我ながら馬鹿げた挑戦だったと思う。勝敗が決まりきっているというのに「なあ、競争しない?」だなんて。勝負の行く末が定められている事ほどつまらないものはないだろう。しかし、こればっかりはどうしようもない。オレがいくら疑問を抱こうが世界の流れに抗おうが、そんなものは無意味の一言で全て片づけられてしまう。覆しようのない絶対的な規則がそこにはあった。只のNPCに過ぎない存在は、力無い弱者。跪いて平伏する他に道はないもの。つまるところ、オレはそういう風なセリフを吐く仕様になっているし、寧ろそういう風な展開になる事自体を避けては通れない運命なのであった。
穏やかな風が吹き、乳白色を呈するプラスチックの海が波立つのをぼんやり眺めた。地平線の彼方ではグリーンの空が水面に溶け込んでいて、希薄化された色が歪み広がっている。ゾーン3には得意先がいないし、オレも滅多な事がない限りは足を運ばない。だから目の前で繰り広げられる色味の変動は新鮮だった。
そういえばこの海は一体どんな感触がして、どれくらいの温度なのだろうか。目が痛いほどに鮮やかなオレンジの地面の淵ギリギリに立ちながら、ふとそんな事を考えた。海には入れない。それも仕様だから、という言葉で説明がつく。よってオレ達は遠巻きに、或いは今のように眼前に鎮座する実物を網膜に焼き付けながらも、毎度毎度自分の中で自己流の答えを導き出して終了、という味気ないジ・エンドを強制される。疑問が解決される瞬間なんてものは一生訪れてくれやしないって訳だ。
さあて。柄にもない物思いに耽るのも程々に、オレはぐっと上体を反らして伸びをしてから海の方へ向けていた身体を華麗にくるりと半回転させ、道の真ん中へと移動した。現在この場に直立しているという事すなわち、今回もこちら側の大勝利。まあ当たり前の話である。とはいえ、勝負を持ちかけた時のアイツはいつも通りの興味なさげな不愛想を顔面に貼りつけていたし、競争の行く末には然程執着はしないに違いない。なまえはどうだろう。あまりにも友と酷似した反応をされちゃあ、流石のオレもちょっとだけ傷つく。だが、まあ、そうだ。こういう時こそあのセリフが役に立つ。プレイヤー自身に向けた言葉は、中々に相手の心を掴んで離さない事をオレは自負しているのさ。
さあさあ足音が近づいてきた。ニンマリと仮面の下で口角が上がる。次いで真っ黒な闇の中から現れ出でたのが友の姿である事は言うまでもない。
「おぉっとっと、残念だったな、なまえ! オレの方が先に着いちゃったぜ」
大袈裟に両腕を広げながら軽快にそう言い放ったら、友は若干、本当に若干片眉を上げて妙な表情になった。めっずらしい。レア中のレア。なあ親愛なる友よ、いつものポーカーフェイスはどうしちゃったんだい? 実は淡白と見せかけて、負けず嫌いだったとか。アイツの内心を探るように思考を巡らせるが、それを口にする事は不可能。よってオレは「ま、実際はほとんど同時だったんだが、そういう風にプログラムされてるんでね」と続けた。そうして肩を竦めて腕を組むと、何故か友は一歩前進してみせてくれたが、その事実にどうしようもない違和感に支配される。動揺して身体は石のように硬直した。……なんだ? おかしいな。ああ、これはおかしい。有り得ない事態が起こっている気がする、ような、しないような。
けれども明瞭な解答が導き出される事はなかった。オレの気のせい、なのだろうか。分からない。ただ、今はそれよりも優先するべき役目がある。達成しなければストーリーが進まなくなる重大な役目だ。友に亡霊を浄化するという自称神聖な任務があるように、オレにだって必要不可欠な仕事が任されているってもんでね。
「どっちにしろ、アンタに勝てる……勝て……勝……っおぉ!? ちょっとぉ!?」
ジーザス! こんな事ってあるかよ! いーや有り得ねえ、こんなのは有り得ねえ……。オレはずかずかと歩いて目の前に来た友にビビり、セリフを途中で中断してしまった。おっかしいなあ……キャラクターが話している間は動けないはずなんだけどなあ……。
予想だにしなかった展開に一瞬思考停止に陥ってしまったが、ハッと我に返る。取り敢えず無理くり気を取り直して、今一度セリフを述べるべく口を開いた。
「どっちにしろ、アンタに勝てるチャンスなんてなかっあ痛いッ!?」
畜生。今なら言える、ハッキリすっかりキッパリ断言できる。これは明らかな異常事態だ。
NPCに分類されるオレは、本来ならば触れることは愚か、攻撃するなんてもってのほかなキャラクターに相当する。それを今、コイツは、何をした? なんだ? おかしい。世界の法則を覆すような何かが起こっている。現在進行形で、だ。
平手打ちをもろに食らってヒリヒリする頬を押さえながら、友を見た。殴った張本人ですら理解出来ていないような、怪訝そうな表情を浮かべていた。
