なまえは丘を登りきると、そのまま小走りで森林のなかへ足を踏み入れた。もしかするとアレックスとジョシュアは目ぼしい湖を見つけたかもしれないし、そうではないかもしれない。
沈みかける太陽を見るに、どうやら夕刻のようだった。その時刻を考慮すれば、既にふたりは合流しているはずだ。そしてその場に自分がいなければ、心配されるに違いなかった。なまえは今までどこでなにをしていたのか、当然ながらその点を問われることに不安を抱いていた。
「……あ!」
なんと説明をつければいいのか、なまえがモヤモヤと悩んでいると、なにやら話し込んでいるふたりの姿を見つけた。すると残念ながら、彼らを目にして喜んだなまえの頭からは、その心配事がすっかり頭から抜け落ちてしまったのだった。
駆け寄ってくるなまえに気づいたアレックスは、慌てたように彼女の元へと走る。彼の顔には安堵が窺える。
「アレックスさん、ジョシュくん!」
「……」
「なまえ! ああ、ようやく見つけた……今までなにをしてたんだ?」
当然の質問である。その問いを聞いたなまえは、ハッと気づいた。あれほど打開する説明に悩んでいたというのに、ふたりと再会できた喜びにかき消されていたということに! そして心のうちで自分を戒める。どうしてわたしはいつもこうなのだろう、と、反省したのだが、恐らく再び同様の展開になることをなまえは知らない。
アレックスはなまえのことを見つめる。「怪我は……してないみたいだな。よかった」心配そうに自身の姿を確認する彼は溜め息をつくと、なまえの頭に手を乗せ、優しく撫ぜる。その行動になまえは耳を垂らしてにこにこと笑顔を浮かべた。先の三角頭のことを思い出したのだ。あの、本当に美味な、煮リンゴを準備してくれた彼のことを。
なまえの彼に対する印象は、すっかり塗り替えられていた。単純だと思われるかもしれないが、それは彼女の長所でもあり短所でもあるかもしれないものなのである。
アレックスに続くようにのろのろと歩き近寄ってくるジョシュアは、どうやら虫のいどころが悪いようだった。なまえはそれに眼を丸くする。
「ジョシュくん? どうしたの?」
自身の様子を心底理解していないなまえに、ジョシュアは爆発した。
「なんでぼくが怒ってるってわからないの? なまえさんはやっぱり大馬鹿だ。なんなの? 約束しただろ、三角頭と接触するなって! その耳はなんのためについてるんだよ!?」
なまえはなぜ自分が三角頭と会っていたことを知っているのだろう、と不思議に思うと同時に、ジョシュアに多少の恐怖を抱いた。まるで殴りかかってきそうな───否、殴ることはジョシュアの本望ではないし、彼もまたそれを望んではいない───剣幕だったからだ。
声を張り上げて、怒りのあまり顔を歪めたジョシュアは、なまえにとって戦慄の対象だった。それはまるで良からぬことを考えているような、そんな面持ちだったから。
第二次成長期の真っ只中にいるジョシュアは、腕力で言えばなまえのことなどいとも容易く手込めすることができるだろう。それを垣間見せる彼に、畏怖したのだ。
「ご、ごめんね、ジョシュく───」
「なんであいつに会ったの」
「え、それは、あのね、アレッサちゃんが───」
「……チッ」
なまえは慌てて説明しようとするが、イライラとしているジョシュアは、その続きを口にさせてくれない。なまえはぽろりと涙をこぼした。
すると、彼らの様子を見かねたアレックスが仲介に入る。「ジョシュ、あんまり責めるな」そしてジョシュアの肩に手を乗せようとしたのだが、それを払われまばたきする。
「落ち着けよ」
「なんでアレックスはそんなに落ち着いてるんだよ?」
「怪我してないんだから、そこは喜ぼうぜ」
「……」
「なあ、なまえ。あいつはどんな様子だった?」
あいつ、とはもちろん三角頭である。なまえはアレックスの助け舟に乗っかる。「あのね、三角さんは───」そこでまた、舌打ち。
「随分親しくなったんだね」
「ジョシュ。まず話を聞こう」
「……」
「なまえ。続けてくれ」
「……う、ん……」
