アレックスの機転により無事三角頭から解放されたなまえだったが、今度は突き刺さる視線に泣いた。それこそ穴が開くくらい見つめられているのである。どこに瞳があるのかは定かではないが、それでもなまえは“三角頭は自分のことを凝視しているという”確信を得ていた。加えてその視線は、どうにも普通の視線とは言い難いものだった。まるで狩りをするときのオオカミのような、そんなぴりぴりとした視線なのである。なまえはそれに怯えアレックスの陰に隠れた。それを見たジョシュアは少しだけ面白くなさそうな面持ちになる。なまえはその様相に気がつかなかったけれど。
「こんなに素直に離してくれるとは思わなかったが……無事でよかった、なまえ」
「うん、うん……! ふたりとも、ありがとう」
「ねえ三角頭。ニンゲンがこの森のなかに入ってくるのはそうない話なんだけど。一体なんの用?」
ジョシュアは腕組みをし、三角頭に噛みついた。突き放すような物言いである。彼は眉間に皺を寄せて、明らかに憤っている。
確かに、ジョシュアの言うように、なまえたちが暮らす森はニンゲンが立ち入ることは滅多にないのだ。ニンゲンとオオカミの確執の境界線であるといっても過言ではない。ふたつの種族は分かり合えないという迷信が、各々にそのように引き継がれているのだ。だからこそニンゲンは得体のしれない森のなかへ入ることはあり得ないし、またオオカミも然りなのである。
ジョシュアが三角頭を非難したのはいいものの、当の三角頭はなにも反応を示さない。そもそも、彼に口はあるのだろうか。なまえはそう思った。三角の被り物は彼の顔すら見えないし、だとしたら話すことができないという可能性は十分にあり得る話だ。
すると、おもむろに三角頭はどこからともなくリンゴを取り出した。陽光にきらりと反射する、神々しいリンゴを。それは見るからに蜜がたっぷりと含まれているような、まさしくリンゴ界の頂点に君臨するかのような、そんなリンゴである。すると、三角頭はそれをなまえの方へとかざした。そして見せびらかすようにして左右に揺らす。まるで餌付けしようとしている様相である。なまえは当たり前のようにそんな誘いに乗ってしまった。口内で分泌された唾液をごくりと飲み込む。そう、彼女の心は揺らいでいるのだ!
ジョシュアには三角頭には近寄るなと言われている。だが、どうしてもあのリンゴが、甘そうでほどよい酸味がありそうなリンゴが、食べたくて仕方なかった。
「リ、リンゴ……」
「……なまえさん、馬鹿なことは考えないでよ」
「でもね、あのリンゴ、ほんとうにおいしかったの。わあ、いいなあ……」
「それが馬鹿なことだって言ってるんだ! あいつは危険因子だから!」
三角頭はリンゴを揺らす。なまえはふらふらと彼の元へ近づこうとすると、ふいに手を捕まれた。「なまえさんの馬鹿! あれは作戦だよ!」ジョシュアが必死にそう言うと、なまえの足が止まる。振り返れば、彼は涙目になっていた。どうやら彼はよっぽどなまえが三角頭の元へ行くのが許せないらしい。なまえはさすがに申し訳なくなり、後ろ髪を引かれる思いはあったのだが、今回はリンゴをもらうのをあきらめることにした。食い意地のはったオオカミでごめんね、という意味合いを兼ねてジョシュアの頭を撫でると、ぎゅうと抱きしめられる。なまえは眼をぱちくりと丸くした。なぜならばあのジョシュアが甘えてきたからだ! 常のつんけんした態度からは予想もつかない行動だったので、なまえは思わず微笑んだ。そして喜びのあまり抱き合いながらくるくると回る。
「お、おい……」
ふと、アレックスが口許を引きつらせて口を開く。その声になまえとジョシュアが振り返ると、彼はなにかを指差している。ふたりがその方向に視線を向けてみれば。そこには片手でリンゴを握りつぶしていた三角頭がいた。なまえは拳から下たち落ちる果汁すら甘そうでおいしそうだと呑気なことを考えた───のだが、どうやら今はそんな猶予はないらしい。三角頭は怒り心頭に発しており、この場に残留すれば危険な目に遭うことは明瞭である。握りこぶしがぶるぶると震え、今にも走り出しそうな態勢なのだ。
捕まったら恐ろしいことになりそうだ。そう直観した三人は、一目散に逃げたのである。
