小動物らを仕留めてだいぶ腹が膨れたアレックスとジョシュアは、血で塗れた口を洗い流すために池に来ていた。その間、どこからともなく、聞き覚えのある情けない叫び声が風に乗って聞こえてきた。一体なに事かと顔を上げると、ジョシュアの耳がぴくぴくと動いている。
その様相から察するに、叫び声の主はなまえなのだろう。
ジョシュアのなまえに対する洞察力は目を見張るものがある。当然、同じ年月を共にしてきたアレックスも、なまえのちょっとした変化には気がつくことはできる。だが、それでもジョシュアには及ばない。
「今のなまえの声だよな?」
「それ以外に誰がいるっていうのさ」
ジョシュアはそう言うと、腰を上げて走り出す。アレックスなどには目もくれず、一心不乱に全力疾走する。
「お、おいジョシュ、待てよ、どこに行く?」
突然のことに慌てて後を追う。体格差があるためすぐに追いついた。ちらりと顔を窺うと、いやに真剣な面持ちをしている。アレックスは眉をひそめた。切羽詰まっているような、なにか思っていることがあるような、そんな表情なのだ。
アレックスがそう言うと、ジョシュアは「そんなのなまえさんのところに決まってるでしょ」と、振り向きもせずにそう言った。
早くなまえのところにたどり着きたいのはやまやまだったが、彼らは彼女から距離のあるところまで来ていた。到着するには少々時間がかかるだろう。なにもなければいいが。アレックスはそう思う。冬を乗り越えた今は気温も上がってきており、クマなどオオカミの天敵も活動をし始める頃合いだ。アレックスも、なんだか不安になってきた。彼でさえなまえの身案ずるのならば、ジョシュアの心境は相当なものだろう。
そう思えば、森全体がざわざわと、不穏な空気をまとっているような、そんな気さえしてきた。肌がじりじりと震える。アレックスは顔をしかめた。
「剣呑な存在でも、招き入れたみたいだ」
「森が? へんなの」
「……言葉の綾さ」
こんな無駄口をたたいている場合ではないぞ。アレックスがそう言うと、ジョシュアは彼を追い抜くようにして足を速める。
ジョシュアはなまえに対していろいろ鋭利な言葉を口にするも、本当は彼女のことが大好きなのである。いつものつんけんした態度からではなまえは気がついていないのだろうが。その話題でアレックスがジョシュアをいじると、しばらく口をきいてもらえないから下手に触れるわけにはいかない。けれども、その辺りは素直じゃないなあとアレックスは思うのである。
とにもかくにも、彼らはなまえの元へと急いだ。
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なまえは咄嗟に意味を成さぬ言葉を口にしたけれど、それはすぐに腹のなかへと戻された。なぜなら口を───正確には顔半分をだが───大きな手で覆われたからである。なまえはめをぱちくりと丸くした。そして口をもごもごと動かす。眠っていたなまえをのぞき込んでいたのは、なにを隠そうあの三角頭の赤ずきんだった。いやはや、彼は本当になにもかもが大きいなあ。なまえは呑気にもそんなことを考えた。
そしてハッとする。ジョシュアから三角頭には近づくなと言われているからだ。今回は彼の方から近づいてきたのだが、それでもこの状態を見られるのはまずい。また怒られてしまう。
しかし、鼻まで塞がれてしまったら呼吸ができない。
「ん、んー!」
きゅっと目を閉じてそう伝えると、三角頭は存外おとなしく手を離した。それになまえは驚く。目の前の人物は一体なにをしたいのか。じとりと大した眼力もない眼で睨みつけると、三角頭は頭を下げた。その行動から、もしかすると彼はやさしいのではなかろうか、と。なまえはそう思った。
「そんなに頭をさげなくていいよ。わたしが悪いオオカミみたい……」