「お、おいおい……これは一体全体どういう事だろうな?」
「なまえがいない」
「え?」
「なまえがいない」
「えっ……それってアレだろ、シャットダウン……って、そうか……それはおかしいなあ……」
プレイヤーであるなまえがセーブをしてシャットダウンをすれば、この世界の物語は進行しない。というのも、全キャラクター達がストーリーから解放されるからだ。巨大なスピーカーなるものを使って大々的な報道がされるために皆がそれを把握する、という事ではなく、各々がゲームが閉じられた事が分かる仕様になっている。世界を見守るべき存在がいなくなるというのは、この特徴的な色合いを帯びた空から伝導される大気が全く別の物、明らかに異質な物へと変貌する事を意味する。オレ達はその空気の変化を、なまえがこのゲームをしているか、またはしていないのかを判断する材料としていた。
しかし、今は確かにゲームのシナリオが進行している。言い切れる理由としては、無機質な空の向こう側に、プレイヤーであるなまえの存在を感じるからだ。上空を占めているグリーンを、目を細めながら見上げてみる。PC画面を開いてオレ達を覗き込む人物が……いる? まるでプログラムが破綻しているかのように、普段よりも情報を収集しづらい。思わず眉間に皺が寄る。やや混乱した脳味噌を落ち着かせるため頭を掻き、神経を研ぎ澄ませてみれば、ようやくなまえと思しき人物を見つけた。だが距離感がおかしい気がする。普段より近しい所に位置するような、隔てるべき壁を突き破っている、ような。
そうはいっても、なまえがシャットダウンをせずにオレ達を見守っている事に変わりはない。とどのつまり、その間は先程オレがセリフを述べている最中に友が動くなんて事態、更に言及すれば、オレがビンタをされるなんて事態は起こり得るはずがないというのに。
「なまえがいない」
「いや、いるだろ?」
「ああ、いるな。だが違う」
「……まあ、アンタが言いたい事は分かる」
「それになまえがいるなら俺は自由に動けない」
「あー……うん……ちょっと待って今考えてるから……」
「早くしろ」
「……あー……」
「……」
「一番有力な説は……バグ、とか?」
自分で言っておきながら、その単語はやけにオレの胸にストンと落ちてきた。
バグ。コンピュータープログラムは人間の手で作られる物であるが、それ故にどこかに誤りが生じる事を否めない。たった一つのゲームにすら莫大な量のソースコードが存在しているし、バグを作らない方が難しい話だ。そしてその問題点は、当然この世界にも無関係であるとは言えない。
この世界は、なまえがいるというのに彼女の存在を無いものとして捉えている。その事実を、バグが起こっていると説明すれば納得がいく。ストーリーが進行しているのに必要性の皆無なセリフをつらつらを並べることが出来ているオレ自身の状態も、目の前でボーっとしているコイツの不可能なはずだった言動も、全部。
「バグ?」
「そうそう、バグ」
「俺はどうしたらいい」
「ひとまず、なまえにゲームをシャットダウンしてもらう必要があるよなあ」
「何度も呼びかけたが返事すらしないぞ」
「……呼びかけた、だって?」
訊ねると、頷かれた。また、違和感。
バグが起こっているとはいえ、ここはたかがPCゲームの世界。謂わば、なまえにとっての箱庭に過ぎない。シナリオに関する事以外で彼女と意志疎通を図るのは、天地がひっくり返ったとしても起こるはずがない。オレ達の行動は余すところなく、完膚なきまでに規則に縛られているのだから。己の意志でプレイヤーに干渉する事が出来ないようにだ。言葉を発するどころか、口唇を縫合されたかのように口は開かなくなる。それを、呼びかけた? そんなの無理だ。有り得ない。
濃霧に包まれたように判然としない思考に苛まれる。現状を打破する策としては、やはりなまえがゲームを終わらせる事が絶対条件。彼女の意識だけが頼りだが、どうやら向こう側にも問題がありそうで八方塞がりだ。
正直、お手上げだった。全くもって理解不能の解析不能。従って、オレ達はなまえの取るべき行動に身を任せるしかなかった。
「ザッカリー。あれもバグか」
抑揚のない声に顔を上げると、武骨な指先が上空を指差している。それを追って更に顔を上へ向ければ、その先には罅割れたグリーンが広がっていた。「……ああ、きっとそうさ」頭が痛い。どうにでもなってしまえ。半ば投げやりに返事をしてから後悔した。今やなまえのキーボードに支配されていない友を前に、下手な態度はとれない。機嫌を損ねる真似をしてしまえば、再度痛い目を見る羽目になる事は想像に容易い。次は平手打ちなんて可愛らしいものではなく、愛用のバットが振り回されるに違いなかった。……しっかし、なあ友よ。オレがビンタされた意義とは果たして何なのだろうな?
