なまえは震える声を洩らして周囲を見渡した。だがいくら視線を動かしても、頼りとなる存在──化之あだみの姿は確認できない。それはなまえにとって、死刑宣告をされたと言っても過言ではない状況下だった。
化之あだみ。レインコートを身に着けた、白髪で少女の姿をしている怪異である。過去に異界へ誘われ、その場所の特異性に干渉され怪異となった。混濁した記憶を有し、己が何者であるかも判断しえない存在。時たまに人間であった際のことが脳裏を過ぎることもあるが、もの思いに耽る次の瞬間には思考が毒され、結局過去のことを忘れ去ってしまう。そんな日々の繰り返しだった。
あだみが異界に迷い込んだ当初は、遭遇する怪異の言葉を理解しようと努め会話を試みるなど、その適応力は抜きんでていたものであった。時には人ならざるものと協力し合い、行手を遮ったり物分かりが悪かったりすると暴力で解決する。怪異相手にまるで臆さないのだ。
生前のあだみはなまえと仲睦まじかった。同じ学校に通い、登下校を共にする間柄だったのだ。あだみが行方不明となった事件は皆が胸を痛ませたものであり、なまえも多大な衝撃を受けた。前日まで時間を共有していたふたりである。なまえは悲しかったし、あだみに会いたかった。
異界に引きずり込まれ行方知れずとなる。謂わば神隠しに遭ったとも形容できよう。しかし、そんな夢物語があるわけがない。よって警察は事件性のあるものと判断し、捜索活動を始めた。だが彼らはあだみの失踪前の行動はおろか、失踪したと思しき範疇すらも特定できず、事件は迷宮入りかとも囁かれ始めた。
なまえはあだみが恋しかった。ただ、どういうわけかきっと再会できるという確信もあった。つまりは根拠のない自信である。けれども警察があだみを発見することができない以上、なまえにできることはなにもなかったのだ。少なくとも、なまえはそう思っていた。
あだみのいない、寂しい学校生活。なまえは毎日とぼとぼと覇気のない歩みで登校し、また自宅へと向かう。そしてある日、溜め息を吐いてから玄関の扉を開けると、ひどい眩暈に襲われた。およそ立っていられない天と地がひっくり返る感覚に思わずしゃがみ込んだ。ぐるりと眩う世界。嘔気が催される体感に、なまえはぎゅっと瞼を閉じる。
やがて眩暈が落ち着くと、なまえは恐々と顔を上げた。すると朽ち果てた屋内が視界に入る。どうやら廃墟にいるらしいことが窺えたが、なまえは己の身になにが起こったのか、即座に理解できなかった。帰宅したはずなのに一体どういうことなのかと。平衡感覚を失ったと思いきや、次の瞬間には見覚えのない建造物にいるだなんて、まるで夢を見ているかのようだった。なまえは頭のなかが真っ白になった。
ひんやりとした空気がなまえの肌を撫でる。それはどこかおぞましく、呼吸をするのもはばかられるような雰囲気だった。ゆえに「なまえ」と、ずっと聞きたかった声が己の鼓膜を震わせるだなんて予測することができなかった。
「なまえ」
己の名を呼ばれたなまえは弾けたように声の主の方を振り返る。すると、その先には会いたいと心底願っていたあだみが立っていた。彼女は制服を着ていないし、それどころか髪色まで変化していたものの、なまえは眼前の少女があだみであると確信した。ちっとも疑わなかった。
あだみは満面の笑みで抱き着いてきたなまえを抱きしめ返した。「あだみちゃん!」心底歓喜している声音に、思わず口元が歪む。なまえは己の身に何が起こったのか理解できていないのだ。なぜ気がついたら廃墟にいるのかも、あだみの容姿が変化しているのかも、傍から見れば異常であると断定できる展開なのだ。警戒のけの字もないなまえが面白おかしくてたまらなかった。実に平和ボケしている頭である。あまりに愚鈍であり多少の不安を抱かないわけではないが、だがあだみもあだみでなまえと再会したい思いがあったので、彼女にとっては好都合なことだった。
ひどく曖昧な記憶のなかで、唯一はっきり覚えていたのがなまえという存在だったのだ。あだみはいつしかなまえに縋り、救いを求めていた。それは心の安寧のほかにも。