オオカミはニンゲンからよく思われていないのはアレックスから再三言われている。だから三角頭もなまえを殺すことなんて造作もないはずだ。だが、なまえの頭のなかでは、あの美味なリンゴの効果で警戒心が些か緩んでいるのも確かだった。それに、今はあの大きな刃物も持っていないらしい。
だが、しかし。なまえは思う。三角頭は武器を持たずとも、その筋骨隆々な体躯では自分のことなどけちょんけちょんにすることなど容易にできてしまうのだと。それこそパンチなどされたら一瞬で消し炭にされてしまうような。
思えば、先ほど口を覆われたのも、叫び声が響かないように、ひっそりと殺すつもりだったのかもしれない。
もしかすると、この状況、実はあまりよくないのではなかろうか。なまえは顔を青くしてそう思う。そう思ったが最後、なまえの胸中は恐怖で支配された。考えれば考えるほど、悪い方向にしか思考することができない。
よし、逃げよう。なまえはそう決意した。
「さ、さようならっ!」
なまえはごろごろと横に転がると、なんとか三角頭の下から抜け出す。おいしいリンゴをもらえたのは嬉しかったけれど、死ぬのは御免なのである。
それから立ち上がり、アレックスとジョシュアが向かった方向へと走ろうと思ったが、スカートの裾が突っ張って転んでしまった。顔から落ちてしまったので鼻を擦りむいた。一体なんなのかと振り返れば! なんとスカートの裾を! 三角頭の黒いブーツが! 踏んでいるではないか!
「あわわどうしよう!」
加えて、三角頭は倒れ伏しているなまえのしっぽをなんの躊躇もなくむんずと握り締めたので、本日二度目の絶叫が森にこだましたのである。
なまえは泣いた。しっぽを掴まれれば力が抜け、ふにゃふにゃとしてしまうからである。謂わば弱点なのだ。そんな部位を容赦なく握りしめられるなど、泣くしかないのである。
それにしてもその弱点をこの一瞬で見極めるだなんて、この三角頭、侮れがたし。なまえは恐怖心を抱いた。
「なまえ!」
「なまえさん!」
叫び声が響いた直後、自身の名を呼ぶ声が近づいてくる。なまえは救われた心持ちでいた。居場所を伝えようにも、脱力しているため失敗に終わるが、やがてふたりはなまえの前に現れた。それにほっと胸を撫でおろす。
「いた! あいつ、また……!!」
「なんだこの図」
「う、うう……」
ジョシュアは三角頭に捕まっている───あるいは、彼にとってはいたぶられているように見えているのかもしれない───なまえを見て、その相手に敵意を剥き出しにする。ぎり、と歯を食いしばり、鋭い眼光で睨みつける。
それに対して、アレックスは眼前の状況に困惑している。「た、たすけ、」ふにゃふにゃとした声で助けを求めるなまえに、ジョシュアは今すぐにでも駆け寄りたかったが、彼女が三角頭に捕らわれの身である以上、下手に動くことはできない。
膠着状態が続くなか、アレックスが行動に移す。
「そこの三角頭。まず落ち着こう。そしてその手を放すんだ」
どうやらアレックスは、説得を選択したらしい。なまえは祈りを込めた眼差しで三角頭の方を振り向く。彼女はしっぽがブチィッ! と引きちぎられることを恐れた。最悪の想定が脳裏を過るのだ。神さま仏さま、どうか哀れなオオカミに救いの手を。なまえはぎゅっと目をつぶった。
「なあ、頼む。なまえも痛がってるしさ、そんなことしても嫌われるだけだ」
アレックスは軟派なことを言う。そんな言葉が三角頭に響くとは思えない。だが、その発言は意外にも衝撃を与えたらしい。なまえのしっぽを掴む手が、ぶるぶると震えたのだ。その刺激になまえはまた泣いたのだが。
「嫌われたくないだろ? な? じゃあ、その手を放そう」
最後の一押しで、ようやく三角頭はなまえのしっぽを放した。なまえは力がみなぎってきた身体を起こして、ふたりの元へと駆け寄る。
いくらおいしいリンゴをくれたひととて、なまえは三角頭のことが、ちょっとだけ苦手になった。