだ終わってもいないのに諦め精力を奪われていた。なまえはロケット団の指導者である男を信じて疑わず、敗北を喫するという不安が一切なかったため、彼らのその反応が理解できずにいたようだったが、ワタルとの望まぬ再会で総べてが崩壊した。彼の言葉ひとつひとつが感情を錯乱させ、根幹揺さぶり、心をえぐった。
なまえには覚悟がなく、また自分もなかった。
洗脳とは恐ろしいもので、その対象の核心を揺らがせるほどの力を持っている。思考回路を強奪し、正常な判断を不可能にするのだ。なまえもそれに毒されたうちのひとりだった。幼いころから呪詛のように聞かされていた言葉を鵜呑みにし、それが己の信念であると勘違いしていた。居場所はロケット団にしかなく、アポロがつき従うべく指導者であると。その生き方しか知らなかった憐れな少女。それがなまえである。
アジトで出会ったあのときのことは、なまえにとってもワタルにとっても、恐らく一生涯忘れられないであろう。あまりにもロケット団とは思えぬ言動の数々。そんな状況に疑問を抱かない人間がいるだろうか? 少なくとも、ワタルはそんななまえに関心を寄せ、救いたいと思った。たとえそれが正攻法でなくとも、なまえを救いあげたいと思ったのだ。
アジトとラジオ塔での件を思い返すと、なまえという人間の存在意義を揺さぶることができたはずだった。ワタルは混乱しているなまえの姿を眼にして充足感を得ていた。ぞくぞくと腰を這い上がる、形容しがたい快感があった。
ロケット団というなまえの総べてが──世界が瓦解してしまったら、果たして彼女はどうなってしまうのか。あれだけ盲信的だったのだから、更生させる価値はあると言えよう。
「おっと。少しゆっくりし過ぎたみたいだ」
ワタルが展望台にたどり着くと、なまえは虚ろな眼でナイフを握り、喉元に刃先を向けているところだった。陽光に鈍く反射したそれがどれほど絶望しているかを示しているようで、思わず口角があがってしまう。ただ、このまま様子見をしていると面倒なことになりそうである。そう思案したワタルは、モンスターボールを取り出しカイリューにでんじはを命じた。技が命中したなまえは脱力して倒れ込んだので、床に頭を打ちつけないよう手で支える。それから制服が見えないようマントを被せると、そのまま優しく抱き上げた。
「こちらラジオ塔前から中継でお伝えしています。ロケット団によって占拠されてから、およそ四時間ほど経過しました。先ほど最上階で爆発音が確認されましたが、依然状況は……あっ! 今、中から人が出てきました! あれは……チャンピオンです! 恐らくこの騒動に駆けつけたのでしょう!……すみません、チャンピオン。お話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
ワタルがラジオ塔から出ると、あっという間に生放送中の記者たちに囲まれ質問攻めされた。今後の展開が嘱目されているのだ。ワタルには質疑応答するつもりはなかったものの、この大騒動で興奮しているらしい彼らはその言葉を聞かず、離そうとしない。「すまないが道を開けてくれないか」と口にされてもしがみついてくるのだ。数多のカメラとマイクを向けられ、顔に出さないものの内心では面倒だなと思う。
「五分……いえ、三分だけでもお話を」
「ロケット団は解散した。俺から言えるのはそれくらいかな」
「解散? あのロケット団が、……おや? そちらの方は」
不意に、ひとりの記者の視線がワタルに抱かれているなまえに移動する。そして詳細を訊ねようと再びワタルに視線を戻すと、息を呑んだ。有無を言わさぬ姿に息がつまったのだ。これ以上問うてくれるなと暗に言われた気がした。ワタルは笑顔を浮かべているものの、思わず気圧される。
「人質のひとりだよ。知り合いだから介抱しようと思ってね。道を開けてくれ」
「す、すみません、もう少しお話を」
「この事件を解決したのは俺じゃない。もうすぐ出てくる少年のおかげだ。彼が詳しく話してくれるはずだよ」
ワタルはあくまで微笑んでいるが、途端に纏う雰囲気が不穏なものへと形を変え、その場にいる全員に緊張が走った。まるでポケモンリーグ戦での最後の関門に挑んでいるときのような空気感だ。ぴりぴりと肌を撫でるのは畏怖の念にほかならない。まさしくリーグの頂点にふさわしい厳格な様相。周囲が圧倒され後退しようとしたところで、ラジオ塔から少年が出てきた。途端に皆が彼のもとへ殺到する。それを視認したワタルは溜め息を吐く。
まだ年端もいかない少年にこの状況を放り投げることに抵抗を抱かないわけではないが、ロケット団の計画をことごとく阻止し、壊滅まで至らせたのだ。彼ならばうまいこと突破できる。心配には及ばないであろう。
なにより、今はそれ以上に激していた。ワタルは己の腕のなかで気絶しているなまえを一瞥する。そして抱きかかえ直してから呟いたのだ。
「……さあ、俺が居場所を与えてあげよう」