先日までは熱気と気迫で充満していた道場は、今や見る影もなく粛然としていた。中には代々受け継がれてきた歴史ある武術───流水岩砕拳を教授するバングと、その弟子であるチャランコの姿のみが見受けられる。実のところ、後者の彼も道場を去る心持ちであったが、二週間ぶりに顔を覗かせたその場所が彼の記憶とは正反対の状況にあることを知り、思い留まった次第であった。
チャランコは女の子にモテたいという不純な動機で道場に通い始めた男であった。けれども、道場とは汗水垂らし日々鍛錬に励む場である。そんな歪曲しきった一時の激情のみで乗り越えられるほど優しい所ではなく、それゆえ長続きするはずがない。また道場には彼の苦手とする先輩もおり、そのことが余計にチャランコの足を重くする要因となっていたのだ。
一日、また一日と道場に顔を出す期間が開き、そうした中で多くの弟子が辞めてしまうきっかけとなったとある事件が勃発した。道場との関わりを一切遮断していたチャランコはそのことを知る手段がなかったため、長らく顔を見せていなかった道場に足を踏み入れる際は怒られるのではないかと恐れを抱いたものだったが、あまりの変貌に出し抜かれ、その不安が吹き飛ばされたのは数分前の話である。
「しかし、まあ……そんな強いんですね。そのガロウって奴」
「アイツの実力はモノホンじゃよ。道場で断トツ抜きん出ておったし」
「ほとんどやられちゃったんですか?」
「半殺しにされたのは、ここでもそこそこの実力を持った奴だけじゃがなあ。それ以外は、ガロウに畏怖して出て行きおった」
「……そういえば、ガロウはどこに?姿が見えませんけど」
「だって破門にしたからの」
「破門……」
「少し頭を冷やすべきじゃ。あの馬鹿者」
よほど疲労したのか、バングは腰を叩いて大きな溜息をついた。その様子に、チャランコはもしかして、怠慢していた自分はある意味で運が良かったのかもしれないと思った。
もはや弟子がチャランコしかいない状況では、自動的に彼がバングの一番弟子ということになる。その事実に、単純な彼は俄然やる気が湧いてきていた。胴着の帯を締め直し、顔を引き締め気合いを入れ直す。少しは真面目に練習してみようかな、と考えた矢先、道場の扉が開いた。
「バングさん、こんにちは」
そこにはスーツを身につけた、若い女性が立っていた。微笑みが湛えられた優しげな顔立ちに、チャランコの目が釘付けになる。こんな道場には無縁そうな女性だった。「おう、なまえちゃん。久しぶり」バングが片手をヒラヒラと振ると、なまえと呼ばれた女性は頭を下げた。
「お久しぶりです。仕事で近くまで来たので、ちょっと顔だしてみようかなって思って訪ねたんですけど……なんだか、静かですね」
「弟子みんな辞めちゃった」
「ちょっ俺を忘れないで下さい!」
「ああそうじゃったそうじゃった」
「もおお~~……」
「ええと、はじめまして……ですよね? わたし、なまえと申します」
人のよさげな笑みが自身に向けられ、チャランコの表情はだらしなく崩れる。それを知ってか知らずか、なまえはバングの方へと向き直り「みんな辞めてしまったって、どうしてまた?」と疑問を口にした。
「一人、どうしようもない馬鹿がいての」
「?」
「お前さんもよく知っている人物じゃ」
「……えっ、ま、まさかガッちゃんが何か……!?」
「ピンポーン」
バングの返事を耳にしたなまえの顔色は、みるみる青褪めていった。口をわなわなと動かし、手は震えている。今にも卒倒しそうな佇まいであったが、意外にも彼女は持ちこたえてみせた。
なまえに心配そうな視線を送る中で、チャランコはふと思った。“ガッちゃん”とは誰だ、と。いいや、話の流れを踏まえたら誰を指しているのかは流石に彼の頭でも分かる。が、しかし。道場の実力者を悉く捩じ伏せ、挙句破門までされてしまった異端者のことを形容する言葉であるとは、にわかには信じがたい。幻聴だったのだろうか。そうだ、きっとそうに違いない。チャランコは己の聞き間違いであると捉えることにした。
「ガロウには困ったもんじゃ」
だが、バングのそのセリフにすぐさま頭を抱えることとなった。ガッちゃんはガロウのことだったという事実を突きつけられ、呼称の響きの可愛らしさと現実の非道さの差異に、馬鹿なと思う。そして呼称から漂う彼ら二人の親しい雰囲気に、なぜか心が砕けた音がした。
「ああああのあのあの、なまえさんとガロウは、一体どんな間柄で……?」
