運命を切り抜けるおまじない


 なまえが極上の幸福を噛み締めていると、家のインターフォンが鳴った。「帰ってきたみたいね」アレッサがそう言うと同時に玄関の扉が開かれる。そしてそこから姿を現したのは───

「さ、三角さん」

 なにを隠そう三角頭だった。そう、無遠慮になまえの尾を掴み、リンゴを握りつぶした、あの三角頭である。
 なまえは耳を下げ震えている。握っていたスプーンがヨーグルトの入った皿に当たり、かちゃかちゃと音を上げる。そしてその振動がテーブルを伝い、アレッサの身体までも横揺れし始めた。そんななまえの様相に、アレッサは溜め息をつく。先行きは長い戦いになりそうだと、そう思ったのだ。

「おかえり。早かったわね」

 アレッサがそう言うものの、三角頭の視線は尚もなまえのことを突き刺していた。なまえも、彼が自身のことを見つめていることを察知した。やはりどこに眼があるのかは定かではないのだが、それでも、またまた凝視されていることになまえの恐怖心はむくむくと膨らんでゆく。おまけにちょっぴり涙を浮かべた。
 ふと、なまえは三角頭の後ろにも誰かがいる気配に気がついた。「ねえ、邪魔なんだけど?」やや苛立ちを覚えているかのような声色に、なまえの耳がピンと立つ。
 なまえのことを穴が空くくらいに見つめ微動だにしない三角頭の身体を力尽くで避けて現れたのは、ウサギであった。オーバーオールを身につけ、ぴくぴくと鼻を動かしたそのウサギは、ずかずかと家の中に入り、そしてなまえの隣の椅子に荒々しく腰かけた。それを目にした三角頭はわなわなと震える。なまえの興味は既にウサギの方へと向いたので、その変化には気がつかなかった。否、気がつかなくていいのだ。そんな彼の変化を目にしたら、ただでさえ恐怖の対象になっているというのに、それを助長させる要因にしかならないからである。

「わあ、ウサギ! わたし、初めてみた」

 なまえがそう言いウサギの耳を触ろうとしたら、その腕を捕まれ、飛び上がる。「本人の許可なく触れんなよ」怒っているのだろうか、地を這うような声音に、なまえはまたまたまたちょっぴり涙を浮かべた。

「アレッサから聞いてたけど、本当警戒心の欠片もないオオカミだな」

 ウサギはぐるりと首を回しなまえの顔を見つめる。「あんた、自然淘汰されなかったのが不思議なくらいだよ」ある種の感嘆の声を上げるウサギに、なまえはぱちぱちとまばたきをする。

「ロビー。その手を離しなさい」
「いいじゃん。面白いことになりそうだ」
「離しなさい」

 低い声でそう言うアレッサに、なまえは僅かながらの恐怖感を抱いた。彼女のことは怒らせない方がいいのかも知れない。そう思ったのだ。

「別に、取って食おうってわけじゃないよ」

 溜め息混じりにそう言ったウサギ───ロビーは、おとなしくパッとなまえの腕を解放する。なまえは自由になった腕を下ろすと、興味深そうにロビーのことを見つめた。その視線には、少なくとも三角頭に向けられるような恐れは見て取れない。

「僕にも煮リンゴ頂戴」

 ロビーはそう言うと、アレッサは超能力を駆使して皿を棚から取り出し、鍋にある煮リンゴを乗せ、その上にヨーグルトをかけた。先ほど眼にした能力だというのに、その現象に眼を奪われたなまえは、瞳をきらきらと輝かせている。恐らく、なまえは過去に眼にしたものであったとしても、いつだって目新しいものを眼にしたような反応を示すのだろう。そんな純粋ななまえのことを、アレッサは微笑ましそうに見つめる。
 そしてロビーの前に皿が置かれると、彼はスプーンを手にし、ガツガツとヨーグルトを食べ始める。異常なほど辺りに飛び散らしながら。案の定、ロビーの口の周りにはヨーグルトがべったりと付着している。

「ロビーくん。口についてるよ」
「気安く名前呼ばないでくれる?」
「え、あ、ごめんなさい……」

 ツンとしてそう言ったロビーに、なまえはしゅんと耳を下げた。そんな彼女の様相を見たロビーは、三角頭の方を振り返る。すると、そこにはわなわなと拳を握りしめている彼の姿があった。それを見たロビーは、にやりと口端を吊り上げると、「謝らなくていい。……そうだね、なまえだったら僕のことを名前で呼んでもいいよ」そして愉しそうにそう言った。

「いいの?」
「そう言ったろ」
「! うん、うん、ありがとう!」

 途端に上機嫌になった#なまえを見たロビーは、本当に無防備な奴だなと、そう思った。これでは振り回されるような未来しか見えない。だが、それはそれで面白そうだ、ロビーは鼻歌混じりに「別に。礼なんて不要だよ」と言った。
 そんなロビーに親近感を抱いたなまえも、鼻歌混じりに再びヨーグルトを食べ始める。気がつけば一人前を食していた。だが、美味なるリンゴの効能か、まだ食べることができそうだった。

