「味薄すぎ」
苛立ちを含んだ静かな声が、ぴしゃりと投下された。少年───なまえは、不機嫌そうに口元を歪めた少女───ダイアナを一瞥し、呆れた表情で肩を竦めて「悪かったよ」と返事をした。
食卓に並べられた皿は全て、綺麗に平らげられている。ここ、ローズガーデン孤児院では、各自で使用した皿を下げる事が規則となっていたはずだが、今それを違反しようとも叱咤する大人は既に姿を消していた。しかし少年は、恐らく誰かが手を出さなければ一生キッチンシンクに下げられることの無いそれらを何てことの無い表情で重ね、自ら食器を下げる事に徹する。不平不満を真っ向からぶつけられたというのに大して心に響いていないようであった。少女もその事に気がついたのか、より眉間に力を込める。そして気に食わないと言わんばかりに足音を荒げて少年の前に立ち塞がり睥睨する。孤児院にいる子どもたちならば誰もが恐れを抱くであろう眼力だ。しかし多重の皿を持ち両手が塞がっていた少年は、それでもなお動揺する素振りを見せない。ただ淡々と言葉を口にした。
「なあダイアナ。お前は今僕が何をしているか分かるだろ? その二つの眼玉は節穴か?」
「いちいちムッカつく……! ふざけんな、ちゃんと見えてるっつーの!」
「謝罪なら述べたよ。お前が何をしたいのか、僕にはサッパリだ」
「その態度が癪に障るって言ってんの! もっと肩を落とすだの申し訳なさそうな顔をするだのしてみせな、この能面野郎」
「はいはい。ごめんよ、ダイアナ」
少年はダイアナ要求を飲み込み、眉を八の字にしてそう言った。だが彼女の求めるように振舞ったものの、その態度は第三者から見ても小馬鹿にしているように感じられるだろう。事実、少年はダイアナの事を無下に扱っていたのだ。だが少年がそうした反抗的な態度を取る事にも正当な理由がある。
つい先日、孤児院の院長であるホフマンが出て行った。彼の日記によると、己が立ち去っても孤児院はやっていけると判断したためらしい。孤児院の子どもたちは心身共に大分成長し、それに十六にもなるクララと少年もいる。だから姿を眩まそう、それがホフマンの言い分である。
けれども彼の突拍子もない行動は、意外な所から狂い始めた。クララまでもが孤児院を去ってしまったのだ。身体の弱い彼女からは想像し難い実行力に、子どもたちはざわめきだった。彼女には当然孤児院意外に行く当てもなく、一体どんな目的で出て行ったのかの憶測が飛び交ったのは、ほんの数日前の出来事に過ぎない。
更に災難は続く。院長ホフマンとクララを追うように、孤児院の料理や掃除を担当していたマーサも、謎の失踪を遂げたのである。さすがに彼女に姿を消されると生活に支障がきたされる。子どもたちはいよいよことの重大さに不安を抱いた。そんなお先真っ暗な雰囲気の中ダイアナが口にした言葉は、表情はあまり変化はせずとも、少なからずなまえに衝撃を与えた。「最年長のなまえに全部任せればいいわ」幸いにも、なまえは時折マーサの炊事を見学しており、料理に関する知識がゼロな訳ではない。よってその場は満場一致という結果に落ち着いた。
だが、見ているだけでは技術を補えないのが料理というもの。マーサは長年の経験を持ち合わせていたがために調味料の分量は目分量、ガスコンロを使用し焼いたり煮込んだり炒めたりする事も造作ない。ところが、なまえはどうだろうか。言うまでもなく、彼には経験値が皆無であった。それ故に、マーサを模倣し目分量で調味料を使用したら味付けは壊滅的にもなるし、まして火を通したりかけたりする料理も尚更の事である。そんな状況下で投下されたダイアナの不満、なまえもこればっかりは己の力のみではどうしようもないと感じていた。
「大体、僕は今まで料理をした事がないんだぞ? なあダイアナ、お前、よもやそんな人間にマーサに提供されるような飯を出せとせがんでいるとか言うんじゃないだろうな」
「……そ、こまで心狭くない」
「他の奴らはみ~んな愚痴不平不満なんて言わなかったじゃないか。僕が料理に慣れていないって理解してくれている」
「それはなまえが年長者だから言えないだけ」
「それを言うなら、僕はお前にとっても年上なんだけど」
「一人は意見できる人間がいなきゃ成り立たないでしょ」
そもそも、どうしてマーサまで。ダイアナは呟いた。その言葉になまえは含み笑いをしてみせる。ダイアナは真意が読み取れず、眉を顰めた。
「マーサは怖くなったんだ」
「……はあ?」
「彼女は世にも恐ろしいモノでも、見てしまったのかも知れないね」
「なに?……なまえ、なにか知ってんの?」
「……例えばの話、だよ」
くつくつと笑うなまえは達観しているようであり、どこか不気味だった。ダイアナ何故彼が笑うのか理解ができない。ただ、愉しそうななまえを見ていると、なんだか自分まで愉しくなってくる気がした。当然ながら、孤児院でなにが起こるかなど、微塵も察知できるはずがなく───。