ある日、霊幻がなまえの病室を訪ねると。先客がいた。なまえの友人らだ。短く切りそろえられたショートカットヘアで切れ長の眼をした少女と、おさげ髪で眼鏡をかけた少女。ショートカットヘアの少女はじとりと霊幻のことを睥睨する。彼女たちの霊幻との初対面は不審者じみたものだったので、仕方がないと言えば仕方がなかった。
「おじさん、毎日来てるそうですね」
「……」
「なまえ、嫌なら嫌って言った方がいいよ」
ショートカットヘアの少女は霊幻の姿を頭頂部からつま先まで視線を滑らすと、なまえを諭すようにしてそう言った。その発言に彼はかちんときた。反論は大人げないのでしなかったが。
「わたし、いやじゃないよ」
霊幻がなまえの元を訪ねるにつれ、彼女は本来の表情を取り戻しつつあった。現に彼女は、にこにことひとの好い笑みを浮かべそう返答する。ショートカットヘアの少女はつまらなそうな面持ちをしており、それを確認した彼はひっそりと笑った。
霊幻はなまえが心を開きつつある過程を愉しんでいた。記憶が戻るのを心待ちにはしていたが、またじっくりと親交を深めるのもまた悪くはないと、そう思い始めていたからだ。
霊幻はなまえに名を名乗っていない。自身のことを忘れてしまったなまえに名を呼ばれるのは、悲しいと感じていたためだった。名を呼ばれるのは、記憶が回復したときがいい。彼はそう考えていた。彼女も、霊幻のことを“お兄さん”と呼んでいる。なまえもなまえで、現在の関係性に不満はないようである。
「あ、もうこんな時間。……帰ろっか」
「そうだね」
時刻は十七時。少女らは顔を見合わせそう言うと、スクールバッグを持ち「なまえ、また来るね」と言い、部屋を後にした。病室には霊幻となまえが残る。
「……あの、いつもほんとうにありがとうございます」
なまえは霊幻に微笑みを向けながら口を開く。
「仕事で忙しいのに」
「気にすんな。好きで来てるんだ」
好きで、という言葉を口にするとき、霊幻はひと知れず緊張した。心情を巧みに制御できる彼にとって、その真意を汲み取られないようにするのはお茶の子さいさいではあるが、それでもなまえのことに関すると、どうにもうまく立ち回ることができない気もする。ちらりと彼女に視線を向けると、常と変わらぬ笑みを浮かべて自身のことを見ている姿を確認でき、しくじっていないことを確認し安堵の溜め息を吐く。
面会の時間が終了する時刻が迫っている。霊幻はそろそろ帰ろうと思案していた。そして「俺もそろそろお暇するよ」と言い、踵を返そうとしたとき、背後からなまえが問うてきた。
「もしよかったらなんですけど……明日もきてくれますか?」
その発言に霊幻はどきりとした。そう言われなくとも見舞いにくる心積もりだったのだが、そう言われると、まるで自身が会いに来るのを心待ちにしているようではないか! 彼は動揺を悟られぬように言う。
「言われなくても来るつもりだよ」
そう言えば、なまえは嬉しそうに破顔した。
「無理言ってごめんなさい」
お兄さんにもお兄さんの時間があるのに。控え目に口を開くなまえは、霊幻のことを気にかけているようだった。彼は内心喜んだ。
だが、“お兄さん”という言葉は、やはり霊幻にとって少なからず衝撃を与えた。名乗っていないのはだ自身だ。だというのに、どこか物悲しくなる呼び名に、彼は寂しさを覚えるのだった。
夢をみた。懐かしい夢だった。自身の隣にはひとりのニンゲンが佇んでいる。霊幻はその人物とスーパーへ行き、食材を購入し、台所で料理をしてもらい、同じベッドで寝ていた。相手の顔は靄がかかり見ることは叶わない。だが、酷く心地のよい空間だった。
出会いは唐突だった。雇っていた少年が連れて来た、未だ年端もゆかぬ少女。彼女は一眼見たときから妙なまでに視線を釘づけにしたくなるような、そんなニンゲンだった。
思えば、それは運命の出会いだったのかもしれない。霊幻にとってはそれくらい感動的なものだった。だが相手は花の高校生だ。世間一般的な視点で鑑みれば、不純な心理であると糾弾する者も少なくはないだろう。しかしながら、霊幻は自身の感情を俯瞰し、存外状態を冷静に捉えていた。それは覆しようのない事実だ。かと言って、諦めがつくわけでもなかった。
ふと、意識が浮上した。スマートフォンを確認すると、五時半だった。二度寝ができる時間帯ではあったが、不思議と目が冴えており、起床することにした。
胸の内が穏やかだった。心が満たされているからか、空腹感はなく、食事は軽く済まそうと台所の棚からカレー味のインスタントラーメンを取り出した。なまえが初めて家に来たときと同じものを。そしてポットのスイッチを押し、ぼんやりとした頭でカーテンを開けた。天気は快晴。なんだかよいことが起こりそうである。