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昨日は案の定三角頭に追い回され、撒けたときには三人はほっと溜め息をついた。無事に逃げきることができたのは運がよかったのかもしれない。次に同様の状況下におかれたら、また同じように逃亡できるかは不明だ。だからこそ、より一層周囲に気を配る必要があると三人が思ったのだった。
だが、当たり前であるのだが、なまえはジョシュアにおばあさんの家の近くの湖には行くなと言われた。当然の発言だった。三角頭にとってはおばあさんの家に行くことが森へ踏み入れる理由となるだろうと推測できるからだ。もとよりきれいな湖へしばしば通っていたなまえは、そこに家があるとこはもちろん把握していた。なまえにとってニンゲンは遭遇したことがなったものだから、そもそも天敵であるという認識すら持っていなかった。だからこそなんの警戒心も抱かずに湖へ足繁く通っていたのである。つまることろ、家のことなどなまえにとってはどうでもよかった。いわば興味がなかったのだ。ゆえになまえは悲しんだ。あれほどまでの規模の湖はそう簡単には見つからないからだ。なぜかアレックスは歯切れの悪い様相を見せるが、とりあえず三人は新たなテリトリーを探そうということになったのだった。
「……」
「……なまえさん、まだ落ち込んでるの?」
「だって……」
「……はあ。あの三角頭が脅威であることは昨日なまえさんも痛感したでしょ?」
「うん、わかってる……」
「そんなに意気消沈しないでよ。だからぼくら、代わるになるところを探してるんじゃないか」
あちらこちらで草木をかき分け、手あたり次第に探索する。彼らは手ごろな湖を探していた。探し始めて数時間、一向に進展しない展開になまえは溜め息ついた。
「もういっそのこと、あの三角頭さんと」
「それは絶対駄目」
「ま、まだ言い切ってないのに。そんなにあのひとのこときらいなの?」
「なまえ、ジョシュはお前のことがイダダッ!」
「アレックスなにか言った?」
「……いや、なんにも」
ジョシュアは発言しようとしたアレックスの脛を蹴り上げ、なまえは眼を丸くする。「けんかはよくないよ」そしてなぜか喧嘩が勃発しそうなふたりを宥めたのである。
「とにかく! あの湖には近づいちゃ駄目だから。特になまえさん」
「わ、わたしだけ?」
「そう。約束だよ」
「……」
「返事は?」
「……はあい」
どういうわけかぷんぷんと怒っているジョシュアを目にしたなまえは、あの三角頭さんと仲良くなれば問題ないのでは、と本気でそう思っていたのだった。口にはしなかったけれど。
結局、三人はバラバラに湖を探す作戦を実行した。なまえは別れる際に「変な奴についていくなよ」と鋭い眼光をしたジョシュアから釘を打たれた。それに何度も頷き、しょんぼりとしながら森のなかをうろうろしている次第なのである。なまえは自分の方が年上であるにもかかわらずジョシュアの監視下───好意のあまりにそう見えてしまっているのだが───にあることに首を傾げざるを得ない。だが、そんなことはものの数秒で頭から消え去ってしまうのだった。
あっちをうろうろ、こっちをうろうろ、根気強く水辺を探してみるが、やはりおばあさんの家の近くにある湖ほどの良質なものは見つけることができない。やはり三角頭さんと仲良し同盟を組むのがいいのではないかとすら考えていた。
そんなことをもやもやと考えていると、なにやら開けた場所へとたどり着いた。別のオオカミが暮らしているかのような、そんな場所である。だが警戒心というものとは縁遠いなまえはずんずんと歩み進めている。すると、なにやら大衆が円をつくっており、思わず硬直する。慌てて側にあった草むらのなかに隠れた。さずがのなまえも、この展開には身を隠さなければと本能が言っているのだ。
大衆は、どうやらオオカミではないらしい。特徴ともいえるしっぽが生えていないのだ。なめらかな曲線を描いた体躯の持ち主。つまるところ、彼女たちは女性なのだった。開いた胸元、短いスカート、その姿はなまえにはちょっぴり刺激が強かった。思わず両手で顔を覆う。とは言え、指の間から凝視はしているのだが。
もしかすると、彼女たちがニンゲンなのだろうか。ニンゲンと遭遇したことのないなまえは、そんな彼女たちに興味を持った。
もうちょっとだけ近づいてみようかなあ。なまえは果敢にもそう思い、こっそりと腰をあげようとしたら、背中にとん、と壁に触れた。「……」なまえは珍しく尾を逆立てた。そして後ろを振り返る前に、頭に強い衝撃が加わり、そのまま意識を失ったのだ。