チャランコが白目を剥きながら問えば、「幼馴染なんです」と控えめな返答をされた。なまえからそれ以上の言及はない。本当にただの幼馴染であるなら、まだ希望は潰えていないはず。チャランコはそっと呟くと、誰にも気付かれないように小さく拳を握りしめた。
「ほ、本当にごめんなさい……」
「なまえちゃんが謝る必要はないよ」
「……あの、ガッちゃんはどこにいますか?」
「すまん。アイツ破門にしちゃった」
「は、はもん、ですか」
「おう。てかワシ、追い出されて真っ先になまえちゃんの所に行くと思ってた」
「えっ」
「けど、その様子じゃ違うみたいじゃの」
「はい……家には来てません。それに最近は忙しくて、ほとんど協会にいますから。今日ここに来られたのも、運よく時間が取れたからなんですよ」
もしかして、留守の間に来た可能性もあるのかなあ。小さな声で呟かれた言葉に、チャランコは目を瞬かせた。
なまえはヒーロー協会に勤めている。ここのところ、怪人の出現率が異常なまでに高い傾向にあった。原因は不明。よって協会も、尽力しているとはいえ得策と評価できるような対処を取れないでいた。
怪人の発生率が急増するのに比例して協会の仕事が増えるのは言うまでもない。極め付けに、大予言者であるシババワの、あまりに恐ろしい未来予測の問題が浮上している真っ只中である。今までシババワの予言してきた災害の的中率は百発百中。したがって協会側もこの問題を無視できる事態ではなく、対策チームを考案しそのリーダー役としてシッチを任命した。そしてその秘書としてなまえが登用されている。
なまえもヒーロー協会に勤める身として、被害を最小限に抑えるため現場に派遣するヒーローとの密な連絡や市民が危機に晒されないよう避難所や避難経路の確保、甚大な損害を極力避けるための対策会議への参加など、とにかく激務をこなすことが求められている。そこにシッチの秘書という肩書が加わり、役割荷重と言っても過言ではない状況に身を投じているようなものだった。
「ワシらヒーローも情け容赦なく出動命令食らっとるし、その分協会も忙しいってことじゃな」
「すみません……近頃の怪人の数に対して、明らかに人材不足なんです。負担が過多にならないように試行錯誤してはいるんですけど、その……どうしても限界があって……」
「ワシは全然いいけどね。気にしてないよ」
「あ、ありがとうございます! そう言ってくださる方がいるだけで、ちょっと気が楽になります。……でも、シッチさんも本当に、この現状に頭を抱えているんですよね。打開策として革新的な案があるそうなので、近いうちに何かしら動きはあると思うんですけど」
「革新的? なんじゃい、あんまり良い予感はしないのう」
「う、う~ん……わたしも詳細を知らされていないので、今はなんとも言えないです。でも彼の秘書という立場ですから、できる限りサポートしていくつもりです」
「ほほう、秘書! もしかして昇格した?」
「は、はい。実は直々に指名されまして……えへへ」
「若いのに凄いのう。ガロウには教えとらんのか?」
「ガ、ガッちゃんにはわたしが協会で働いていること、絶対絶対、何があっても、例え口が裂けても言えないです」
なまえはがっくりと項垂れながらそう言った。
ガロウはいたくヒーローを嫌っている。正義が悪に勝利するという暗黙の了解に、昔から変わらず疑問を抱き続け、更には嫌悪するまでに至るほどには。過去に放送されていた子ども向けのアニメでも、当たり前のように正義のヒーローが悪役を打ち負かすというシナリオが繰り広げられていた。そんな有無を言わさぬ展開に、ガロウは幼いなりに理不尽さを感じていたものだったが、その感情がより強固になった背景には彼自身の学童期の経験も無関係とは言えない。
現在の振る舞いからは想像しがたいが、実は彼はもともと教室の隅で読書に没頭するような、いわゆる大人しいというグループに分類される型の人間であった。控えめな性格であったため友人も少なく、そのためにクラスの中心的人物のちょっかいを受ける標的とされていたのだ。加えて彼は正義よりも悪を好むという世間一般の“当たり前”とはズレた感性を持ち合わせており、それがより事態を悪い方向へと加速させる羽目になっていた。少数派は淘汰される世の中である。悪を支持する彼に周りの人間は決していい顔をしなかった。