やがて湯が沸く音がした。台所へ戻り、インスタントラーメンに熱湯を注ぐ。そして三分待機すれば、あとはありつくだけだ。
食事を終え身支度を整えると、霊幻は事務所に向かった。すると到着するや否や、ひとりの客が訪問してきた。どうやらふと気が向いて占い師に未来を見てもらおうとしたところ、凶悪な悪霊が憑いている、と言われたらしいのだ。そしてよくよく考えてみれば、肩が重く感じるらしい。客はこれは悪霊の仕業に違いないと感じ、事務所を訪ねてきたというわけである。
霊幻は頷きながら話を伺う。客は怯え、彼に救いを求めた。
「……わかりました。ではこちらの台にうつ伏せになってください」
その言葉に客は大人しく従う。そして霊幻はアロマを焚き始めた。「この匂いは……?」そう訊ねてきた客に「除霊効果のある香りを焚いています」と真剣な面持ちで言えば、客は納得し瞼を閉じた。
そして霊幻は客の肩の筋肉を揉み解すようにして手を動かし始めた。絶妙な力加減で、浅すぎず深すぎず沈み込ませる。幾度も摩り上げるように除霊を───一般的な言葉で言うなればマッサージを───施行する。三十分も経過すれば客の肩は見違えるほどに軽くなっていた。
客は満足げに料金を支払うと、霊幻に感謝を述べ事務所から出て行った。
ひと段落ついた霊幻は机の前にある椅子を引くとそこに腰かけ、パソコンを起動する。最近検索していることと言えば、専ら“記憶喪失”のことだった。どのような原因で記憶喪失に陥るのか、記憶を取り戻すためにはどうすればいいのか。しらみつぶしに調べている。だが、特筆すべき対処法には未だに出会えないでいた。
室内にはパソコンのキーボードを押し込む音と、マウスのクリック音が響く。無我夢中で没頭しているうちに、小一時間経過していた。霊幻は液晶パネルから視線を外すと、指で眉間を揉む。
少し休憩するか。茶を淹れようと考え椅子から立ち上がろうとすると、扉がノックされた。返事をすれば、新たな客が入ってくる。霊幻はにこやかに対応した。
次の依頼は心霊写真に関することだった。客は何十枚にも及ぶ写真を霊幻に手渡した。「おちおち夜も寝られないんですよ。どうにかしてください」霊幻は写真に視線を落とす。肩に白い手が置かれていたり、片足が消えていたりなど、典型的な“心霊写真”の光景が広がっている。だが、どれも文明の利器で解決できそうなものだった。
「写真はお預かりします。除霊は一日かかります。明日、また来てください」霊幻が微笑みながらそう言えば、客は安堵した表情を浮かべ事務所から出て行った。
霊幻は深呼吸してから写真をパソコンに取り込む。いかんせん枚数が多かった。これは長丁場になるぞ。そう言い聞かせ、両頬を叩いた。
ひたすらにパソコンと格闘していた。そしてようやく一息つけると視線を時計に移動させれば、時刻は十七時半になっていた。病院の面会時間は十八時までだ。霊幻はパソコンをシャットダウンすると慌ただしく事務所から飛び出した。病院に行く前にスーパーに寄り、見舞い品としてりんごをふたつ購入する。なまえの元を訪れるとき、彼は必ずなにかしらのものを用意していた。彼女の喜ぶ顔が見たかったからだ。
霊幻が病院に着いた頃には、心身共にへとへとだった。重い足を引きずるようにしてなまえの病室に向かい、慣れた手つきで扉を開いた。
「悪い、遅くなった。実は───」
疲弊し切った霊幻は深く息を吐き出しながらなまえに話しかける。「……霊幻さん?」だが、途端に硬直した。心地のよい声色で紡がれたのは、自身の名前に他ならない。
霊幻は茫然としたまま立ち尽くす。そしてよろよろと覚束ない足取りでなまえの元へ近寄った。彼女はいつも通りにベッドに腰かけている。ただ、その表情は、彼がよく見知ったものだった。記憶を失ってからの、どこか他人行儀なそれとは異なっている表情だった。
「なまえ……?」
形成される声は震えていた。聞き間違いなのだろうか。だが、その顔は、自身の知るものである。
「霊幻さん」
再度名を呼ばれ、霊幻は手に持っていたレジ袋を落とした。なかに入っていたりんごが転がる。なまえは「あ!」と言ったが、そんなことは彼にはどうでもよかった。今、なまえが自身の名を口にしている。彼にはそれだけが重要だった。
疲労が蓄積され石のように重かった身体が軽くなる。霊幻はおぼつかない足取りでなまえの元に近寄る。
「なまえ、お前、記憶が」
そう訊ねれば、なまえは微笑みながら頷いた。その様相を眼にした霊幻は、半ば泣きそうになりながら彼女のことを抱き締めていた。「霊幻さん、くるしいです」くすくすという笑い声が耳元で聴こえる。柔く華奢な、少しでも力加減を誤れば瓦解してしまいそうな肢体。だが今そんなことは関係なかった。霊幻は荒々しく、なまえが潰れてしまいそうなくらいの力を込めて抱き締めていた。
「なまえ」
「?」