念願の再会を果たしたなまえとあだみは手を繋いで廃墟のなかを歩いている。なまえには話したいことが山ほどあった。そして絡ませていた指をするりと解き、数歩前に駆け出したのちにくるりと振り返ったらあだみの姿が忽然と消えていたことに愕然とする。
そして冒頭へと至るわけである。
なまえはあだみとはぐれたのだと思った。そして手を離さなければよかったとも後悔したものの、もう遅い。
しんと静まり返る空間になまえはめそめそと半べそをかく。震えた声であだみの名を呼ぶが、返ってくるのは不気味な反響音だけである。コンクリート製の壁や床はところどころひび割れ、隙間に吸い込まれそうな錯覚を抱く。そんななか、なまえはどうにかしてあだみを探さなければと思案した。なにかしらの思惑があったなどと考えもせずに。
まるで音という概念が失われているかのような世界に、なまえの乱れた呼吸音が響く。腰が引けた状態で戦々恐々と一歩ずつ前進し、電気系統は生きていてよかったと心底安堵した。真っ暗だったら今ごろおっ死んでいたであろう。
「あだみちゃん……?」
か細い声は憐れなまでに震えている。なまえは現れた曲がり角からそっと覗き込むようにあだみの名を呼ぶが、やはり彼女の姿は見えない。なまえはとうとうほろりと涙をこぼした。「あだみちゃん……」めそめそと泣きながら名を呼ぶ姿は、あだみが見ればぞくぞくと快感を得るに違いない。
不意に、足音が聞こえた。なまえがそれに顔を上げる。こんな廃墟に訪れるものなどいるわけがない。したがってあだみだと信じて疑わなかった。なまえは満面の笑みを浮かべ、駆け足で前に進む。そしてぼんやりと浮き上がってくる人影を見て硬直した。
あだみではない何者かが姿を現したのだ。傘を持った全身赤色の男である。一定の速度で歩いてくる彼はどこかおどろおどろしく、なまえの足が震える。思わず俯き、彼を無理やり視界から追い出した。
男はなまえ目がけて歩いてくる。迷いのない足取りだった。そしてなまえが手を伸ばせば触れられる距離まで近づくと、静止した。ゆっくりと顔を覗き込まれ、なまえはぶわりと冷や汗が流れるのを実感する。嫌な予感がした。眼前の男が恐ろしくてたまらない。逃げなければと思うが足が動かないのだ。
不意に、男の手が伸ばされる。視界の端にそれを捉えたなまえがびくりと肩を跳ね上げる。恐怖のあまり痛みが襲いかかるであろうと推測したなまえは怯えた面持ちになるが、彼はどういうわけか彼女の頭の上に手を乗せ、優しく撫で始めた。なまえはそれに驚愕する。もしかするとあだみの友人かもしれないと考え恐る恐る顔を上げると瞳孔がかっぴらいた眼と視線が絡み、息を呑み込む。瞬く間に全身が震え始め、立っているのもやっとな状態である。
だが、男は眼こそ恐ろしいものの、なまえに暴力を振るおうとしているわけではないことが伝わってくる。なまえは困惑するほかない。
「蜷榊燕繧呈蕗縺医※縺サ縺励>」
男がなにかを口にするが、なまえは理解ができない。耳にしたことのない言語だったからである。なにも反応できないなまえに、男はさらに「蜷榊燕繧呈蕗縺医※縺サ縺励>繧薙□」と続ける。だが、やはりなまえは理解ができない。びくびくしながら首を傾げるなまえに、男は悩んでいるようだった。
しばしの沈黙が訪れる。なまえは男の言葉がわからないことに申し訳なさがこみ上げる。思わず眉尻を下げていると、男がなまえのことを指差した。「……わ、わたし?」そう問えば、男は頷いた。
「わ、わたしがどうしたの?」
続けて訊ねられた男は、じっとなまえのことを見つめる。しかし、それだけでは当然なにもわからない。わかるわけがない。男はしょんぼりと項垂れるなまえの背を摩った。それにびくりと顔を上げれば、男は己を指差し、それから再度なまえを指差した。「……あなたと、わたし……?」男は頷く。だが、やはりなまえは理解ができない。
男はしばしの間考える様相を見せると、己の持っている傘を指差した。「傘……」なまえの呟きに、男は続けて己の眼と、それから頬を指差す。「眼、と……ほっぺ……?」男がそれに頷くと、なまえは顔を明るくした。さらになまえのことを指差されれば、その仮定は確信に変化する。どうやら彼は固有名詞を答えてもらいたいのだと察知したのだ。もしそうであれば、彼は己の名を訊きたいのだという考えが及ぶ。