ところが、当の本人は上空を食い入るように凝視していた。無表情のままに。ひたすらに。だから特にやるべき事柄もないオレも、それに倣って何となく崩壊の兆しを見せる空を眺める事にした。
ピシ、ピシ、と硝子の割れる音と類似した効果音を奏でながら、空には亀裂が走る。縦横無尽に描かれた線に囲まれた部分は、やがてブロックを形成し、真っ平だった空をみるみる凸凹にしてみせた。四角を形作った固形物は緩やかに上下運動をし、セーブブロックを連想させる。必然と生まれた空の間隙の奥に充満するのは、計り知れない闇。何故塗りつぶされたかのような黒が広がっているかというと、理由は単純明快、世界の外側はプログラムの管轄外だからだ。それはそれは虚無よりも恐ろしい空間に他ならない。好き好んで近づこうだなんて考えるのは学のない阿呆のする愚行だと言える。
それにしても、ここまで大規模なバグは初めてだ。いやはや、どうしたものか。一丁前に解決策を捻り出そうとはしているが、しょせんオレ達はゲーム内のキャラクターに過ぎず、それ故に最早手に負える範疇をとうにオーバーしていた。なまえは今どうしているのか、それだけが気がかりだ。なまえが何かしらの行動を起こさない限り、最悪この世界がバグに侵食されてゲーム自体がおじゃんになってしまう可能性も否定できない。「なまえだ」そう、命運はなまえの判断にかかっていると言っても過言ではない状況なのである。「おい。その耳は飾りか」ああ、ああ、聞いているとも。オレの耳は飾りなんかじゃない。聴覚もいたって正常だし、数十メートル先に落下した硬貨の音すら拾う素晴らしい聴力を持ち合わせているぜ、友よ。
「なまえが来る」
冗談だと思いたかった。平坦なセリフに耳を疑っていれば、どぷんと重さをもつ水音が響いた後に海に上がる乳白色のウォータークラウン。次いで、ばちゃばちゃと水をかく、というよりは、水面を叩きつける音がした。「う、嘘ぉ……」あんぐり。開いた口が塞がらないとは、まさに今のオレに完全に一致するだろう。水飛沫が跳ねる様子を茫然と見つめていると、隣の影が動く気配がした。刹那、奴は躊躇なしに液体プラスチックの中に飛び込む。どぷん、二回目のウォータークラウンが水面に形成され、オレに雨が降りかかった。温い。しかもなんかドロッとしてる。
斯くして、オレは長年胸の内に抱き続けていた解決されるはずのない疑問から解き放たれた訳だが。
「……どうすんのよ、これ」
ばっちゃばっちゃと肢体に纏わりつくであろう性質の水をかき分け真っ直ぐになまえの元へと泳ぐ友の姿に、頭を抱えたくなった。だってこんなの有り得ない話だろう。海には入れないはずなのにアイツは全身浸かってるし、なまえはこっちに来ちゃうし、気づけば細々と分離し崩れ落ちていたはずの空は綺麗さっぱり元通りになってるし。もしかしてオレだけがバグってたりする? 恐ろしい考えが脳裏を過ぎり口から乾いた笑い声が零れたものの、それは次第に近づいてくる水をかく音に掻き消され、虚しくなった。
どうにでもなってしまえ、だなんて、冗談でも思うべきじゃなかったのかも知れない。