非難のみならず、更にはいじめのような被害に遭い悪役の悲惨さを身をもって叩き込まれたガロウは、とうとう爆発する。クラスの人気者という立場の男児数名と対峙したのだ。しかし、友人も少なく元来控えめな性格だったガロウを味方する者は教室内にはいなかった。まして学童期という時期では、明るく活発な人間が強者であり、いわゆるガロウのようなタイプの人間が弱者という扱いをされる。結局、担任への告げ口によりガロウが悪者であるということで事態は収まってしまったのだ。
人気者が勝って嫌われ者が負けるのは悲劇だとガロウは言う。正義の名のもとに、力を持たない弱者が一方的に虐げられる圧倒的理不尽。彼はそれを憎んでいた。昔からそうだった。なぜなら、自分がその弱者にあたる立場だったのだから。
己の意見を否定せずに傍にいてくれたなまえは、かけがえのない存在だった。心置きなく熱い思いを吐露できる唯一の相手。しかし、なまえは決して悪役の肩を持っている訳ではなかった。ガロウという人間はただ強者に弱者の立場を分からせたいのであると、それゆえに正義と謳う者に対する理不尽さを敵視しているのだと、年端もゆかぬ頃から受容していただけの話であった。彼女は意図せずガロウの総べてを受け入れていたのだ。
隣で怪人の話をされても逃げることもなく、まして反抗することもない。けれど、にこにこと愛想のいい笑みを浮かべて己の話に耳を傾けてくれるなまえの傍らは、クラスでは肩身の狭い思いをしているガロウにとって大層居心地の良い場所に違いなかった。なまえ以外の前で怪人への憧れを熱弁すると、周囲からは奇妙な目を向けられる。そんな現実を眼前に突きつけられたガロウは、やがてなまえの前でのみ思いの丈を吐き出すようになったのである。
幼馴染がヒーローを嫌っていることを熟知していながら、そのヒーローを管轄する場である協会に勤めている背景には、ある事件が関係していた。簡潔に言えば、なまえの以前の職場が怪人の手により壊滅してしまったからである。職場に留まらず、市全体が消滅してしまった。しかし町としての被害は甚大だったが、なまえ自身はかすり傷をいくつか負った程度で幸いにも命に別状はなかった。なまえはそのことを人生の運すべてを使ってしまったと後に溢していたのは別の話だ。
職場を失い、家を失い、そんな状況下に置かれ途方に暮れていたなまえに手を差し伸べてくれたのが、現在の彼女の上司シッチである。実はなまえの祖父とシッチには深い親交があったのだが、彼女はそれをその時初めて知ったのだった。そうして流れに身を任せていたら、なまえはヒーロー協会に勤めることになっていたのだ。当時、脳裏にはヒーロー嫌いの幼馴染の顔がちらついていたが、なまえにも生活がある。思わぬ方向から仕事場の提供をされたことを無下にするほど、なまえは将来を見据えることができない人間ではなかった。
新人の立場にも関わらず幹部補佐という地位につけたのも、シッチによる操作が原因であった。なまえはなぜか彼のお気に入りだったのである。表立って名誉ある実績を残すような系統の人間ではなかったが、与えられた仕事は求められる水準以上にこなす実力も持っていたことも含め、シッチはなまえのことを特別視していた。事務処理の才能はあったために実力の伴わない職員ということで非難されることもなく、むしろ彼女の人柄の良さに親しくなる職員もいるくらいだった。そうして協会本部に近いA市のアパートも借り、今のところはそれなりに平穏な生活を送るに至っている。
「久しぶりに会えると思って来たら、問題起こして破門にされてしまったみたいですし……ガッちゃん、どうしたのかなあ……」
「正直、アイツが何を考えとるのか分からん」
バングがそう言うと、なまえは困ったように眉根を寄せた。彼にはなまえを責めているつもりは毛頭なかったのだが、幼馴染が問題を起こしたことを知り気まずさを覚えているのだろう。三人とも口を開かず、静まり返る状況が続く。重苦しい沈黙に耐え切れずチャランコの頬に汗の雫が垂れたところで、開いていた扉から第三者の声がかかった。「なまえさん。そろそろ時間ですよ」どうやらなまえに同伴していたヒーローらしい。バングの道場はZ市にあるので、安全のための護衛だった。
「わ、本当だ。思ったより長居しちゃいました。そろそろお暇しますね」
「おう。またいつでも顔出しとくれ」
「はい。それではまた」
最後に深々と頭を下げると、なまえは静かに扉を閉めて道場から出て行った。「あ、あのぉ~」そしてなまえの姿が見えなくなった直後にチャランコがおずおずと口を開く。
「本当になまえさんとガロウは幼馴染なんですか?」
「大マジ」
あまりに正反対な二人の人間である。「世の中って分かんねえ……」チャランコがそう呟くのも無理はなかった。