懐かれているという自覚はあった。それは確信である。周囲から取り残されている状況下で一番初めに関わった存在でもあり、頼りにされていると。親しみ深い人柄と雰囲気、言動。ヒーローとしての活動をしているなかでも、市民から慕われ、また支持されているという自負があるのだ。ゆえに、なまえにも好意を持たれているに違いなかった。そのように誘導することは大して難易度の高いものではない。むしろホークスの得意分野と表しても過言ではないだろう。相手の懐へ侵入する技術。当然、疑われることもない能力である。
何者かの個性によって異世界から来たというにわかには信じがたい境遇にある少女、なまえ。無論身寄りのない立場だ。そんななまえをホークスは匿い、保護している。本来であれば雄英に保護されるべきであるという案件に該当していたものの、特別にホークスの監視下に置かれることが許諾された。実力を認められているからだ。それになにより、ホークス自身が折れなかったということも大きい。そして雄英の教師や保須警察署よりヒーローとしての素質を刺激されるなにかがあるという判断がなされ現在に至る。強い意志を秘めた姿のホークスに、彼であればなまえを預け安全を確保できるであろうという見立てだった。
ある日の深夜、ホークスは居間のテレビの電源を消し、自室で先に休んでいるなまえの様相を確認してから己も就寝しようとした。起こさぬようゆっくりと扉を開け、電気がついていない暗い部屋を覗く。日課だった。なまえが部屋にいるのか、まさか元の世界へ帰ってしまっていやしないかという確認も踏まえてだ。個性によってホークスたちのいる世界へやってきたことから、帰還するには再度その能力を使用されるのが大前提であることは百も承知であるのだが、どうにも不安を覚えてしまうのだ。眼を離したすきに消えてしまうのではないかと。あまりにめめっちい行動に、ホークスは思わず溜め息を吐く。
ところが、本来ならば静かであるべき部屋が異様な空気で満たされている。荒い呼吸音が鼓膜を震わせる。次いで、苦し気な呻き声が聞こえた。ホークスは足音を立てないように気を配りながらなまえのもとへ近づいた。
なまえはどうやら魘されているようだった。身体を丸め、苦悶様の表情を浮かべているのだ。
ホークスはベッドに腰かけた。スプリングが軋む音がする。なまえの額には冷や汗が伝っている。思わず指で前髪をすくい、拭ってやった。するとなまえが覚醒してホークスと視線が絡む。
ひどく怯えている眼だ。そう認識すると同時に、ある異変に気がつく。
息が、できない。
「あ、ぁ、……ご、ごめっ、なさ」
ホークスはなまえと視線が交差していると思ったが、己を見ていないように感ぜられた。すぐさま緊急性の高い状況にあると危惧し、瞬時に思考を巡らせる。
呼吸ができないのは明らかになまえの個性によるものだ。震えている姿に鑑みれば、能力を抑えられず暴走していると考えられる。これはなまえの保護を引き受けホークスの自宅で生活するようになってから初めてのことだった。今までは比較的安定した日々を送ることができていたのだが、この状況を考慮すると悪夢でもみたのだろう。従って精神的に負荷がかかり、力を制御できないのだと判断を下す。ホークスはなまえが家に来てから個性が発動しているところは見たことがなかった。彼自身も制御は徐々に進めていければいいと楽観視していた。焦る必要はないのだと。しかし、目下のなまえを見てその結論が過ちであり、裏目に出てしまったと悟った。
なまえの個性は反発ではない。それだけは確かだ。
ホークスはなまえの名を呼ぼうと口を開くが、どういうわけか声も出ない。思わず視線が鋭利なものとなり熟慮する。呼吸は四分──いや、五分は止められる。その間になまえを落ち着かせなければならない。そして肩に触れようと手を伸ばした。
初対面時、逮捕した男らの身体の状態を忘れたわけではない。まるで骨というものが存在していなかったかのように腕が原型を留めていなかった。それと同じ目に遭うことは可能性のひとつとして頭のなかにあったが、今は大丈夫だという根拠のない自信もあり、なんの躊躇もなく行動に移す。