「もしかして、わたしの名前をききたいの?」
そう問えば、男は頷いた。「わあ、そうだったんだ」なまえはようやっと男の言いたいことが理解できた安堵で顔をほころばせる。男と視線が絡む。言いたいことが伝わったからか、恐怖は湧いてこなかった。瞳孔は開いているが。
「わたしは──」
そして嬉々として名乗ろうとした次の瞬間、口元が覆われていた。
「駄目。死にたいの?」
「!?」
「なまえを殺す権利があるのは私だけだ」
「……!?」
「諦めて」
あだみが至極面倒くさそうにそうあしらえば、男は眼を細めてなまえのことを凝視する。「諦めてって言ってるんだけど」冷たい声。どういうわけか、なまえは隣にいるのが己のよく知るあだみではない気がした。
あだみと男が睨み合っている。そのことになまえは気まずさを感じざるを得ない。おろおろとふたりを交互に見やれば、やがて男が背を向け去って行った。どこか落ち込んでいるようにも見える後ろ姿に、なまえはなんとも言えない気持ちになった。
しかし、今はそれ以上にあだみと再会できたことがうれしかった!
「あだみちゃん~!」
「泣いてるの?」
「だって……」
ひとりがこわかったと呟かれなまえにひしと抱き着かれているあだみは満足気だった。先ほど彼女の口から不穏な発言が投下されたにもかかわらず能天気である。もしくは冗談と捉えられたのか。どちらにせよ微塵も不安がらない様相は極めて都合のいい生物であると断言できるであろう。
なまえは一片の疑念さえも抱かない、単純な人間だった。そこにはある種の依存が垣間見える。なまえにとってあだみとは唯一無二の存在で、本来の化之あだみとの間で構築された信頼関係の表れだった。
なぜわかれ道もない道中ではぐれるなど摩訶不思議なことが発生したのか。その理由すらも推測できないなまえが面白おかしくてたまらない。もっとも、例えあだみの思惑が漏洩したとしても、なまえが己から離れることはないという確固たる自信があった。
優越感に浸りたかったのだ。なまえには己しかいないという錯覚を抱かせる。頼るべきはあだみという存在で、あだみという存在のみがなまえに手を差し伸べ救ってくれる。それは何物にも代えがたい、大層価値のあるものなのである。少なくとも、あだみは確信している。そう信じて疑わないのだ。
あだみは抱きつきながらめそめそと涙を流すなまえの頭を撫でる。その後方で闇のなかから現れた人影を捉えた。
聞き慣れた身体を引きずる音。這いばい男である。怪異のなかで最も常識を弁え、異界に引きずり込まれたあだみを支えた存在。ときには危機から守護してくれた人物とも言える。なまえは後方から近寄ってきている這いばい男に気がつかない。優しく撫でてくれるあだみに身を委ねている。
這いばい男はなまえの背後まで距離をつめると、ゆらりと立ち上がった。あだみすらも数えるほどしか眼にしたことのない立ち姿だ。思わず彼のことを凝視する。なまえはその移動した視線に疑問符を浮かべ追うように振り返れば、頭ふたつぶん背の高い男の出現に息を呑んだ。「ひっ!?」そのまま後ずさろうとするものの、それよりも速く両肩に手を置かれ押し倒されてしまった。見ず知らずの男との密着。そして全体重が乗せられたことと恐怖により、なまえの口からは引き攣った声しか出ない。
這いばい男はなまえの頬を包み込み、首を傾げた。どうやらあだみと親密であることを理解しているようである。ぺたぺたと顔に触れられているなまえはもはや泣きじゃくっていた。
不意に、這いばい男がなまえの首元に顔を埋める。生温かい呼吸が表皮を撫で、肌が粟立つ。「あ、あだみちゃ、たす、たすけ」形成される声は誰が聞いたって恐怖していると感じ取れるものだ。
「気に入ったの? いい匂いするもんね」
あだみはカラカラと笑い、組み敷かれているなまえを見下ろしている。その間も、這いばい男はなまえに頬ずりをして上機嫌である。
解放するつもりが毛頭ないのか、彼の行動は徐々に不穏な兆しを見せ始める。厚い舌でべろりと首を舐め上げられたなまえは硬直する。食べられてしまうのでは、という戦慄が思考回路を支配したのだ。だが、それを見かねたあだみがとうとう彼の頭を引っぱたいた。
