知っているか

 あの男が恐ろしかった。感情の読めぬ青い瞳───或いは、その「感情」すら所持していないのかもしれない───は、ただただひたすらに冷たく、澆薄であることを感ぜさせる。なまえは部屋の片隅で膝を抱え込み、震えていた。扉には幾十にも南京錠をかけ、易々と突破できるものではない堅固な要塞を作り上げている。
───カタン。不意に、音が聞こえた。音量は小さかったが、なまえが聞き逃すはずがなかった。ぶわりと肌を粟立つ。奴はそこにいる!  扉の目の前に佇んでいる!
───コンコン。次いで、扉を叩く音。返答しなければ、再度コンコン、とノック音が響く。

「そこに居るんだろう」

 凛とした声だった。謹厳実直で、裏表のない声音だった。
 だがなまえは知っていた。男は頭が狂っているということを。まるで人情が皆無だった。ひとならざるモノであるのかもしれない。なまえはそう思っていた。そしてそれは誤った判断ではない。
 男は部屋のなかに少女がいることを確信していた。そしてなまえは扉越しに伝わってくる彼の冷気を感じ取っている。
───扉を開けてはならない。それだけは確実だ。なまえは自身の置かれている境遇を理解していた。今すぐにでも逃げ出したいが、あいにく出口は男が見下ろしている扉しかない。
 部屋に閉じこもるのは失敗だったかもしれない。だが、そうするしかなかったのだ。安全圏は部屋しかないと、そう思っていたから。少なくとも、錠前があるだけで、なまえは救われていた。彼はなかへは入れない。そう、それだけでなまえは救われていた。
 なまえは扉の方へ振り向いた。そしてその刹那に、分厚い木製の扉の奥から、鈍色の刀の切っ先が飛び出してきたのを目撃した。目撃してしまった。なまえは悲鳴を上げると部屋の奥へと走り寄る。腰が引けていたおかげで動きはぎこちなかったが、どうにかして己を叱咤し、なんとか背を壁にくっつけ、へたりと尻餅をつく。視線は扉に縫いつけられている。
 刃はズ、と四角を描いていた。ヒトが通れる道を作っているようだった。それはまるでチェーンソーのような業前である。しかし、それよりは狂気を帯びており、べたつきどろどろとした、ただならぬ執着心があるように窺える。
 なまえの顔からは血の気が引いていた。
 やがて、なまえの望まぬ展開が待ち受けていた。四角の辺が完成し、きれいに切り抜かれたのだ。もはや扉の意味を成さない光景、なまえはかたかたと身を震わせている。
 逆光のおかげで男の表情は見えなかった。だが、そのなかでもぼうっと光を反射している青い瞳だけは、捉えることができた。
 男はなまえの元へ歩み寄り屈む。「た、たすけてください、おねがいします」なまえは震えながら必死にそう訴えかけるが、あいにく男にその言葉は届かない。

「何故逃げるんだ」
「ひっ」
「……」

 男はなまえの頬に触れる。なまえはそれだけで涙を零した。男は首を傾げる。なぜ己が引かれているのだろうか、と。彼は理解ができなかったのだ。加えて、男はなまえが距離を取らんとするのが、逃げようとするのか、それがひどく気に食わなかった。手を煩わせるのは正直鬱陶しかったのだ。
 男は、ハッと気づいた。なまえはもしかすると───

「足を切り落とせば、なまえは満足するのか」

 そんなはずなかった! 男はなまえのことを無意識下に追いつめている。彼女は泣きながら首を左右に振ることしかできない。

「っや、いやだ、やめてください……たすけて、……」

 泣きじゃくるなまえは男の眼にはいたく魅力的に映った。そして心底、己は彼女に骨抜きにされているのだと自覚したのだった。