手始めに、なまえの肩に手を置く。すると骨こそ折れなかったものの、手掌の皮膚がぱっくりと裂けて周囲に血が飛び散った。鋭い痛みが襲いかかるが、ホークスは微塵も怯むことなくなまえの肩を撫でる。引き攣った声が耳に入ったと思いきや息を呑まれた。その反応に心臓が大きく鼓動した気がした。ゆるやかに口角を上げて背中をさすれば、面持ちはこわばっていたものの、今度こそなまえがホークスの姿を捉える。そこで声を出すことができることを察知した。即座に名を呼び、現実に引き戻そうと試みる。
「なまえ」
「……あ、わ、たし」
「大丈夫、ここにいるから」
「……」
ホークスの撫でる手つきに安堵したのか、なまえはさめざめと泣き始めた。よほど恐ろしい夢をみたらしい。内容は訊かずとも想像がつく。ホークスは静かになまえの涙を拭った。いつのまにか呼吸することも可能となっており、なまえを落ち着かせることができたと思惟する。
なまえは静かに身体を起こした。「ゆ、ゆめを、みて」力の入らない声だったが、ホークスの耳にはしっかりと届いている。
「だろうね。魘されてたし」
「……!? ほ、ホークスさん、手が……!」
「ああ、気にしなくていいよ」
なまえは無問題だと言いながらひらひらと手を振るホークスを前に顔を青褪めさせた。皮下組織をやすやすと突破し筋層が見えるほど派手に裂けている手掌を視認したからだ。わあわあと慌てる姿に、ホークスはどうしようもない高揚感を抱く。腹の奥底から湧きあがる形容しがたい感情に、やはり口角が上がってしかたがない。
なまえが心的外傷後ストレス障害──つまるところPTSDを起こしているのは一目瞭然である。私生活ではいたって普通に過ごすことができているが、ふとした瞬間に顔に影が走るのをホークスは見逃していない。年端もいかない少女が見ず知らずの集団に拉致監禁、加えて恫喝までされて恐ろしい思いをしないわけがないだろう。彼らに捕縛されるまでの記憶がないことも、また異世界に来てしまったという非現実的なできごとも、なにもかもがなまえの心に重くのしかかり浸食していた。
だからこそ拠り所となることに意味を見出しているのだ。
なまえは血の気の引いた顔のままベッドから降りようとするので、ホークスは腕を掴んで制し「どこ行く?」と訊ねる。すると「救急キット、もってきます」と返ってきたので納得した。確かにこのままではシーツが血で汚れてしまう。それになまえには気にしないよう伝えたものの、痛みがないわけではない。消毒し清潔にしてから手当てをする必要があるだろう。
「俺も行こ」
ホークスはとぼとぼと肩を落として居間に向かうなまえの後をついていき、棚を開けて目当ての物品を探している華奢な背中を眺める。抱きしめたらいとも容易く腕のなかに収まる体躯だ。眼を細めて凝視しているとなまえが振り返ったので視線が絡む。眉尻が下がっている様相に思わず笑ってしまった。
「ど、どうして笑うんですか……」
「んー、かわいいなって思って」
「こんなときに冗談はやめてください。わ、わたしはほんとうに心配してるのに」
「知ってる。ありがとう」
なまえはホークスの裂傷を殺菌作用のある液体が染み込んだ綿球で拭ってからガーゼを当て、傷口が開かないようテープで固定してから包帯を巻いた。その間も、負傷しているにも関わらずホークスは上機嫌なように窺えた。「……わたし」包帯を巻き終えたなまえが項垂れながら小さく呟く。
「迷惑ばっかりかけてるなって思ってます」
なまえは個性という超常能力が存在しない世界からやってきた。ゆえに、力の制御ができない。無個性だった未成熟な少年少女に突如として得体のしれない力を押しつけられたようなものだからだ。二日や三日で使いこなせるわけもないであろう。
ホークスの家に匿ってもらってから、なまえは完全な監視下、また守護下に置かれ、危険とは縁遠い生活を送っている。そこで彼はなまえの個性が発動する条件について考えた。男らに捕縛されていた際と先の悪夢、そのふたつの共通点は、なまえの身に危機が迫っていることと言えよう。本能的に個性で身を守ろうとしているはずなのだ。生命反応としても理に適っている推論に違いない。
さらに、ホークスはなまえの個性が反発ではないと解してしまった。触れたものへの攻撃性に富み、また呼吸や発声を不可能にするという身体へ与える影響。これらを踏まえると、非常に危険性の高い個性であると誰だって理解できるものだ。それはその能力を持つなまえ自身も痛いほどわかっているはず。
「俺がいつそんなこと言った」
なまえはその言葉にびくりと肩を跳ねさせる。妙に温度の感ぜられない声だと思った。怒らせてしまったものだと勘違いし、恐る恐る顔を上げる。