「みんな好き勝手行動しすぎ」
はあ、と半ば呆れた様相で重い溜め息を吐いたあだみはなにか思うことがあるようだった。彼女はそのまま這いばい男をなまえから引っぺがすと、ぐったりと脱力しているなまえに手を差し伸べて立ち上がらせる。ようやく自由の身となったなまえは再びあだみにひしと抱き着いた。
なまえに慕われることの多幸感。あだみは心底それを望んでいる。事実、なまえにとってはあだみが一番大切な友人であるし、あだみ自身もそれを自覚している。だがそれだけではまだ足りない。もっと決定的な確定事項がほしいのだ。それは親友である、ということ以外にも。神髄から揺らぐなにかを。
這いばい男は手荒に扱われたものの、特段気にしているわけではなさそうで、なまえとあだみを見上げている。あだみはそんな彼を横目に、抱きしめてくるなまえの頭を優しく撫で「ねえなまえ。なまえはどうして異界に来たと思う?」と訊ねた。
「?」
「考えてもみなよ。家に帰ったら眩暈に襲われて、気がついたら見覚えのない建物の中にいたとか普通あり得ないでしょ」
「……」
「まあ私も同じ目に遭ってるからその戸惑いは理解してるつもりだけど」
「……あだみちゃんと」
「ん?」
「あだみちゃんとおそろいなら、うれしいよ。だって、大切な友だちだもん」
「………………」
控えめに微笑みながらそう返答するなまえに、あだみは眼を丸くする。そして堰を切ったように笑い出した。「なまえってほんとさ……」げらげらと腹を抱えて笑っている姿はどこか不安定である。細い糸が切れる寸前で耐えているかのように。
本来の化之あだみの記憶。彼女はそれを辿ってなまえとの接触を試みた。関わる価値のある人間だと判断したからである。あだみと最も親交が深く、まるで共依存しているかのような関係性のある人物であったという理由もある。
化之あだみは腹の底から湧き上がる途方もない興味を抱いていた。要は殺しがいのある人間であると。
「じゃあ見た目が変わってるのに私があだみだって気がついてくれたのも、大切な友達だからなんだ?」
「うん! あだみちゃんはあだみちゃんだから。わかるよ」
あだみの口角が吊り上がる。迷うことなく断言したなまえが愛おしくてたまらなかった。「じゃあさ」眼が細められる。鋭い視線。なまえと絡むそれはどこか危険性を孕んでいる。
「こうされたらどう思う?」
あだみの白い手がなまえの首を掴む。そのままぐっと力を込められ、喉元がひくついた。感情の汲み取れない双眸。なにを考えているのかがわからない。目下のあだみの脳内を占めるのはなまえのことのみである。末恐ろしい感情が存在している。なまえの眼が揺らぐ。首の骨を折るか否かの匙加減は総べてあだみにあるのだ。今己が呼吸をできているのは、彼女のほんの気まぐれなのかも知れない。
なまえは息を呑んだ。次いで、今にも消え入りそうな声で「こ、ころさないで……」と懇願する。
あだみは考える。なまえのその言葉の意味を咀嚼している。そして数秒の沈黙ののち「私が大切なんだったら私に殺されるのは本望なんじゃないの?」と続けた。
「でも、死んじゃったらあだみちゃんとお話できないもん」
「………………」
「わたしね、もっとたくさんあだみちゃんとお話したいよ」
絶句した。楽観的なことを口にしたからである。命の危機に瀕しているにも関わらずあだみを尊重する発言に思わず黙り込む。ふつふつと燃え滾る感情はどす黒い炎だ。決して気持ちのいいそれではないはずだった。ただ、あだみにとっては快感に近しい感覚ではあるのもまた否定できない。
なまえは黙りこくるあだみを心配そうに見つめる。「あだみちゃん?」その声で我に返ったあだみは、真正面からなまえのことを見据えて口を開く。
「決めた。これからも私がなまえのことを守ってあげる」
「じゃあ、あだみちゃんのことはわたしが守るね」
「その必要はない。なまえは非力なんだから大人しく守られていればいいの」
あだみは最後まで言い切る前に視線を下ろした。そのときの表情は、下から見上げていた這いばい男だけが知っている。
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