「アレッサちゃん。おかわりってしてもいいの?」

 なまえがそう訊ねると、アレッサは嬉しそうに「もちろんよ」と口を開く。そして再び超能力を使用しようとしたとき───三角頭が動いた。
 玄関で立ち尽くしていた三角頭は、ロビーに燃え上がるような嫉妬をしていた。ただ、その変化は拳を握り締めるだけに留まるものだから、よほど注視していなければ、気がつくことはできないだろう。
 三角頭はなまえの元へと歩む。なまえはそれに再びぶるぶると身体を震わす。だが、此度の彼は、幸運にも勘違いされるような行動は回避することができた。
 なまえの前にあった皿を掴み、鍋の方へ歩くと、そのなかに煮リンゴを入れる。そして冷蔵庫からヨーグルトを取り出すと、スプーンを用いて煮リンゴの上にかけた。その流れでなまえの前に皿を置く。なまえは眼を丸くして皿と三角頭を交互に見つめた。

「え! あ、ありがとう」

 なまえはしどろもどろになりながら感謝を述べた。するとおもむろに、三角頭が腕を上げた。なまえは殴られるのではないかとびくりと震え眼を瞑り身を竦めたが、その大きな手は、ただ頭の上に置かれたものだから疑問を抱く。そっと眼を開けると、なでなでと優しく撫でられ、その心地よさに耳を垂らした。
 アレッサは微笑する。その光景が、彼女の望むようなものだったからだ。単純な───尤も、そう思っているのはロビーであり、アレッサは純真無垢であると思っているのだが───なまえのことだから、三角頭への恐怖が薄れると考えていたからだ。
 アレッサのその読み通り、なまえはぱたぱたと尾を振り始める。それに三角頭は満足げに頷くと、ロビーとは反対側の、なまえの隣の椅子に腰かけた。そして至近距離でジイ、と彼女のことを見つめる。

「三角さん、ありがとう!」

 なまえは蕩けそうな笑顔でそう言うと、おいしそうにヨーグルトを頬張り始めた。近距離にいる三角頭のことを恐れもせずに。
 彼らのこの距離感は、三角頭が求めていたものだろう。アレッサはそう考える。なまえの警戒心が解かれているのだ。ようやく親睦を深めるためのスタートラインに立てたのである。
 ロビーもまた、そんなふたりのことを見つめていた。

「ああ、そうよ。忘れるところだったわ」

 三角頭となまえの微笑ましい様子を、まるで自分のことのように見つめていたアレッサは、ハッと思い出したように声を上げる。

「ロビー、あなた、なまえに謝りなさい」
「は? なんで僕が」
「武力行使しろ、なんて言わなかったでしょう」

 なまえはアレッサのその言葉に、きょとんと首を傾げる。

「私がなまえを此処に連れてきて、と頼んだのはロビーだったのよ」

 なまえは理解ができない風に疑問符を浮かべている。そして、あ! と言った。

「頭のたんこぶのこと?」
「そう。ロビーの安本丹がね」

 アレッサは申し訳なさそうにそう言うが、当のなまえは、そんなことはどうでもよかった。ただただ美味しいリンゴを食べられたというだけで、彼女のなかの思考や感情は、総てその食欲に向けられているからだ。「気にしなくて大丈夫だよ」にこにことそう言うなまえを見て、アレッサは少々不安を抱いた───この様相では、例えば自分以外のニンゲンにも、たぶらかされる可能性も否定できないのではないかと。事実、なまえは平均よりややずれた脳みそをしているので、そのような不安を覚えるのも当然のことだった。

「……悪かったよ」

 ロビーが面白くなさそうにそう言うと、なまえは満面の笑みで彼のことを見つめ、「大丈夫!」と返事をする。そしてそんな彼女を見ていると、なんだか不穏なことを想像してしまう自分がいることに驚いた。だが三角頭がいる以上は下手に動くことはできない。ロビーはなにかと勘違いだろう、とその感情を振り払った。
 おかわりを完食したなまえは、椅子から降りて立ち上がる。「そろそろ帰らないと、ジョシュくんとアレックスさんが心配しちゃう」その言葉に、三人は頷いた。だが、玄関の方に向かう直前、アレッサが言った。

なまえ。私達以外のニンゲンには警戒しなさい。あと、例えどんな命令をされたとしても、絶対に従わないこと」

 なまえはその発言によくわからないような様相であったが、しっかりと頷いた。

「何かあったら三角頭がいるから。その時は彼を頼るといいわ」

 アレッサが三角頭へと視線を移すと、なまえもそれに従った。「じゃあ、指切りげんまん!」突然そう言ったなまえに、三角頭は慌てたように立ち上がる。
 そして彼はなまえの元へと歩み寄り、ぶるぶると震えた手を彼女の前に持ってゆく。

「? どうして震えているの?」
なまえ、いいから。気にしないの!」
「? う、うん! ゆーびきーりげんまん!」

 三角頭はなまえを見上げるような目線になるように屈んだ。そして節くれだったゴツゴツした指と、白くてちいさく、柔らかななまえの指が絡まる。三角頭の震えは未だに収まることを知らない。
 そして約束を交わしたなまえは、玄関の扉を開け、丘の方へと走り去って行った。何度か振り返り、手を振る彼女は大層かわいらしかった。そしてなまえの姿が見えなくなるまで、三人は見送ったのだった。