ホークスの口角はきれいに持ち上がっている。声音とは合致しない表情のようにも思えたが、なまえはそこまで汲み取るに至らず、苛立ちを与えてしまったわけではないのだと胸を撫で下ろした。表面上の情報しか得ることができなかったのだ。
人知れず安堵しているなまえをよそに、ホークスは涙の痕跡が残っている輪郭を包帯の巻かれている指先でなぞった。「ふふ、くすぐったい」ホークスの気も知らずにのんきなことを言う姿に、彼はやはり含み笑いをするのである。
時刻は午前二時を回ったころだった。時計を確認したなまえが口を開く。
「あの、そろそろ寝ますね」
「よかったら添い寝しようか?」
「わあ、いいんですか?」
「は!?」
「!?」
ふざけ半分で提案したというのになんてことのない顔で受け入れられようとしているので、ホークスは思わず素っ頓狂な声を上げた。それになまえもまた驚き、気圧される。「い、一緒に寝てもらえたら、こわい夢みないかなって、……」俯きながら弱々しくそうこぼされる。命の危機に瀕した夢をみれば不安に思うのも当然のことだと結論づけ、ホークスは思考を巡らせた。ひとりで就寝させて苦しませるくらいならば、色々な意味で我慢することにはなるが己の提案を吞んでもらった方がなまえのためにはなると思案した。それこそ個性が暴発してしまえば、さらに面倒なことになってしまうだろう。ただでさえ危険性の孕む力なのだ、余計な負担もかけたくなかった。
実を言えば脳内を駆け巡るよこしまな考えがないわけでもない。そんなホークスの苦悩は露知らぬなまえに、彼は笑みを向けて「じゃ、寝室行こっか」と言った。なんだか言葉として表出すると途端に生々しさを帯びる。ホークスは内心を気取られぬようなまえを自室へ入るよう促し、ベッドに横たわるのを確認した。だがホークスは隣に腰かけるのみでベッドに入る様子を一向に見せないので、なまえは不思議そうに訊ねる。
「ホークスさん、寝ないんですか?」
「俺はちょっとやんなきゃなんないこと思い出して。先に寝てていいよ」
「……そう、なんですね。……あ、あの、ホークスさん、わがまま言ってもいいですか?」
ホークスが表情筋をぴくりとも動かさずしれっと嘘を吐いたのち、なまえはおずおずと口を開く。彼はなんてことのない面持ちで「もちろん」と返答した。そして先を促すように指先で頬を撫でられたなまえの顔はたちまちにして安堵の色を見せ、やわらかく笑む。ホークスが隣にいることで精神安定剤となっているのは明白だ。それにどうしようもなく優越感を抱く。なまえに必要とされている。そのことがホークスを燃え上がらせる要因となっているのだ。
「もとの世界に帰れるまで、一緒にいてもらえたらうれしいです」
ぴたり、とホークスはなまえの頬に触れていた指の動きを静止した。「……、言われなくてもそうするつもりだから安心しな」単調な言葉。なまえは眠気の波に揺られ、その異変に気がつけない。纏う空気が変貌したことを察せないほど意識が夢のなかにあるからだ。そしてとろけた笑顔で感謝を述べる。
「ありがとうございます。……おやすみなさい」
「おやすみ」
ホークスがそう声をかけると、なまえはものの数分で眠りに落ちていった。
元の世界。なまえがいるべき世界の話だ。だが必ず帰還せねばならないと誰が決めた? 少なくとも、ここにいるヒーローであるはずの男はそう思っていない。己の立っているこの世界こそなまえがいるべき場所であると。そんなことはたとえ口が裂けても言えやしないが、彼はなまえを帰還させるつもりなどさらさらなかった。せっかく見つけた獲物だ。ホークスはまるで猛禽類のような獰猛な眼でなまえを見下ろす。すると捕食対象を前にしたかのような、ひりついた空気感が部屋に充満する。言うまでもなく、意識がすっかり夢のなかにあるなまえは気がつくことができない。もっとも、普段から平和ボケしているような少女であるがゆえに覚醒していても察知できるか危ういという事実もあった。
ホークスにとってなまえとは守るべく人間、隣に立つべく人間で、また息をするように苦楽を共にするべき存在であると信じてやまないのである。
「元の世界に帰る、ねえ……」
無表情で紡がれた感情の欠落した声は、ホークスの耳にしか入らない。
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