言いたいことは山ほどあった。だが、そんなことよりもなまえを近くで感じていたい。霊幻はその一心だった。
やがて静かに腕を背に回され、抱き締め返される。霊幻はそれに心が満たされてゆくのを実感した。たしかに、ここにはなまえがいる。彼はそれだけで十分であったのである。
「なあ、でもどうしてなまえは俺らのことを思い出したんだ?」
場所は霊とか相談所。なまえの記憶が戻ったとのことで、霊幻は放課後の時間帯にモブを電話で呼び出し、事務所に訪れていた。霊幻はパソコンの前で腕を組み、ソファに座っているなまえのことを注視する。彼女は考える素振りを見せた。モブは静かにその様相を見つめている。「友だちが」なんとなく予想はついていたが、やはり引き金は友達。どういうわけか霊幻を毛嫌いしている友達だ。
「病院食だけじゃ飽きるでしょ、って持ってきてくれたカップラーメンがあったんです」
そう言われ、霊幻はふと思案した。
なまえと自身の間に関係のあるインスタントラーメンと言えばひとつしかない。「……カレーの」ぽつりと溢した霊幻を眼にしたなまえは、嬉しそうに頷く。
霊幻は脱力し、椅子の背もたれに身体を預ける。インスタントラーメンを───言及するのであればカレー味の───食していてよかったと心底思った。大半はなまえが調理したものを摂取していたが、たまには息抜きも必要だと伝えておいたのが功を奏したらしい。そうでなければ、いつ彼女の記憶が戻るのか定かではないし、そもそも回復するかどうかも怪しい。
「なまえさんが全部思い出すことができて、僕すごくうれしいです」
そう口を開くモブに、なまえは笑顔を浮かべている。
ただ。霊幻はひとつ、思い悩むことがあった。
談笑するなまえとモブを静かに見つめていた霊幻は、いつそのことを切り出すか、タイミングを見計らう。思わず黙り込み、実のところ心臓が跳ねている。
だが、これから自身が言わんとしていることは、なまえにとって迷惑をかけることにしかならないかもしれない。彼女が記憶を取り戻したことによって、霊幻には今まで生じていなかった壁があるかも知れないのだ───例を列挙するのであれば、恋人のことなどである。
元より覚悟はしていたつもりだった。なまえが肉体的にも精神的にも生前の本調子に戻れば、自身から離れていくということを。
だが、実際その状況下に置かれてみれば、なんと面白くないこと! 霊幻は腕を組み唸る。
なまえは黙り込んだ霊幻に気がつき声をかける。「霊幻さん」名を呼ばれ視線を上げると、顔をほころばせた彼女と視線が絡む。
「どうかしたんですか?」
「……ああ、いや」
「?」
さて、どうするか。霊幻は熟考する。
不思議そうに首を傾げるなまえを見ていると、ざわざわとした内心に見舞われる。今言わないでどうする? ほかの男のところになど渡すか。渡すものか! それは純粋な独占欲だった。大人げないとは自覚しているものの、今更引けるはずがなかった。
霊幻は椅子から勢いよく立ち上がると、ええいままよと思いの丈を吐き出した。
「なあなまえ! これからのことなんだが!」
「はい」
「……バ、バイトとか。してみる気ないか」
「え」
自身のその発言に眼を丸くするなまえに、霊幻は冷や汗が背筋を伝うのを感じた。もしかすると、今まで構築してきた関係を継続させたいと思っているのは自身だけなのかも知れない。否、そもそもなまえは霊幻の元でバイトをしていたという自覚はあるのだろうか? ここ数か月のなかで、彼らはなまえの記憶を取り戻すために様々な行動を取ってきたが、ときには別口で除霊依頼を請け負ってもいた。その際、なまえも同伴していたものの、自身のことに関してはただお悩み相談を聞いてもらっていただけ、という意識しかなかったら? 記憶が戻れば、霊幻の側にいる必要は当然ながらなくなるのだ。彼女はそのことに関して、なにか思うところはあるのだろうか?
「バイト、ですか」
「あ、ああ。……」
「……霊幻さん、わたし」
どういうわけか元気を喪失したかのように俯くなまえに、霊幻はどきりとした。「……わたし、バイト……してなかったのでしょうか」その言葉に、彼は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
どうやらなまえの考えは自身のそれと対応しているらしいのだ! 霊幻はそのことに歓喜した。「ああいや、悪い。バイトだったよな! ははは」一先ず安心した彼は、取り乱している胸中を悟られないようになまえの側へ歩み寄ると、頭を撫でた。モブはぽかんと呆けた表情でその様子を見ている。
「よかった……わたし、霊幻さんと茂夫くんの力になれてましたか?」
「ああ。当たり前だろ」
「これからも、一緒にいてもいいですか……?」
「当然。よろしく頼む」
そう言った霊幻とモブに、なまえは笑んで首を縦に振った。