なまえは泣きながら口を開く。「三角さんは、三角さんはね、わたしにリンゴを準備してくれたの……わあああん」いくら眼を拭えど、涙は止まってはくれない。しゃくり上げるなまえを見たジョシュアは、怯んだ───さすがに、言い過ぎたかもしれない、と。
罰が悪そうに足元を見つめているジョシュアに、アレックスは小さく笑った。「なあジョシュ、少なくとも三角頭は敵ではないとわかったんだから、ここは良しとしようぜ。な?」顔を覗き込みながらアレックスがそう言うと、ジョシュアは気まずそうに小さく頷いた。
「ジョシュくん、ごめんね、ごめんね」
そして泣きながら抱きついてくるなまえに、ジョシュアはとうとう折れた。華奢な背中にぎこちなく手を回し、ぎゅうと抱き絞める。自身よりちょっぴり身長が高いが、追い越すのも時間の問題だろう。彼は首元に顔を埋め、なまえの甘い香りを肺に満たした。そんななかで、ジョシュアは自己嫌悪に陥っていた。
ジョシュアは決してなまえのことを嫌ってはいなかった。寧ろその正反対なのである。だからこそ、自然と眼光が鋭くなってしまうのだ。それは謂わば束縛だった。だが、それが彼にとっての愛情表現だった。
いつだって素直になれないジョシュアを、アレックスが心配そうに見ているのは日常茶飯事なのである。彼は冷や冷やしながらふたりを見守ることしかできない。ただ、今回のような、ジョシュアが感情的になる場合は、さすがに仲裁に入る。怒りのあまり暴走してしまったら、それこそなにが起こるか、想像に容易い。そしてそのような展開になると、後悔するのはジョシュアなのだ。それは避けねばならないと、兄であるアレックスは思案しているのである。
ジョシュアに執着されているなまえは、そこにどのような感情が秘められているのか、気がついていないのだろうけれど。彼の愛情表現は、いつだって大きく迂回している。
ジョシュアにとってなまえとは、歳上のはずなのに、ぽやぽやとしているおかげで目を離せたものではない。けれども純真無垢で、心が綺麗ななまえは、ジョシュアにとっていつしかかけがえのない存在になっていた。
それにどういうわけか、彼女は自身の見えないところで騒ぎに巻き込まれている。だが、それもそのはず、ジョシュアがいるときはなまえのことを引っ張ってくれるのは彼なのだから。彼は自然と面倒ごとから回避することができるようになっているのだ。とはいえ四六時中、二十四時間目を眼を見張るわけにもいかない。
しかしながら、想いを伝える覚悟ができないジョシュアも、彼ながら悩みの種である。
なまえにとって、ジョシュアとはあくまで家族なのだ。彼もそれは痛いほど承知している。そしてその感情は高く分厚い壁となりジョシュアの前に鎮座している。
家族。血縁について着目するなら、厳密に言えば彼らは家族ではない。血は繋がっていないのである。しかしあまりにも共に時間を過ごしてきたおかげで、彼らは密接な関わりを持ち、そしてまるで本物の家族であると、そのような関係性に落ち着いているのだった。
なんの躊躇もなく抱きついてくる点も───ときには恋人つなぎをしたり、無防備に隣ですやすやと眠ったりしている───ジョシュアは肯定的に受け止められなかった。望まずとも触れられるのは正直嬉しいものの、そこには家族愛以外のものは含まれていないのだ。彼はそれを痛感し、顔を歪めるほかない。
ジョシュアはもやもやとした感情に支配され、自然と抱きしめる力が強くなっていた。「ジョシュくん、あのね、ちょっと苦しい」そしてそう言われ、ハッと我に帰る。
すん、と鼻をすする音がして、なまえは優しくジョシュアの胸板を押す。離れる身体に、彼どこかは寂しさを覚えた。
「ごめんね、ジョシュくん」
ジョシュアはそれに小さく頷くと、なまえは嬉しそうに破顔する。
せめてもの償いなのか、ふとジョシュアはなまえの眼元に優しく口づけた。こんなことは初めてである。その行動に、アレックスはおや、と思う。
それは理性的な挙動だった。ジョシュアはなまえのこととなると、どうにも本能が働いてしまうのだが、今はそれを微塵も感じさせないのだ。今回の出来事で、彼はひとつ階段を登ったのかもしれない。
当のなまえは嬉しそうに尾を振るだけで、そこにどのような感情が秘められているのか、知る由もなかったけれど。