事の発端は何だったか。思い出すのも面倒だ。ただ、なまえがどうしようもなく俺を苛つかせたという事だけは明白だった。いつもの平和呆けたへらへら顔は、こうやって少しばかり痛い目に遭わせただけで、あっという間に怯えた表情へと早変わり。そしてその変化は、俺の口許をだらしなく緩ませる程度には興奮できるものだった。
「へー。そんな顔もできんだね」
吐き捨てるような口振りは、もはや癖と化している。いつもの事。だというのに、なまえは今日に限ってビクリと大きく肩を跳ねさせた。まあそれも現状を惟みれば理解に容易い。肩口引っ掴まれて壁に叩きつけられて、そのままずるずると床に尻餅をついたこの状況。あーあ、カワイソウに。恨むなら自分の性格を恨めよと思う。
総べてが面倒で捨て去ったはずの人間性。それなのになまえは、棄却し切れていない僅かな残屑を、それはそれは丁寧に掬い上げてくれやがる。もはや天賦の才能だった。結局俺は、まだ優しさとかいう億劫極まりない感情に縋り付きたい、ただ一人の人間に過ぎないのである。必死に取り繕ってきた外面を、こうしていとも簡単に毀つなまえが心底憎らしいが、揺さ振られている自分自身も大概馬鹿だ。だけど、なまえはもっと馬鹿で、そして愚かだ。
床にへたり込んだなまえは逃げる素振りを微塵も見せない。逃げないのか、逃げられないのか。どちらが正答かは知り得ないが、別にどっちでもいい。逃げたら逃げたで捕まえるだけだし、逃げられないのならこのまま思い知らせるだけ。
疲弊しピクリともしないなまえを見下ろしていたら、やがて顔を見られたくないのか静かに俯いた。その行動にまた形容し難い苛立ちを覚える。感情に流されるまま荒々しく目の前にしゃがみ込んで距離を縮めると、仰々しいまでに身体を強張らせた。それでもやはり顔を上げようとはせず、頑なに視線を逸らそうとする態度は面白くない。
おもむろに、ぬうっと腕を伸ばす。するとなまえは小さな悲鳴を溢してから両腕を上げ、身を守る様な体勢をとった。殴られるとでも考えたのだろうか。そんなつもりは毛頭ないけど、その脊髄反射に、どうしようもなくぞくぞくした。怖がっている。なまえが、僕を。そう考えたら、今なまえはその腕の下で、一体どんな表情を浮かべているのか、途方もない探求心に駆られた。手始めに、伸ばしかけていた手で腕を掴んで横に退かし、次いで庇う物がなくなり無防備になった顎を掴み、力尽くで上を向かせる。「あ、」弱り切った声が鼓膜を震わせた次の瞬間には、なまえの目からポロリと大粒の涙が零れ落ちていて、それを目にした直後、背中に電流が走った。頭の天辺から爪先にかけて駆け巡る刺激が心地良い。
「ご、……ごめん、ごめんね一松くん、わたし分かったから」
「何が」
「……一松くん、が、わたしのこと、きらいだってこと」
どうやらなまえは自己完結した気でいるらしい。そんな単純な問題ではないのに。「だから、」未だ水分の膜が張っている双眸が俺を捉える。大人しく泣いてればいいのに、どうして自ら相手の神経を逆なでる道を歩もうとするのか。いつもみたいに平和主義で、締りのない笑顔浮かべてやり過ごそうとしたら、また違っていたかもしれないのに。
なまえが言わんとしていることは、大方予想がつく。無意味で無価値な松野一松という人間を拒絶する言葉。俺の欲している言葉。こんなクズな人間なんて見限るべきだと、常々考えていた。「もう、かかわらないから」それは確かに、俺の求めている言葉だった。求めている筈の言葉だった。それなのに、吐き出された言葉は何故かざくりと俺の心臓を貫く。途端に得体の知れない恐怖が背筋を撫でつけ、四肢末端が冷えたような感覚。ああそう、俺ってもしかして、実のところ……。
からからに乾いた喉を潤そうにも、唾液が分泌されてないから未遂に終わる。これ以上ない程に加速する鼓動。気づきたくなかった。なまえが、なまえの言った事が、確かに一人の人間を崖っぷちへと追い遣っている。
「ごめんね、一松くん」
訳の分からないまま絶望的な心境に陥っている俺に、更なる追い打ちがかけられる。ごめんねって何。なまえは何に対して謝っているんだ。何だこれ、状況的には圧倒的に俺が有利な立場なのに、なんでこっちが追いつめられてんの。騒めき立つ胸中には不快感しか覚えない。思わず腕を掴みっぱなしだった手に力を込めると、なまえは苦痛に顔を歪めた。ぞわぞわ、また、心地良い刺激が身体中を駆け巡る。内心はぐっちゃぐちゃなのに、何だよこれ。
もう考えるのも面倒くさくなってきた。元はと言えばなまえが悪い。こんなクズにもいい顔をするなまえが、全部悪いんだ。いっそのこと蔑んでくれればいいのに。そうしたら楽になれるのに。何でそうしないんだ。めんどくせえ。ムカつく。とりあえずブチ犯そ。